第683話 第六章「目覚めの条項」前編
契約は、始める時に最も美しく書かれる。
ここへ署名すれば守られる。
この治療を受ければ楽になる。
この記録を共有すれば、同じ過ちを防げる。
入口には花が飾られる。
出口は、たいてい裏口にある。
小さな字。
違約金。
医師の許可。
国家安全上の例外。
公益のための保存。
人は入る時、自分が出たくなる未来を想像しにくい。
だから制度は、入る人の善意ではなく、出たくなった人の弱さに耐えなければならない。
【別航路/夢灯環ネムリア・夜明け診療所常設棟/覚醒/二世界境界発生の三時間前】
「第四条三項を削ってください」
ソムナ・リルは、椅子を出口へ向けながら言った。
座るためではない。
退席する人が、誰の背中もまたがず扉へ行けるかを確認するため。
「削ると、感染性夢像の公開停止ができません」
ユノ・ヴァレントは微笑んでいる。
黒い礼装。
白銀の髪。
左右で色の違う瞳。
膝には白いヴァイオリン・アルマ。
演奏はしない。
楽器を持っているのは、交渉相手が彼を王子として見すぎた時、自分も演出家であることを思い出すためだった。
「公開停止ではなく、本人の撤回停止です」とソムナ。
「同じ記録です」
「同じ記録でも、権限が違う」
「感染が町へ広がる場合は」
「本人が『見せたくない』と言っても保存する?」
「する」
ユノは即答した。
ソムナの袖で紙札が鳴る。
嘘をつく時の音ではない。
反対を言う前に、患者の言葉を探している音。
「どこまで」
「拡散経路、接触時刻、夢像の危険部分」
「顔は」
「消す」
「声」
「変える」
「家族関係」
「必要部分だけ」
「必要を誰が決める」
「医療、患者組合、外部監査の三者」
「本人は」
「危険が本人から出ている場合、拒否権を――」
「本人を三者の外へ置かないで」
ソムナは相手の文を途中で止めた。
本気で反対している。
ユノの目元から、微笑みが先に消える。
「本人が拒否し、町が危険になるなら」
「町を守る」
「どうやって」
「本人の拒否を記録して、危険部分だけ隔離する」
「同じことを言っている」
「違う。あなたは最初から本人の拒否を無効にした。僕は拒否された後、別の根拠で最小限だけ残す」
「結果は」
「結果が同じでも、経路が違えば、次に止められる場所が違う」
診療所の長机には、三種類の紙がある。
鏡砂環の条約紙。
夢灯環の治療同意札。
雷鎖環の途中下車券。
国と国。
医師と患者。
列車と乗客。
違う制度である。
だがどれも、「一度入った者が、途中でやめられるか」という同じ穴を持っていた。
「条約は治療ではありません」とユノ。
「治療は列車でもない」
「では、同じ表へ入れるべきでは」
「同じにするんじゃない。違いを見えるように並べる」
ソムナは紙へ八つの欄を作る。
入る。
見る。
写す。
使う。
公開する。
続ける。
やめる。
戻る。
「多いですね」
「一つにまとめる方が多く奪う」
「美しくない」
「条文に美しさ要る?」
「読まれるためには」
「読みやすさと、美しく従わせることは違う」
「その結論まで、私が整えすぎたようだ」
ユノは自分の言葉を小さく復唱する。
「整えすぎた」
食堂から、金属皿の鳴る音がした。
夜明け診療所は正式開院してまだ日が浅い。
病室より会議室が狭い。
薬棚より会計棚が大きい。
商業資金を拒み、病棟を一度閉じた失敗の後、会計鍵は患者組合へ渡された。
薬品提供は受ける。
広告権は渡さない。
匿名の治療統計は共有する。
夢原本は持ち出さない。
清廉ではない。
綺麗でもない。
続けるための妥協が、毎日一つずつ増えている。
「昼食、いくら」とユノ。
「二ルク」
「私の分は」
「八」
「なぜ四倍」
「王族価格」
「身分差別では」
「衣装の袖で皿を二枚割った分」
「設備損耗費」
「食費へ入れないで、と会計組合に言われたから、別紙で六」
「合計は同じ」
「分類が違う」
「あなたは分類を大切にしすぎる」
「あなたは分類を美しくまとめすぎる」
ユノは酸っぱい葡萄を一粒食べる。
顔をしかめる。
食事の感想だけは演出しない。
「酸っぱい」
「好きなんでしょ」
「好きと楽は同じではありません」
「それを第四条に書いて」
会議の当事者は、もう一人いた。
名前は記録しない。
本人が公開を選んでいないからである。
十六歳。
共有夢治療を三回受けた。
二回目で悪夢の回数は減った。
三回目で、亡くなった姉の顔まで薄くなった。
治療をやめたい。
だが治療中に見つかった感染性の反復像は、町の灯籠網へ残っている。
「全部消して」と少女は言った。
声だけ、別室から届く。
ユノが答えようとする。
ソムナが片手を上げる。
「今は答えなくていい」
「もう答えた」
「理由は」
「聞かないで」
「分かった」
「理由なしでも消せる?」
ソムナは一拍置く。
「あなたの原本は返す。診療所の写しも消す。感染性の部分だけは、形を変えて残したい」
「嫌」
「嫌だと記録する」
「残すのに?」
「残すことを、同意したことにしない」
「意味ある?」
「次に消せる条件を争える」
「今、消したい」
「うん」
「うんじゃない」
紙札が一枚、ソムナの袖から落ちる。
拾おうとして、指が止まる。
冷たい。
低血糖で細かく震えている。
ユノは葡萄を皿ごと寄せる。
「甘いのは嫌いです」とソムナ。
「これは酸っぱい」
「食べたら頭が働く」
「医療者が患者の前で倒れる方が、同意を圧迫します」
「どういう圧迫」
「倒れた医療者へ遠慮して、患者が撤回を言えなくなる」
ソムナは一粒食べる。
「酸っぱい」
「真似を」
「感想」
「では、契約へ戻りましょう」
ユノは少女へ言う。
「あなたが消したい記録のうち、他人へ広がる危険を示す形だけ、人物と出来事を分けて保存する案があります」
「姉の顔は」
「残さない」
「私の声」
「残さない」
「夢の場所」
「感染経路に必要な部分だけ、実景ではなく構造へ変える」
「誰が見られる」
「最初は三人」
「多い」
「では二人」
「あなたたちは入る?」
「私は入らない」とソムナ。
ユノが彼を見る。
「夢葬師が?」
「治療担当だったから、監査から外れる」
「私も交渉担当です」
「外れる?」
ユノは微笑みかける。
やめる。
「外れる」
「じゃ誰」少女。
「患者組合から一人。外部医療から一人。あなたが嫌なら人を替える」
「二人が喧嘩したら」
「公開しない」
「町が危ない時」
「期限つきで危険構造だけ使う。使用後、いつ誰が見たかをあなたへ返す」
「私が返事しなかったら」
「賛成に数えない」
「戻りたくなったら」
「原本はあなたへ返すから、再参加は新しい同意になる」
少女は黙る。
沈黙を同意にしないため、三人とも待つ。
会議は止まる。
止まる時間にも、部屋代と暖房費と看護人の賃金がかかる。
待つ権利は無料ではない。
無料でないから奪っていいわけでもない。
「待つ間の費用」とユノ。
少女が息を呑む。
「本人へ請求しない」とソムナ。
「なら誰が」
「診療所」
「診療所は赤字です」
「知ってる」
「知っていて言うのは、善意で閉鎖へ向かうことです」
「じゃ王家」
「王家が払えば、条項へ王家の閲覧権が入る」
「入れない」
「今の王が入れなくても、次の王が根拠にする」
「では基金」
「誰のお金」
「条約加盟国」
「加盟しない人は」
「利用できる」
「加盟国が文句言う」
「言わせます」
ユノの敬語が落ちる。
「払う側が、払ったから見ると言うなら、俺が条約から切る」
「一人で?」
「……今のは駄目だ」
自分で訂正する。
「監査三鍵で切る。私一人ではない」
別室から少女が小さく笑った。
「王子も直されるんだ」
「頻繁に」
「偉くない?」
「偉い立場です。正しい立場ではありません」
「それ、条文に書けば」
「ぜひ」
別室の扉が開いた。
少女が出てくる。
薄い灰色の寝間着。
靴は左右で違う。片方は診療所の貸出品、片方は自分のものだ。三回目の治療へ来た朝、もう片方を脱いだ場所を思い出せなくなったという。
彼女は机へ近づかない。
「帰る」
「うん」とソムナ。
「止めない?」
「止めない」
「感染像は」
「あなたが帰ることと、町へ残った危険を処理することを分ける」
「分けられなかったら」
「分けられないと記録する。だからあなたを残す、にはしない」
ユノが椅子を引く。
少女は座らない。
「それ、私の席?」
「そうです」
「座らない」
「承知しました」
「怒らない?」
「席は命令ではありません」
「王子が椅子を引くと、座れって感じする」
ユノの手が止まる。
「演出が先に立った」
「癖?」
「職業病です」
「王子って職業?」
「辞表の受理先が曖昧な職業です」
「じゃ今の条項、先に自分へ使えば」
少女は出口へ歩く。
看護台の前で、眠り止めの小瓶を返す。瓶を置く音が一度。診療所の貸靴を脱ぎ、自分の片靴だけを履く。
「もう片方は」ソムナ。
「いらない」
「寒い」
「外で買う」
「お金」
「ない」
ユノが財布へ手を入れる。
ソムナがその手首を押さえた。
「何を」
「王子価格で靴を贈ると、贈られた側に王子へ感謝する役が発生する」
「靴一足で役割を」
「安い役割ほど断りにくい」
少女が振り返る。
「靴は欲しい」
「贈り物として?」ユノ。
「貸して。返す日は決めない」
「返さない可能性は」
「ある」
「では貸与記録へ、返却期限なし、返却不能罰なし、所有権は診療所、使用権はあなた、と」
「靴一足に長い」