第685話 第七章「潮骨笛の周期」前編
楽器は、鳴った音だけで判断される。
機械は、動いた結果だけで判断される。
だが、古い楽器と古い機械には、鳴らなかった音と、動かなかった動作の方が多く残る。
塞がった穴。
削れた歯。
前の持ち主が避けた角度。
壊れた日にだけ使われた応急処置。
歴史家は文書を読む。
修理工は、文書にならなかった諦めを読む。
【現実/二世界境界・ソウジ測量艇とゼロスター号の中間索/覚醒/地球側切断まで三分五十八秒】
「渡せ」
ロロは言った。
『何を』とソウジ。
「笛」
『今は固定具だ』
「固定できてねえ」
『測定値は安定している』
「入口が地球とこっちで交互にひっくり返ってるのを、安定って呼ぶなら、転んで左右の膝を順番に打つのも歩行だな」
『比喩が正確ではない』
「修理工へ正確な比喩を求めるな。正確な分解図を出せ」
『分解図はない』
「持って逃げて、分解図なし?」
『逃げてはいない』
「じゃ無断持ち出し」
『緊急移送だ』
「言い換えで請求額は下がらねえ!」
ロロは船首の作業台へ両足を固定した。
補助腕は二本。
右上と左下。
右下の三番腕は取り外したまま、黄色い作業上着の背で空の軸受が揺れている。もう一本は根元だけ動くが、握力を出せない。本人の右腕には痺れが残り、細いねじを長くつまむと、人差し指が勝手にほどける。
それでも工具帯は四本腕用のままだ。
空いた工具が、持ち主を待つように鳴る。
「検査時間」とセレナ。
「見て、嗅いで、舐めて二十秒」
「舐めないでください」
「骨だぞ。塩の向き見るには舌が早い」
「感染」
「じゃ嗅ぐ」
「感染」
「見るだけで感染する世界もあったな」
「だから保護具を」
「会話の出口が全部規則!」
「生存率が上がります」
セレナが薄い透明膜を差し出す。
ロロは受け取り、口と鼻を覆う。
「これで舐めていい?」
「舐められません」
「罠!」
エリアは二隻の間へ路図を引く。
一本ではない。
人用。
工具用。
笛用。
緊急離脱用。
同じ場所を結ぶ四本の線。
「笛だけを滑らせる」と彼女。「人の接舷はしない。ソウジ、固定台から外せる時間を正確に」
『次の潮刻直前、七秒』
「外した瞬間の境界変動」
『地球側流入、推定一・八倍』
「七秒で戻す」
「七秒で機械を診ろって?」ロロ。
「骨笛」
「骨笛も機械! 息を入れれば動く構造物は機械だ!」
「肺も?」ハル。
「修理できれば」
「エリアの肺を修理して」
「人間の部品は勝手に外せねえ」
「機械も勝手に外すな」とニア。
「誰の台詞だよ!」
ニアは、箱へ収められた六本の機械腕を見ない。
見ないことを選んだのではない。
今は見る時間を別の作業へ使っている。
「七秒では外観だけ」と彼女。「周期を三回取る。船位、圧力、穴ごとの風音を同期」
「閉鎖まで三分半」とカイル。
「三回で百二十九秒」セレナ。
「残り一分」
「切断艦は待たない」とハル。
「待たせる」とニア。
「どうやって」
「誤差を送る」
「嘘?」
「誤差。現在の境界根は固定杭で形が変わった。旧計算のまま撃てば、切断面が地球側へ九メートルずれる」
「本当?」
「測れば分かる」
「分からせるまで時間がかかる」
「それを送る」
ニアは第五切断艦へ数値だけ送る。
止まれとは言わない。
延期しろとも言わない。
誤差九メートル。
地球側既知船舶の退避線と接触する可能性。
再測角推奨。
終端艦は二秒で返す。
『再測角、八十四秒』
「買った」とハル。
「借りた」とニア。
「返す相手」
「両側」
時間は所有できない。
使った後に返せないからである。
人が「時間を買う」と言う時、実際には誰かの危険を後へ送り、別の誰かへ利息をつけている。
最初の潮刻。
「三、二、一」セレナ。
ソウジが潮骨笛を固定台から外す。
地球の海が裂け目へ盛り上がる。
アステリアの雲が下へ引かれる。
ゼロスター号の船首が二メートル沈む。
笛は、二隻の間へ張られた細い籠へ滑ってきた。
白い骨。
長さはロロの前腕ほど。
片側が太く、反対が細い。
六つの孔。
表面へ海塩と星砂が層になっている。
重力を吹き替える骨笛〈タイド・ボーン〉。
笛と呼ばれるが、旋律のための楽器ではない。
吹き込んだ息の圧、塞いだ孔、向けた角度に応じて、その場の「落ちる方向」を別の方向へ言い換える。
質量を軽くしない。
海を消さない。
船を飛ばさない。
海にも船にも、「あちらが下だ」と教える。
教えられた世界は、素直すぎる生徒のように落ちる。
「持つな!」ロロ。
ハルの手が止まる。
「持ってない」
「持とうとした」
「受け取ろうと」
「今ここで言い換えを争う?」エリア。
「機械の前では動詞が大事!」
ロロは籠ごと回す。
右上の補助腕へ拡大鏡。
左下へ塩採取片。
自分の左手で光を当てる。
右手は痺れを避け、台の縁へ固定。
「一孔、縁摩耗、内から外。二孔、外から内。三、左右差。四、煤。五、星砂固着。六――」
「六」とニア。
「見えねえ」
「骨傷の下」
「傷じゃなく成長線」
「違う。骨折治癒。外周を一度割っている」
「いつ」
「古い。私が見た資料より前」
「資料見てたの?」
「終端議会の禁制器目録」
「また後出し!」
「聞かれなかった」
「家族会話で一番危険な返事!」
七秒。
「戻す!」エリア。
籠を押す。
潮骨笛が測量艇へ戻る。
ソウジが固定台へ差し込む。
海が落ちる。
雲が持ち上がる。
船体が反動で跳ねる。
カイルが深紅の盾を一拍だけ展開する。
水圧を止めない。
船首へ直撃する流れを左右へ割る。
「一拍!」セレナ。
「もう消した!」
「痛み」
「二」
「正確に」
「二・七」
「次は一拍未満」
「拍を小数で数える文化にしない?」
「身体の損傷は文化ではありません」
ロロは採取した塩を黒紙へ並べる。
白。
青白。
薄金。
「色が違う」とハル。
「地球塩、アステリア星塩、逆潮の骨粉」
「舐めてないのに分かる?」
「結晶角」
「舌、いらなかった」
「確認は多い方がいい」
「舐めたいだけでは」セレナ。
「修理工への偏見!」
ニアが紙を覗く。
「一孔は地球側流入時に濡れる。二孔はアステリア側。三孔は両方の塩が交互」
「入口選択?」エリア。
「まだ仮説」とセレナ。
「四孔の煤は」とロロ。
「吹いた回数じゃない?」ハル。
「内壁に等間隔。短い燃焼を繰り返した痕」
「持続時間」ニア。
「五孔の星砂は、角度に沿って溝」
「重力方向」エリア。
「じゃ六孔」ハル。
全員が骨傷を見る。
白い盛り上がり。
傷を塞ぐように、半透明の樹脂が塗られている。
「出口」とロロ。
「何で」とカイル。
「他が全部、入れる側の痕だから」
「消去法?」
「修理は、壊れてない所を順番に疑わなくする仕事」
「推理みたい」
「推理が修理に似てんだよ。どっちも、犯人より先に壊れ方を見る」
セレナが証羽を近づける。
羽は赤にも青にも変わらない。
「証羽は、物理機能の仮説を真偽判定しません」
「便利じゃないな」とハル。
「便利さを求めて証拠を壊さないでください」
「褒めてる」
「言い方が褒めていません」
ノクスが黒紙へ鼻を寄せる。
地球塩で一度。
星塩で二度。
樹脂でくしゃみをした。
「匂い」とハル。
「油樹脂。逆潮環の旧船渠で使う型」とニア。
「終端議会?」
「もっと古い。議会成立前」
「誰が塞いだ」
「不明」
「父親?」
「傷は十五年以上」ロロ。
「じゃ違う」
「ソウジが上から塗り直した可能性は」セレナ。
「樹脂表面を次で見る」
不明を、不明のまま残す。
この場で最も高価な技術は、天鍵でも誓星術でもない。
分からないことへ、都合のいい名前を入れない技術だった。
二回目の潮刻。
「今度は孔へ細糸」とロロ。
『異物を入れるな』ソウジ。
「直径〇・三。内壁傷つけない」
『共振が変わる』
「変える。変わり方を見る」
『境界で実験する規模ではない』
「恒久接続は境界で実験する規模?」
通信が止まる。
「答えろ、父親」
『同じ欠陥を指摘している』
「なら、欠陥の小さい方を選べ」
『細糸一本でも、孔の機能が逆なら地球側流量が増える』
「だから一孔ずつ。七秒。停止条件、圧八、流量一・二倍、船位五メートル」
『誰が止める』
「おまえ。俺。エリア。三者のどれか一つで即時戻し」
『一者停止』
「試験は一人で止められる。再開は三人」
ソウジは三秒考える。
『受ける』
「許可じゃねえ」
『聞いた』
「その癖、感染してる!」
潮骨笛が再び籠へ来る。
ロロは一孔へ細い銀糸を半分だけ入れる。
「一孔、塞ぎ率三」
「流れ」とエリア。
「地球側入口、低下十七パーセント」セレナ。
「アステリア側変化なし」ニア。
「一孔、地球入口」ロロ。
二孔。
「アステリア側低下十五」
「入口が別」とエリア。
三孔。
糸を入れた瞬間、ゼロスター号の床が壁になった。
「うわっ!」
ハルが横へ落ちる。
腰索が張る。
カイルは手すりへ膝を打つ。
ノクスは最初から壁を走っている。
「重力、九十度!」セレナ。
「三孔、方向!」ロロ。
「戻せ!」エリア。
糸を抜く。
床が床へ戻る。
「五孔じゃなかった」とハル。
「仮説訂正」とロロ。
「悔しくない?」
「壊す前に間違えた。得」
「修理工の金銭感覚!」
四孔。
潮刻の切替えが遅れる。
一秒。
二秒。
三秒。
「持続」ニア。
「四孔、時間」
五孔。
笛の音が細くなり、境界の口径が縮む。
「幅」とエリア。
「対象量か」とロロ。
六孔は塞がっている。
細糸すら入らない。
「戻す!」
七秒。
籠を押す。
その時、潮骨笛が籠の中で一度転がった。
太い側が下。
細い側が上。
海水が、笛を避けて二つに分かれる。
一方は地球へ戻る。
一方はアステリアへ落ちる。
ほんの半秒。
全員が見る。
「今の」とハル。
「向きが変わっただけ」とソウジ。
「向きで出口が変わった」とエリア。
「六孔が完全に死んでるわけじゃない」ロロ。
「傷の下で半開き」とニア。
「笛の角度で、残った隙間が出口へつながった」
「質量は消えてない」とセレナ。「二方向へ分配」
「入口と出口、別にできる」ハル。
「仮説」とセレナ。
「でも見た」
「再現が必要です」
「三回目」とロロ。
『切断まで二分十秒』終端艦。
「時間ねえ!」
「再測角を終えた」とニア。
『地球側船舶、退避線外を確認。作戦再開』
「あと一回」ロロ。
『認めない』
「誰が」
『第五切断艦は、境界変動実験を追加危険と判断する』
「おまえらの許可は求めてない」
『実験で切断面が移動すれば、即時発射する』
「脅し」とハル。
『停止条件の通知だ』
「正確な脅し!」