第679話 第四章「父の第三案」前編
第三案は、たいてい美しく聞こえる。
戦うか、逃げるか。
開くか、閉じるか。
救うか、切るか。
その二つを拒み、別の道を示す者は賢く見える。
だが三番目であることは、正しさの証明ではない。
最初の二案を誰が並べたか。
三案の外へ何を置いたか。
その道を作る間、誰が待つか。
第三案もまた、問い直されなければ新しい二択になる。
【現実/二世界境界・無方向薄層/覚醒/地球沿岸確認から四分】
無方向薄層は、静かだった。
静止しているわけではない。
地球側へ落ちる力。
アステリア側へ落ちる力。
逆潮環へ引く力。
三つが一瞬だけ同じ強さになり、互いを消している。
四十三秒ごとに位置が移る。
静かな場所が、船より速く逃げる。
ソウジの一番測量艇は、その薄層へ帆を差し込んだ。
ゼロスター号は船尾へ接舷する。
終端艦は攻撃しない。
地球側の切断配置を続ける。
「交渉時間、最大二周期」とセレナ。
「八十六秒?」カイル。
「次の薄層へ追随できれば延長」エリア。
「交渉が移動式」
「止まった会議より速い」とハル。
「おまえが言うと褒め言葉に聞こえん」
ソウジ艇の後部甲板へ、三本の索が渡される。
一本は人。
一本は工具。
一本は緊急切離し。
ニアが三本目を確認する。
「誰が切る」
「ゼロスター側、ロロ。測量艇側、ソウジ。どちらか一方で切れる」とエリア。
「片側だけで?」
「緊急離脱」
「相手を残して逃げられる」
「逃げられない接舷は拘束」
ニアは反論しない。
代わりに、切離し索へ白札を付ける。
『使用時、理由と時刻を残す。』
「札で止まる?」ハル。
「止まらない。後で『自然に切れた』と言えなくする」セレナ。
ハルが先に渡る。
腰索。
右手。
左肩は身体へ寄せる。
エリア、セレナ、ニアが続く。
カイルはゼロスター号へ残り、盾と操船を担う。
ロロは通信越しに工具箱を監督する。
『箱の右上、銀の六角!』
「右上に銀が四つある」とハル。
『大きい方!』
「大きいのが三つ」
『父親の艇、規格が古すぎんだよ!』
「俺の艇ではない」とソウジ。
『そういう細かい訂正は速い!』
ソウジの左前髪の銀筋が、地球の海光を受ける。
ハルとは左右逆。
似ている。
似ていることは、正しさを継承しない。
「図面」とハル。
ソウジは艇中央の測量卓を開く。
紙である。
星光板ではない。
地球製の方眼紙、アステリアの薄皮紙、逆潮環の耐水布。
三種類を糸で継いでいる。
「何で紙」とエリア。
「二世界境界では誓術記録が同じ位相へ固定されない。紙は濡れるが、勝手に別の意味へ更新されない」
「長所の言い方が父と同じ」とハル。
「誰と」
「俺」
「嬉しい」
「今言うな」
図面には二つの円。
地球。
アステリア。
円と円の間へ、細長い管が一本。
中央に潮骨笛。
周囲に五つの遠隔反応座。
「六天鍵を集める図ではない」とセレナ。
「集めない。各地へ残したまま、反応だけを同期する」
「許可は」
「取っていない」
「即答」ハル。
「隠せば同じ失敗になる」
「隠してないから進めていい?」
「違う」
「でも進める」
「時間がない」
「出た」
ソウジは図面へ指を置く。
「現在、境界は一つの傷口として開いている。入口と出口が同じ線へ重なり、潮刻ごとに向きだけが変わる。だから海水と空気が交互に流れる」
「分かってる」とロロの通信。
『続けろ。知ってることを省くと、知らない部分まで省く』
「恒久接続案では、境界を管へ変える。地球側とアステリア側に圧力室。中央を潮骨笛で固定。五つの遠隔反応を安全弁にする」
エリアが図へ顔を近づける。
「管径」
「初期十メートル。安定後三十」
「人と船が通れる」ハル。
「救援物資も」
「海水も」とニア。
「下層へ排水路を作る」ソウジ。
「どの下層」とハル。
「アステリア側は逆潮環の空洞海。地球側は外洋へ戻す」
「外洋の場所」
「凪浜沖から南へ約四十キロ」
「誰に聞いた」
「地球側の海図は失踪前のもの」
「今の漁場、航路、町は」
「分からない」
「分からない海へ水を出す?」
「流量を制限する」
「止める方法」
ソウジの指が、一拍止まる。
「遠隔五座のうち三つが拒否すれば閉じる」
「閉じる設計、どこ」とエリア。
「次頁」
めくる。
次頁は半分しか描かれていない。
「閉鎖後の圧力逃がしがない」と彼女。
「未完成」
「閉じたら管内の人と水は」
「待避室へ」
「待避室の位置」
「未決」
「戻り先」
「選択可能にする」
「どうやって」
「設計中」
「何で未完成の恒久接続を今使う!」ハル。
「今の裂け目は、あと二十七分で自然拡大が不可逆域へ入る」
「根拠」セレナ。
「圧差増分、裂け目縁の曲率、潮骨笛の共振」
「測定記録を」
ソウジは三枚の紙を渡す。
隠してはいない。
数字もある。
危険も書いてある。
善意の計画である。
だからこそ、止めにくい。
「小径試験をする」とソウジ。
「恒久化の前に?」ハル。
「管径〇・二。流体だけ。十秒」
「許可は」セレナ。
「地球側は取れない」
「なら地球へ出さない」とエリア。「測量艇の中で、地球圧室とアステリア圧室を仮設する」
「世界二つを船内の樽二つで再現?」
「似せるだけ。世界だとは言わない」
測量艇の左右へ透明な圧力袋を固定する。
右へ地球海水。
左へアステリアの雲凝縮水。
中央へ細い管。
管の途中に、潮骨笛の共振だけを写す骨片。
「本人じゃなく模型」とロロの通信。
「骨片はいつ採った」とセレナ。
「沈没都で剥離していたもの」とソウジ。
「記録番号」
即答する。
「持ち出し許可」
一拍遅れる。
「緊急調査用」
「誰が許可」
「私が」
「本人許可は許可ではありません」
「今返す?」ハル。
「試験後、沈没都共同体へ返却。使用記録を添える」とソウジ。
「先に言えばいいのに」
「先に訊かれなかった」
「訊かれないことを待つ癖!」
試験を始める。
右袋の地球海水が、中央管へ入る。
左袋へ出る。
質量計が動く。
「右、減少二百グラム。左、増加二百」とセレナ。
「消えてない」とハル。
「当然だ」とソウジ。
「当然を確認するのが試験」とロロ。
五秒。
右袋の表面が凹む。
「圧力低下」とエリア。
「補気弁を」ソウジ。
「地球側の空気を入れる想定?」
「そうだ」
「なら空気も移る」
「戻し管で」
「図面に戻し管がない」
「追加する」
「追加する間、右側は?」ハル。
「停止」
ソウジが弁を閉じる。
中央管の中に、海水が残る。
「これが待避室?」ハル。
「小径なら管内」
「人が通ってる時に止まったら」
「途中待避区画」
「未決の場所」エリア。
「そうだ」
「そこに何分待つ」
「圧力が戻るまで」
「誰が戻す」
「両側の管制」
「片側が閉じたら」
「もう一方へ出す」
「出したくない側だったら」ハル。
「本人の選択を事前登録」
「気が変わったら」
「通信で」
「通信が切れたら」
ソウジの指が止まる。
透明管の中央に、水が一滴、浮いている。
地球にもアステリアにも出られず、二つの圧力の間で丸くなる。
「父さんの第三案、ここに人を置く」
「待避させる」
「言葉を変えるな。置く」
「死なせないためだ」
「待たせる時間を誰が払う」
「管制が短くする」
「短くできなかった時、誰が説明する」
無方向薄層が移動した。
測量艇が傾く。
透明管が固定具から外れる。
「管!」
ハルが右手を伸ばす。
左肩で受けない。
身体を回し、腰索で止める。
管をつかむ。
中の水滴が、地球側へ滑る。
ソウジが反対端を押さえる。
二人で水平へ戻す。
「水平?」ハル。
「今は無方向だ」
「じゃ何を基準に!」
「二つの袋の圧力が等しい角度」
「水平じゃなく均圧!」
「言葉は短い方が作業に向く」
「短くして意味を隠すな!」
エリアが圧力を読む。
「右へ二度。止め。左袋を〇・一上」
「どの上」
「私の槍を十二時!」
親子は同じ管を持ち、エリアの基準へ合わせる。
水滴が中央へ戻る。
十秒試験が終わる。
右袋から左袋へ二百グラム。
中央管へ三十グラム。
圧力差、〇・四。
「成功?」カイルの通信。
「流れた」とソウジ。
「止めた後、戻せてない」とハル。
「両方」とセレナ。「通過試験は成立。停止後返送、未成立」
「第三案の半分」とエリア。
「半分ではない。入口側だけ」とソウジ。
「入口だけを成功と呼ぶと、出口が失敗へ押し込まれる」
ソウジは透明管を見つめる。
「出口を作る」
「誰と」とハル。
「……共有する」
「今、初めて言った」
「記録しろ」
セレナが記す。
共有すると言ったこと。
誰と共有するか、まだ答えていないこと。
前進と欠落を、同じ行へ混ぜない。
「恒久接続の危険を列挙」とセレナ。
「両世界の気圧平衡。地球側の局地海面低下と反動津波。アステリア側の雲海密度低下。誓星術が地球側へ漏れる可能性。地球の電磁設備がアステリアの星晶へ干渉する可能性。未知生物、病原、物資、軍事利用」
「多い!」ハル。
「伏せない」
「伏せなきゃ許される量じゃない!」
「開いたままなら、制御なしで同じことが起きる」
「閉じる案」ニア。
「地球側を切れば、アステリアは安定する可能性が高い。地球側の反動範囲は不明。二度と同じ座標を見つけられない可能性がある」
「だから恒久接続」ハル。
「開くか閉じるかではない。制御された道へ変える」
「三番目」
「そうだ」
「父さんの三番目」
ハルは、この境界事故が始まってから初めて、そう呼んだ。
父さん。
ソウジの義手の歯車が一つ止まり、また動く。
「俺も第三案が好きだ」とハル。
「知っている」
「分かった顔」
「すまない」
「謝るな。最後まで聞け」
ソウジは黙る。
ハルは図面の二つの円へ指を置く。
「開きっぱなしの傷か、地球を切るか。その二つの間に、恒久接続を置いた。三つに見える」
「見える、ではなく三案」
「でも、全部『今すぐ世界単位で決める』案だ」
「期限がある」
「誰が期限を決めた」
「境界」
「境界は喋った?」
「測定値が」
「二十七分で何が不可逆か、全部分かってる?」
「全てではない」
「なら二十七分でできる小さい接続を探す。十メートルじゃなく一メートル。恒久じゃなく一潮刻。人と水を同じ入口にしない」
「その間に拡大する」
「拡大を止めるだけの固定と、往来を分ける」
「潮骨笛の孔が分離制御できる証拠はない」
「ないから調べる」ロロ。
通信越しの声。
『父親、骨筒を俺へ回せ』
「今は境界固定に必要」
『固定してねえ。持ってるだけ』
「中心で試す」
『試す前に分解』
「分解すれば共振が」
『分解しねえ。孔と傷を見る。機械を触る人間は、壊すか動かすかしかないと思ってんのか』
ソウジが一瞬、笑いかける。
「似ている」
『誰に!』
「私に」
『最悪!』
「嬉しい」
『親子そろって今言うな!』