第686話 第七章「潮骨笛の周期」後編

 三回目は、七秒ではなかった。

 五秒。

 終端艦が許す時間ではない。

 境界が耐える時間である。

「試験目的」とセレナ。

「角度と六孔の残留通路を再現。水量〇・一。無機物だけ」とロロ。

「対象」とエリア。

 ハルの配達鞄から、小さな金属箱が出る。

「何入ってる」とロロ。

「壊れた時計」

「まだ持ってたのか」

「持ち主待ち」

「万華鏡都市から!」

「時間が止まってるから待てる」

「上手いこと言って保管費を逃げるな!」

 箱へ紐。

 中へ時計。

 外へ重量札。

 流体と、まとまった物体。

 潮骨笛が来る。

 ロロは五孔を薄く塞ぎ、口径を縮める。

 三孔へ角度針。

 四孔は一秒。

 六孔側を地球へ向ける。

「吹くの誰」とハル。

「ソウジ」

「こっちにいない」

「送気管」

「機械で吹く?」

「人の息を神聖扱いすんな。圧が同じなら笛は笛」

 ソウジが測量艇側から送気する。

 低い音。

 金属箱が境界へ引かれる。

 同時に海水も動く。

 箱は地球側へ。

 海水は一度こちらへ来て、六孔側の細い筋から地球へ戻る。

「箱、通過!」セレナ。

「流体、戻り率六十二!」エリア。

「全部じゃない」ハル。

「孔が半分塞がってる」とロロ。

「再現成立」とセレナ。

 紐を引く。

 戻らない。

 箱は地球側へ行ったまま。

「戻りは別」とエリア。

「入口を限定しても、復路は自動じゃない」

「でも海水は戻せた」ハル。

「人と水を同じ扱いにしなくて済む」

「今は箱」とセレナ。

「人へ使えるかは未検証」ニア。

「検証する時間」

「二分未満」

 潮骨笛を戻す。

 終端艦の六本杭が同時に光る。

 地球の灯台が、針の穴ほどになる。

 ロロは骨傷の拡大像を作業台へ映す。

 樹脂。

 治癒した骨。

 六孔の奥に、小さな薄板。

「弁」とカイル。

「出口弁」とロロ。

「動く?」

「一回は動いた痕がある」

「何回」

「古い摩耗、たぶん数百。傷の後は……一回」

「さっき?」ハル。

「違う。樹脂の内側に一筋。傷を塞いだ後、誰かが一度だけ開けた」

「いつ」セレナ。

「年代は出ない」

「誰」

「出ない」

「目的」

「出ない!」

「怒らないで」

「分からないを三回続けると、修理工は負けた気になるんだよ!」

「なら四回言えば勝ち越し」とハル。

「分からない!」

「勝った」

「何に!?」

 ニアは像を見ている。

「樹脂を剥がせば、弁が戻る」

「剥がすだけなら」とエリア。

「骨ごと割れる」とロロ。

「傷の境界を切る」とニア。

 彼女は箱へ目を向ける。

 六本の機械腕。

 その内側に収められた細い工具。

 黒い二枚刃。

 刃の間隔は髪一本より狭い。

「断層楔」とロロ。

「樹脂と骨の荷重線だけを分ける」

「おまえの工具」

「旧シザー・クラウン用。生体鍵は外した」

「手で使える?」

「右は触覚零。左は二。圧を読めない」

「じゃ無理」

「声で圧を渡せば」

「誰が読む」

「ロロ」

「俺の手、痺れてる」

「補助腕」

「二本しか動かねえ。一本は固定、一本は拡大鏡。楔を持つ腕がない」

「私が持つ」

「圧が分からない」

「あなたが言う」

「遅れたら割れる」

「遅れない」

「そういう自信が嫌なんだよ」

 ニアは黙る。

「もう一つ」とロロ。

 自分の工具箱から、三歯の小さな輪を出す。

 再機用の手動歯。

「弁は十五年前の位置を覚えてない。樹脂剥がしても、閉じたまま。俺の再機で、最後に正常だった一動作だけ戻す」

「あなたの工具」

「俺の調整。俺の手順」

「同時」

「楔で荷重線を分けながら、歯で一動作戻す。先に切れば骨が割れる。先に戻せば弁が樹脂へ食い込む」

「二人必要」とエリア。

「二人じゃ足りない」とセレナ。「構造確認、現場鍵、記録鍵」

「三鍵はエメ、ニア、私」とロロ。

「おまえは構造と作業、重複」とニア。

「じゃエリアを構造確認」

「地図は内部荷重を直接見ない」

「セレナ」

「私は記録。構造判断はできません」

「ソウジ」とハル。

 全員が測量艇を見る。

「設計図を持つ」とハル。「笛の現在位置も。構造鍵に入れられる」

「本人が恒久化を進めてる」とロロ。

「だから停止鍵は渡さない。構造確認だけ」

「信じる?」

「信じない。使う。記録する。間違えたら止める」

 信頼と利用は違う。

 疑うことと協力しないことも違う。

 家族であれば、なおさらである。

「工具を交換」とニア。

「まだ」ロロ。

「必要」

「分かってる」

「貸して」

「今は貸さない」

「理由」

「俺が、おまえの工具でまた誰かを切る気になった時、止められるか分からない」

「私は、あなたの工具で過去を戻した気になるかもしれない」

「そう」

「交換条件を作る」

「何」

「目的限定。時間限定。互いに返却。単独使用禁止。失敗時、責任を『工具が合わなかった』へ逃がさない」

「多い」

「少ない」

 ロロは笑いそうになり、やめる。

「あと一個」

「言って」

「作業中、俺をロロ坊って呼ぶな」

「了解、ロロ」

「早い!」

「条件」

「もっと揉めろよ!」

 交換は、口約束で終わらせなかった。

 ロロは作業台の下から、古い排水弁を引きずり出す。

 逆潮外縁の救命艇に使われていたものだ。白い骨材と灰色の樹脂が固着し、弁は半分しか開かない。潮骨笛ではない。壊しても世界は割れない。

「練習台」とロロ。

「時間」とニア。

「四十秒」セレナ。

「短い」

「本番より長い」

「事故条件」とニア。

「骨材割れ、樹脂片飛散、工具落下、補助腕停止、どっちかが単独で続けた時」

「最後、事故?」ハル。

「事故の手前」とロロ。「止めないと事故」

 ニアは黒い二枚刃を工具箱から出す。

 自分の工具だ。

 だが自分では持たない。

 柄をロロへ向ける。

「渡す」

「貸す」

「違い」

「渡すは今ここで手から手。貸すは返す約束まで含む」

「預ける」

「使い方の判断を相手へ置く」

「今回は」

「貸す。判断は共同。返却は作業終了直後」

「受領」

「まだ持つな。右手、痺れ」

「補助腕で」

「左下は固定。右上は刃。自分の左手で圧目盛」

 ロロは配置を変える。

 四本腕用に作られた作業手順を、二本の補助腕と一本半の手へ縮める。

 減った手を、気合で増やさない。

 工程を減らす。

 置き台を増やす。

 落とした時の受け網を張る。

 職人の熟練とは、身体を無限に使えることではない。使えなくなった身体へ、仕事の方を作り直す技術でもある。

 ニアはロロの三歯輪を受け取る。

 右手ではない。

 左手も触覚は二。

 透明な把持具へ輪を入れ、握力計を外側へつなぐ。

「感触は読まない」と彼女。

「読めない、だろ」

「結果は同じ」

「経路が違うって、さっきの伝羽にあった」

 ニアの目が少し細くなる。

「読んでいた」

「文字は読める」

「私の報告書は」

「長い」

「読んでいない」

「要約は」

「誰の」

「エメ」

「偏る」

「原文を読め」

「七日後」

「逃げるな」

「保留」

 ロロが笑う。

 笑いが和解だと、誰も決めない。

「開始」とセレナ。

 ニアが三歯輪を弁座へ当てる。

 ロロは二枚刃を樹脂と骨材の境へ差し込む。

「右へ一」とロロ。

 ニアは輪を右へ回す。

「止めろ!」

 止まらない。

 半歯ぶん進む。

 樹脂が、ぱき、と鳴った。

「停止!」セレナ。

 ニアは手を離す。

 輪は把持具に残る。

「遅れ〇・四秒」とセレナ。

「『止めろ』の相手が不明」とニア。

「おまえ!」

「工具か、私か、作業全体か」

「全部!」

「三つを一語にした」

「緊急時に長く言えるか!」

「短く分ける」

「どう」

「『輪止め』『刃止め』『全止め』」

「漢字で聞こえねえ」ハル。

「音が違う」とニア。

「今のは全部と全止めが近い」とエリア。

「じゃ『輪零』『刃零』『作業零』」ロロ。

「零は故障報告にも使う」とセレナ。

「言葉が足りない!」

「世界は言葉より壊れ方が多い」とハル。

「いいこと言った顔すんな。手伝え」

 ハルは白板を三枚作る。

 輪。

 刃。

 全部。

 声が聞こえない時は板を上げる。

 板が見えない時は索を一回、二回、三回引く。

 同じ命令を、声、目、触覚の三経路へ置く。

 触覚のないニアには索合図を使わない。

 右眼の遠近が不安定なロロには、板を近くへ置く。

「人ごとに合図が違う」とカイル。

「公平じゃない?」ハル。

「同じ合図を配るのが公平なら、聞こえない者へも音だけ配ることになる」セレナ。

「じゃ違う合図で同じ停止」

「それです」

 二回目。

 弁座の別の場所を使う。

「刃、〇・二」とロロ。

「圧目盛?」ニア。

「刃先進入。おまえは輪をまだ回すな」

「輪待機」

「そう。樹脂層、一枚。二枚。骨材へ触れた。輪、右〇・一歯」

「右は誰基準」

「弁正面、ニアから見て時計回り」

「長い」

「正確」

 ニアが回す。

 三歯輪が、一動作ぶんだけ弁を戻す。

 ロロの二枚刃は、樹脂の荷重だけを逃がす。

「もう少し」とロロ。

 ニアは止まる。

「曖昧」

「〇・〇五歯」

「目盛なし」

「握力〇・三追加、時間〇・二秒」

「実行」

 弁が、かち、と開いた。

 水滴が一つ、旧い管から落ちる。

 成功ではない。

 潮骨笛と材質も、荷重も、傷の年代も違う。

 しかし二人の間に必要な言葉が、一つ増えた。

「返却」とニア。

 工具を台へ置く。

 手から手へは返さない。

 片方は触れず、片方は痺れているからではない。

 今の条件が、作業終了直後の返却だったからである。

 ロロは自分の三歯輪を取り、歯を検査する。

 ニアは二枚刃の刃先を目で追う。

「傷」と彼女。

「樹脂粉だけ。研げば落ちる」

「費用」

「練習費。共同」

「割合」

「今決めるな。時間が壊れる」

「時間は返せない」

「伝羽、そこまで読んでたのか」

「全部」

「俺の報告書も読め」

「七日後」

「また保留!」

 セレナは試験記録の最後へ書く。

【第一試行、指示語の曖昧さにより樹脂亀裂。第二試行、数値化・複数経路の停止合図により弁一動作。潮骨笛への適用安全は未証明。】

 失敗を削らない。

 うまくいった二回目だけ残せば、後から読む者は、二人が最初から通じ合っていたと思うだろう。

 通じ合っていないから、条件を作った。

 条件があるから、通じ合わないままでも、一つの作業はできる。

 地球側境界が、さらに閉じる。

 残り一分三十二秒。

 潮骨笛の六つの孔は、初めて六つの機能として見えた。

 重力方向。

 地球側入口。

 アステリア側入口。

 持続時間。

 通過量。

 出口。

 最後の一つだけが、古い傷の下で動かない。

 世界を閉じるか、開き続けるか。

 二択を生んでいたのは、宇宙の法則ではなかった。

 一つの壊れた弁だった。

 そして弁を直すには、互いの手をまだ信用できない姉弟が、互いの工具を持たなければならなかった。