第678話 第三章「帰る扉」後編
第五切断艦の固定翼が、あと十五度で閉じる。
「止めるには翼の間へ標を入れる」とニア。
「標?」
「二世界の境界根ではない物を、境界根として誤認させる」
「偽装?」セレナ。
「一時的な測角誤差。発射後まで続ければ偽装。固定を止め、正しい値を送れば遅延」
「遅延は何秒」
「四十から六十」
「十分」とハル。
「まだ代案なし」ニア。
「作る時間」
「成功率」
「今から上げる!」
「根拠なしの前向き」ロロ。
「さっき自分が言った!」
ハルは細索へ新しい鉄輪を付ける。
「どこへ」エリア。
「翼の間」
「距離百八十。境界下、八秒ごとに反転」
「投げる」
「届かない」
「俺も行く」
左肩を回す。
痛み一。
抜け感二。
「腰索二本」とエリア。
「一本で」
「二本」
「動きにくい」
「戻れないよりいい」
「帰る話と混ぜるな」
「戻る条件を先に付けているだけ」
ハルは黙る。
エリアの言葉は、今の作戦だけに向けたものではない。
「二本」
「受領」
「ニア化」
「聞いた!」
腰へ二本。
一方はゼロスター号。
もう一方はエリアの地図槍。
地図槍へ人をつなぐのは、彼女にとって怖い。
自分が描いた道の先で誰かが死ぬことを、何より恐れている。
それでもエリアは線を持つ。
「右十五。次の反転で下が前になる」
「前が下」
「説明を短くしないで!」
「身体は分かる!」
ハルは飛ぶ。
一。
二。
三。
境界下が反転する。
落ちる方向が横へ変わる。
ハルの身体は切断艦へ投げられる。
海水の粒が周囲を飛ぶ。
地球の小魚が一匹、アステリアの雲へ入って驚いている。
驚きの表情は魚にあるのか。
少なくとも口は開いていた。
ハルは魚を掴む。
「何してる!」ロロ。
「救助!」
「今!?」
「今しか!」
魚を腰の水袋へ入れる。
行動が一つ増える。
左肩の負担も増える。
「ハル、撤退条件!」エリア。
「肩三、索一本切れ、反転二回失敗!」
「現在肩」
「二!」
「正確に」
「二・五!」
「一回で終えて!」
切断艦の白翼。
翼間へ鉄輪を投げる。
届く。
輪の中には、王都下面で使われた古い圧力石。
アステリアの重力根と似た振動を持つ。
白翼の測角線が、石へ吸われる。
翼の閉鎖が止まった。
『異物標。再測角』
切断艦の自動声。
「四十秒!」ニア。
ハルは戻る。
境界が反転する。
腰索が地球側へ引かれる。
灯台が近い。
近いという錯覚ではない。
裂け目が移動し、ハルの身体から地球の海まで数十メートルになっていた。
波の音が聞こえる。
凪浜の海。
向こうの防波堤。
赤い自転車が一台、灯台下の道を走っている。
母の自転車ではない。
似ている色だけで、心臓が勝手に名を付ける。
「ハル!」
エリア。
「あと三十メートル!」
「戻って!」
「地球まで!」
「ゼロスター号まで!」
「今なら行ける!」
「行けることと、戻れることを分けて!」
索が張る。
ハルは地球へ落ちる方向と、ゼロスター号へ引かれる方向の間にいる。
帰るなら今。
少なくとも身体は届く。
海へ落ち、泳ぎ、灯台へ上がれる。
凪浜まで走れる。
母の店の戸を叩ける。
だが、戻る道はない。
箱は戻らなかった。
索も通らなかった。
今地球へ行けば、エリアたちはこちらへ残る。
父は境界へ進む。
切断艦は地球側を閉じる。
帰ることが悪いのではない。
今の帰り方を選べば、他の選択が消える。
「一、二」
三が言えない。
助けを求める時だけ、ハルは三を言えない。
「引いて」
エリアは聞き返さない。
「全員、引く!」
ゼロスター号。
エリア。
カイル。
バズ。
ロロの二本腕。
索が巻かれる。
ハルの身体が、地球から離れる。
自転車の赤が小さくなる。
灯台の白が遠ざかる。
戻ったのではない。
今は渡らないと選んだ。
その違いを、誰かが記録しなければならない。
「記録」とセレナ。「凪野ハル。地球側への物理到達可能距離まで接近。本人の要請で帰船。帰還意思なし、とは記さない」
「帰りたい」とハル。
「記録します」
「戻れる道も欲しい」
「それも」
エリアは索を持ったまま、息を整える。
左肺が浅い。
本人が先に言う。
「呼吸、三。路図、四十秒休止」
「俺が線持つ」ハル。
「地図針へ触らないで」
「線だけ」
「具体的には」
「腰索の張りを維持。黒線が動いたら、声」
「頼む」
命令形ではない。
ハルは線を持つ。
エリアはしゃがみ、呼吸を数える。
彼女が弱さを申告したため、地図は消えない。
誰かへ渡せたため、道は続く。
測角遅延、残り十秒。
ソウジの測量艇が境界中心へ到達する。
潮骨笛が鳴った。
六つの穴のうち、三つ。
地球の海が持ち上がる。
アステリアの雲が沈む。
灯台の光が裂け目を横切り、測量艇の船腹を白く照らした。
ハルの故郷の光が、父の船を見つけた。
『ハル』
ソウジの声。
「何」
『灯台が見える』
「俺も」
『帰れる』
「今は片道だ」
『だから、両方をつなぐ』
「勝手に?」
通信の向こうで、義手の歯車音が一度止まる。
『話す。こちらへ来てくれ』
「どこへ」
『測量艇』
「父親の船へ乗れば、父親の計画を聞く側になる」
『聞いた上で断ればいい』
「断れる止め方を先に見せろ」
灯台の光が消える。
十二秒後、また来る。
その間に第五切断艦の測角が再開した。
白翼が閉じる。
故郷の海が、刃の間で細くなる。
ソウジの測量艇から一本の接舷索が放たれた。
ゼロスター号へ。
父が息子へ差し出したのは、手ではなかった。
船から船へ渡るための道だった。