第688話 第八章「入口だけを開く」後編
地球側から光が点滅した。
巡視船。
長、短、短。
長、短、短。
「信号?」エリア。
「モールス……かもしれない」ハル。
「読める?」
「授業で少し。たぶん、離れろ、じゃなく……受信?」
巡視船は近づかない。
代わりに、小さな橙色の浮標を海へ落とす。
浮標の灯りが点滅する。
地球側の基準点。
「向こうが置いた」とハル。
「接触意思?」
「分からない」セレナ。「危険区域表示かもしれません」
「勝手に歓迎にしない」とハル。
「でも目標には使える」とエリア。
「使っていい?」
「目的が不明な物を航路目標に使う場合、相手の意図を所有しない注記をつける」
「長い」
「正確」
通信線だけを開く。
物質は通さない。
水も通さない。
第四線。
ロロが旧式受信器をつなぐ。
『……こちら……沿岸警戒……未知現象……応答者……安全確認……』
「こちら凪野ハル。今、安全。そちらへ行かない。海へ近づかないでください」
『……所属……』
「説明が長い。日本の凪浜市出身。今、別の場所」
『……保護者……』
ハルが詰まる。
父は目の前にいる。
母は地球側にいるかもしれない。
「保護者へは、まだ連絡できてません」
『……氏名……』
「凪野ハル」
雑音。
向こうで誰かが同じ名を復唱した。
『凪野……ハル……生年月日……』
答える。
地球側の人々は、彼を世界代表として扱わない。
まず、迷子の子供として本人確認しようとしている。
それが嬉しくて。
それが苦しい。
『……家族照会……行う……現位置維持……危険行動禁止……』
「危険行動禁止、無理かも」
『……禁止……』
「そっちの人、セレナに似てる」
「誰です」とセレナ。
「法の人」
「褒めていますか」
「たぶん」
通信窓が閉じる。
音だけの道。
物質を通さず、世界をつなげた。
「第四線、成立」とエリア。
「接続は一個じゃない」とハル。
「そう」
「じゃ、父さんの恒久接続も、全部を通す必要ない」
ソウジの返答は遅い。
『通信だけでは、境界圧を解消できない』
「流体は出口へ返す」
『戻り率六十八。残り三十二が蓄積する』
「六孔を直せば」ロロ。
『修理時間がない』
「一動作だけなら」
『成功率』
「六割」
『失敗時』
「出口閉鎖継続。骨筒割れ、最悪で方向孔も失う」
『その場合、境界は制御不能』
「恒久接続も六孔なしでやる気だった?」ハル。
『大径管で圧を均衡させる。出口弁を使わず、両側を一つの圧力系にする』
「それ、直すんじゃなく壊れたまま大きくする」
『壊れた機能を別構造で代替する』
「世界二つを代替部品にするな!」ロロ。
『時間があるなら修理を選ぶ』
「時間を誰がなくした」とニア。
『裂け目が発生した』
「十五年間、潮骨笛を調べる時間は」
『所在が不明だった』
「回収後は」
『境界発生が先だった』
「全部、事実」
「だから免責?」ハル。
『違う』
「じゃ何」
『今、選ぶ理由』
ソウジは、理由を免罪に使わない。
しかし理由を積み上げれば、強行の階段になる。
善意の人間は、自分が追い詰められていると感じるほど、他者へ残す時間を削る。
第五切断艦から、最後通告。
『再測角完了。切断まで四十秒』
「四十!」カイル。
「こちらの限定路設計を送る」とエリア。
『受領済み。人体未試験、出口不全、地球側同意なし。現時点で切断延期の根拠にならない』
「通信成立」
『情報路の価値は認める。物理境界を維持する根拠ではない』
「修理成功すれば」
『確率六割。切断作戦の成功率九十一』
「地球側被害は不明」ハル。
『不明』
「九十一に入ってない」
『アステリア側成功率』
「正確に言ってくれてありがとう。だから反対」
終端艦は揺れない。
ソウジの測量艇が揺れる。
潮骨笛の固定台へ、五本の外部管が接続される。
「何してる」とロロ。
『境界固定を大径へ移行する』
「二周期、測定のみの約束!」セレナ。
『終了した。自動継続はしていない。新たな判断を通知する』
「言葉の穴を使うな!」ハル。
『穴ではない。測定結果を受け、不可逆拡大まで七十秒と更新した』
「資料」
『送る』
数値が届く。
裂け目縁の曲率。
圧力差。
固定杭の反作用。
出口不全による蓄積。
偽造ではない。
計算上、境界は閉じても開いても、大きな反動を残す。
「限定路では間に合わない」とソウジ。
「間に合わせるために小さくした!」エリア。
『小さい路は往来を制御できる。破局圧を逃がせない』
「戻り出口を直す」
『六割へ二世界を賭けない』
「九十一へ地球を数えず賭ける?」ハル。
『数えられないものを零とは置いていない』
「不明のまま開く!」
『不明のまま切らせない』
「どっちも勝手!」
ハルの声が低くなる。
「父さん。四十秒で、俺の故郷とこっちの国を、父さん一人の第三案へ入れるな」
『一人ではない。遠隔反応座が五つ――』
「反応しただけ! 許可じゃない!」
各空域に残された天鍵は、境界の異常へ共鳴している。
王獣鈴。
双界鏡。
天雷錨。
夢灯籠。
最初の王都天鍵。
共鳴は意思ではない。
鐘が鳴ったから、鐘が賛成したとは言えない。
「共鳴を同意に数えるな!」エリア。
『安定座標として使う』
「使うことへの合意」
『取る時間がない』
「だから使わない選択が先!」
『使わなければ、切断砲が先に落ちる』
「父さん」
『ハル』
「止めて」
ソウジは答えない。
答えないことを、賛成にも拒否にも数えられない。
だが手は動く。
彼の左の星晶義手が、潮骨笛の三孔を回す。
重力方向が、地球でもアステリアでもない中央へ変わる。
五孔が開く。
通過量が増える。
一孔と二孔が同時に半開きになる。
二つの入口が、同時に世界を吸う。
「同時は駄目!」ロロ。
海が立ち上がる。
雲海も立ち上がる。
地球の青い海と、アステリアの銀の雲が、二本の巨大な柱となって境界中央へ落ちる。
逆潮の巨大落水柱〈フォール・シー〉。
落ちる先は、上でも下でもない。
柱は互いへ落ち、衝突し、円環になる。
ゼロスター号の淡緑の線が引き伸ばされる。
「エリア!」ハル。
「線を離して!」
「戻り線が!」
「今はあなたを戻す!」
彼は第一線を離す。
エリアが路図を畳む。
両踵から血がにじむ。
左肺が鳴る。
彼女は倒れない。
倒れないことを英雄にもしない。
「呼吸、六。踵、七。路図停止二十秒。ハル、右肩を貸して」
「左じゃなく?」
「あなたの左肩を守る」
「正確」
「早く」
ハルが右肩を入れる。
ソウジの測量艇が、巨大な落水柱の中心へ加速する。
第五切断艦は、切断砲の照準を追随させる。
ゼロスター号は二隻の間で帆を全開にする。
入口だけを開く設計は、完成した。
だが完成した設計は、まだ世界を救わない。
設計を使う権限。
壊れた出口。
強行する父。
撃とうとする艦。
四つが残っている。
ソウジは通信へ、低く言った。
『限定路では、足りない』
ハルは赤いマフラーを締め直す。
「足りない分を、世界から勝手に取るな」
三隻の船が、重力反転の渦へ入った。