第684話 第六章「目覚めの条項」後編

「今、長い方が安全だと学んでいます」

 患者組合の棚から、左右のそろった靴が出る。

 少女は履き替える。

 扉の前で一度止まった。

「私が出たら、夢の処理を始める?」

「始めない」とソムナ。

「何で」

「あなたが退出したことは、残存記録の使用許可じゃない」

「じゃ、いつ」

「新しい許可を聞く」

「今聞けば」

「今は帰る途中。帰る人を、扉の前で交渉へ戻さない」

 少女は少し考える。

「外へ出て、一分したら戻る」

「戻らなくてもいい」

「戻るって言ってる」

「戻ると言ったことを、戻らなかった時の違反にしない」

「めんどくさい」

「めんどくさく作ってる」

「どうして」

「簡単な仕組みで、あなたが簡単に消されないため」

 少女は扉を開けた。

 冷たい朝の空気が入る。

 出る。

 扉が閉まる。

 ソムナは砂時計を返した。

「一分を測るのですか」とユノ。

「待つ側が勝手に長く感じないため」

「戻らなければ」

「終わり」

「感染像は」

「本人不在で使える最小範囲を、別の根拠で審査する」

「それまで町は危険を抱える」

「うん」

「あなたは危険を軽く言う」

「軽く言ってない。重く言えば、本人を呼び戻していいことにはならない」

 砂が半分落ちたところで、廊下の灯籠が一斉に青くなった。

 診療所の警報ではない。

 町の共有夢網で、同じ階段の映像が三人へ重なったという通知である。感染性の反復像。少女の記録と同じ構造を持つ可能性。

 ユノが立つ。

「公共危険例外」

「まだ同一と確定してない」

「確認するには記録が要る」

「構造照合だけ。人物像は開かない」

「三鍵」

「本人がいない」

「だから患者組合、外部医療、公共灯網」

「三者とも記録を使いたい側」

「では、使わない側を」

「時間がない」

「その言葉を私は嫌う」

「僕も」

 嫌う言葉でも、事実である時はある。

 時間がない。

 だからこそ、彼らは一人で決めない。

 患者組合の会計番を呼ぶ。

 外部医療の当直者を呼ぶ。

 そして、夢治療を一度も受けていない町の火消し役へ、公開範囲を見張る鍵を頼む。

 三者がそろう前に、扉が開いた。

 少女が戻る。

 借りた靴のつま先に泥。

「一分、まだ?」

「四十八秒」とソムナ。

「戻るの早かった」

「違反ではありません」とユノ。

「分かってる」

 彼女は椅子へ座らない。

「夢の処理、十五分だけ。姉の顔と声は開かない。階段の形と、灯籠が青くなる順番だけ使って。終わったら、見た人の名前を紙でちょうだい」

「十五分後、自動延長なし」とソムナ。

「足りなかったら」

「止めて、もう一度聞く」

「私が帰ってたら」

「待つ。公共危険が差し迫れば、三鍵で危険構造だけ使う。使った後、通知する」

「嫌って言ったことも書く?」

「最初の行へ」

「じゃ、それで」

 少女が古い治療札を机へ置く。

 ソムナは受け取らない。

「それは前の同意」

「まだ使えるでしょ」

「使わない」

 新しい札を一枚、白紙で渡す。

 少女は十五分、構造照合、人物像非開示、閲覧者通知、と自分で書く。署名欄は記号だけ。理由欄は空白。

「理由、書かない」

「空白のまま」とユノ。

「空白を反対にも賛成にも使わない」とソムナ。

 新しい札が三鍵へ入る。

 照合の結果、町の青い灯籠は少女の夢から広がったものではなかった。階段の形が一段違う。別の患者記録を、灯網の訓練用模型が誤って実景として再生していた。

 危険は消えた。

 少女の記録を開いた必要は、結果としてなかった。

「開けなくても分かった?」少女。

「あなたが許した構造だけで分かった」とソムナ。

「じゃ、許可したの損?」

「使わずに済んだ許可は、損ではありません」ユノ。

「使うための許可じゃないの」

「使ってよい範囲を決める許可です。使う義務ではない」

 十五分の砂時計には、まだ三分残っている。

 ソムナは札を閉じた。

「終了」

「まだ時間ある」

「目的を終えた。余った時間を別目的へ流用しない」

「時間って余るんだ」

「契約の中では」

「外では?」

「足りない」

 少女は立つ。

 今度は誰も椅子を引かない。

「靴、返すのいつでもいい?」

「はい」とユノ。

「返したら、感謝も返す?」

「感謝は所有していません」

「王子、ちょっと上手くなった」

「評価として受領します」

「許可じゃないよ」

「聞きました」

 少女が笑って出ていく。

 残ったのは、費用の問題だった。

 待機一分。

 照合十二分。

 外部三鍵の呼出し。

 使わなかった記録の保全。

「誰が払う」とソムナ。

「危険構造を利用した灯網」とユノ。

「灯網は、訓練模型の誤作動だから払うと言う。でも患者の待機費は診療所だって」

「待機は治療の一部です」

「退出後も?」

「退出を守るための費用です」

「加盟国基金?」

「非加盟者も使う」

「だから加盟国が払う理由になる。加盟しない人を排除しないための費用を、加盟の利益として置く」

「綺麗にまとめた」

「危険ですか」

「たぶん。今は決めない」

 費用負担欄へ、二人は大きく書いた。

【未合意。患者本人へ請求しないことのみ合意。】

 完全合意ではない。

 ただし、合意できなかったことを、空白にはしなかった。

 出来上がった条項は、長かった。

 見ないことを選ぶ条項〈ウェイク・クローズ〉

 名前だけは短い。

 第一、入る同意と、見せる同意を分ける。

 第二、見る同意と、写す同意を分ける。

 第三、写した記録を治療へ使うことと、研究へ使うことを分ける。

 第四、公開は別途同意。沈黙は同意に数えない。

 第五、撤回後に残すものを、危険構造、会計、責任記録へ限定する。

 第六、公共危険の例外は三鍵、期限、最小範囲、本人通知を必要とする。

 第七、やめた者へ違約罰を科さない。ただし既に発生した生活費を、誰がどう負担するかは別に合意する。

 第八、再参加は、以前の同意を自動復活させない。

 第九、目覚めた後の言葉を、夢の中の同意より優先する。

「九つ」とユノ。

「多い?」

「十にしたい」

「綺麗にしたいだけ」

「違います」

「目元が先に崩れた」

「……半分は」

「十番、条文の数を美しくするため内容を増やさない」

「それを書けば十になります」

「じゃ書く?」

 二人は見合う。

 少女がまた笑う。

 十番目が加わった。

 条文の数を整えるためだけに、権利または義務を増やしてはならない。

 冗談のような条文だった。

 だが制度の中には、見栄えのために生まれた対称が多い。

 左右同数の委員。

 全員一律の期限。

 一つの入口には一つの出口。

 美しさは、現実の左右差を消すことがある。

【現実/夜明け診療所・連絡灯室/覚醒/二世界境界発生から十二分】

 緊急連絡が届いた。

 鏡砂環経由。

 雷鎖環の公共線。

 王都下面区の手動中継。

 途中で三度途切れ、文面は短く削られている。

『二世界境界。開門/切断の二案対立。人・流体・通信、同一経路。限定運用を求む。エリア』

「同一経路」とソムナ。

「条約と同じ欠陥ですね」とユノ。

「違う。門」

「違うものを並べるのは、あなたの方法でしょう」

「真似した」

「感想」

 二人は長い条文を送らない。

 緊急時に読めない権利は、紙の中で安全なだけである。

 ユノは一行へ整える。

『接続、通過、閲覧、継続、撤回、再参加を一つの許可にしないこと。』

 ソムナが加える。

『撤回後に残すものを先に決めること。沈黙と通信不能を同意に数えないこと。』

「公共危険例外」とユノ。

「今入れたら、例外だけ使われる」

「危機です」

「だから使われる」

「必要な場合もある」

「ある。三鍵、期限、最小範囲、後通知」

 追加。

『生命危険の例外は、複数鍵、終了時刻、最小対象、事後通知を要す。』

 送信する。

 届く保証はない。

 届いても、役に立つ保証はない。

 遠方で続く暮らしは、ゼロスター号へ答えを届けるためにあるのではない。

 別の場所で失敗した者が、その失敗の形だけを渡す。

 使い方は、受け取った者が決める。

【現実/二世界境界・ゼロスター号/覚醒/地球側切断まで四分十二秒】

 通信灯が三回、橙に点滅した。

「夢灯経由」とセレナ。

 エリアが文を読む。

 一度。

 二度。

 右眉が上がる。

「どうした」とハル。

「入口を分けるだけでは足りない」

「何と何」

「入ること。通ること。向こうを見ること。つながり続けること。やめること。戻ること」

「門にそんなにある?」

「今、全部一つだから見えない」

 彼女は地図へ一本の線を引く。

 途中で止める。

 線の横へ、六つの小さな空欄。

「潮骨笛の穴も六つ」とロロ。

「偶然?」ハル。

「偶然でも調べる価値はある」

 エリアの歩幅が半歩大きくなる。

 未知の構造を見つけた時の歩き方。

「笛を開く」とロロ。

「ソウジが渡す?」

「渡させる」

「どうやって」

「修理しないと恒久化できないって証明する」

「脅す?」

「事実を、あいつの一番弱い所へ置く」

「それ父親が俺にやった」

「じゃ言い方変える。壊れてる機械を壊れてるって教える」

 ニアが立つ。

 右手の触覚はない。

 背の接続座は空。

「孔を見れば分かる」

「触れないだろ」とロロ。

「目はある」

「工具は俺」

「判断は三鍵」

「姉弟で一セットみたいに言うな」

「違う。足りない部分が別」

 地球側の光が、さらに細くなる。

 閉じるまで四分。

 エリアは未完成の線を持ち上げた。

「門へも、目覚める条項を作れる」

 扉は、開くか閉じるかではない。

 入ったあと、出ることを選べるか。

 開いたあと、閉じることを選び直せるか。

 その問いが、初めて地図へ乗った。