第689話 第九章「重力反転の渦」前編
追跡戦では、逃げる者の背中を見るな、と古い船乗りは言う。
背中を見れば、追う者は逃げる者の過去をなぞる。
見るべきは、その者が次に選ぶ海である。
逆潮環では、この教えへ一行が加わった。
――ただし、次の海が上にあるとは限らない。
【現実/二世界境界・巨大落水柱外周/覚醒/ソウジの大径移行から九秒】
海が輪になっていた。
地球の海水。
アステリアの雲海。
逆潮環から噴き上がる黒い潮。
三つが直径二キロの円環を作り、その内側を三隻の船が走る。
走る、といっても、帆が風を受けて前へ進んでいるわけではない。
地球の海へ落ちる。
七秒後にはアステリアの雲へ落ちる。
さらに五秒で逆潮へ横落ちする。
船乗りが「前」と呼ぶ方向は、十二秒ごとに解雇され、新しい前が採用される。
「船首基準、右下!」エリア。
「俺基準は!」ハル。
「左上!」
「反対じゃん!」
「だから両方言った!」
「情報が増えた!」
「世界も増えてる!」
ゼロスター号が半回転する。
甲板が壁になる。
壁が天井になる。
カイルの身体が安全索へ持っていかれ、肋部が伸びる。
「痛み!」セレナ。
「三!」
「盾禁止」
「まだ使ってない!」
「先に言いました」
「信用されてる?」
「行動傾向を把握しています」
「信用の法的言い換え!」
ノクスは索を使わない。
四本脚で甲板を蹴り、重力が変わる直前に次の面へ移る。
黒い毛は水を弾き、二本の尾が別々の下を指す。
「ノクス基準、次の下!」ハル。
「動物を計器にしない」とセレナ。
ノクスがセレナの外套へ爪をかけ、彼女を飛来する木片から引く。
「共同観測者へ訂正」
「速い!」
巨大落水柱の中心を、ソウジの一号測量艇が走る。
五本の圧力管を潮骨笛へつなぎ、笛そのものを船首へ突き出している。
第五切断艦は円環の外側。
六本の固定杭から白い線を引き、地球側境界根へ切断砲の照準を合わせ続ける。
ゼロスター号は、その中間。
どちらかを追えば、もう一方が先に目的を果たす。
「作戦、言い直す!」ハル。
「走りながら?」ロロ。
「止まったら落ちる!」
「今も落ちてる!」
「じゃ落ちながら!」
エリアが路図を三層へ分ける。
淡緑の船路。
青い流体路。
白い砲線。
「第一目的、潮骨笛の大径入力を止める。第二、第五切断艦の発射を遅らせる。第三、出口弁修理の作業位置を作る」
「順番」とニア。
「同時」
「同時は順番ではない」
「優先は、人命直撃の回避。切断砲が先なら砲線。落水柱が地球船へ向けば流体。ソウジが六孔以外を全開にすれば笛」
「全部、状況次第」とハル。
「状況が変わるから、判断を一人へ固定しない」
「停止条件」とバズの声。
オルロイ号は渦の外で、圧力の痛みを受け続けている。
「ゼロスター船体裂傷二。カイル痛み五。エリア呼吸七。ハル左肩脱臼兆候。ロロ補助腕一以下。ニア触覚両手零――」セレナ。
「右は既に零」とニア。
「なら右を条件に使わない。左が零。エメ圧痛六。地球側巡視船の境界再接近」
『追加。ただし、誰かが単独で全作戦を引き受ける宣言をした場合』バズ。
「それ、毎回止まる」とハル。
「止めるべきなんだよ」とロロ。
「撤退先」とカイル。
「ゼロスターはオルロイ外縁。ハルは最寄り船。ニアとロロは作業籠。ソウジは――」
エリアが止まる。
「本人に聞く」とハル。
「通信」
『聞いている』ソウジ。
「撤退先」
『一号測量艇』
「艇が壊れたら」
『ゼロスター号』
「勝手に」ロロ。
『救難要請だ』
「要請なら料金先払い!」
「生きてから請求」とハル。
「それ、踏み倒す客の台詞!」
「第五切断艦」とセレナ。
『本艦は作戦へ参加しない』
「撤退条件だけ共有を」
『切断砲損傷、固定杭二以上喪失、地球側民間船再接近、本艦乗員損失予測二パーセント以上』
「低い」とカイル。
『切断艦は救難艦でもある。乗員を弾薬として扱わない』
「そこは好き」とハル。
『評価は不要』
「じゃ記録だけ。好き」
「個人的感想として記録します」とセレナ。
『不要だ』
「反対意見も併記」
「法の人、強い」
最初の反転。
地球の海が下になる。
ゼロスター号は、海面へ向けて落ちる。
帆を閉じれば直落下。
開けば海風を受け、境界根へ流される。
「三分の一帆!」エリア。
「半分の半分より多い?」ハル。
「四分の一より多い!」
「分数の戦闘!」
「学校で習ったでしょう!」
「異世界で使うと思わなかった!」
「地球でも帆船は分数を使う!」
「俺、配送店!」
ロロの補助腕が帆索を三本まとめて引く。
「三分の一ぴったりは無理! 六分の二!」
「同じ」とセレナ。
「工具の歯数が六!」
「理由があった」
帆が開く。
船は地球の海面すれすれを滑る。
裂け目の向こうで、巡視船がさらに退避している。
橙色の浮標だけが残る。
巨大落水柱の外縁が海へ触れた。
海面が円く陥没する。
「地球側圧、上昇!」セレナ。
「巡視船へ波が行く」とハル。
「通信窓、三秒だけ!」エリア。
第四線。
『……波高増大……退避中……』
「もっと離れて!」
『……沿岸側に浅瀬……進路制限……』
「浅瀬」とハル。
凪浜沖には、海底の岩棚がある。
巡視船の大きさでは、岸側へ逃げると座礁する。
「外海へ流す」とエリア。
「どうやって」
「落水柱の外縁を帆で切る」
「船一隻で海を切る?」カイル。
「止めない。波頭だけ崩す」
「盾は」
「使わない」セレナ。
「まだ聞いてない!」
「顔で聞きました」
「顔は機械入力に含めないって父上世代が!」
「医療入力には含めます」
ゼロスター号が波へ斜めに入る。
帆を水面へ寝かせる。
普通の帆船なら転覆である。
だが今の下は海。
次の下は空。
転覆という言葉は、戻るべき上下が一つの時にしか成立しない。
「接触、四秒!」エリア。
帆が波頭を削る。
船体が震える。
一。
二。
三。
四。
「離す!」
帆索を放つ。
巨大な波が二つへ割れ、巡視船の左右を通る。
完全には消えない。
船は大きく揺れる。
だが転覆しない。
『……未知船、支援を確認……』
「ゼロスター号!」ハル。
「船名を送るの?」エリア。
「助けた船の名前、知りたいだろ!」
『……ゼロ……スター……了解……』
日本語で船名が復唱される。
ゼロスター号が、地球側の記録へ初めて入った。
歴史に名が残る瞬間は、王が命名した時とは限らない。
遭難通信で、聞き取りにくい名を誰かが復唱した時にも、船は世界へ存在し始める。
第二の反転。
アステリアの雲海が下になる。
第五切断艦が加速した。
白い翼を閉じ、細い槍の形へ変わる。
「切断艦、中心へ?」ハル。
「違う」とニア。「砲線を短くする」
「近づいて撃つ?」
「渦で照準が揺れる。境界根まで距離を詰める」
「止める!」
「どうやって」エリア。
「乗る」
「却下」
「まだ説明してない!」
「表情で」
「俺も医療入力?」
「行動傾向」
「聞いて。切断艦の外翼へ位置標をつける。砲線がどの潮刻で根へ合うか、エリアが見える」
「位置標だけ?」
「ついでに発射止められたら」
「ついでを禁止」
「何で」
「作戦目的が増えると、撤退判断が遅れる」
「じゃ位置標。止めるのは、向こうの乗員へ頼む」
「頼んで止まる?」
「分からない」
「乗る方法」
「次の反転で、ゼロスターと外翼が十メートルまで近づく」
「十二」とエリア。
「走って跳べる」
「左肩」セレナ。
「腰索二点。着地は両足。腕で受けない」
「帰船路」
「切断艦からソウジ艇」
全員が見る。
「帰ってない」とロロ。
「最寄り船って言っただろ。父さんの艇へ行く」
「最初からそれが目的?」エリア。
「半分」
「残り半分」
「切断艦へ位置標」
「半分ずつで一つの作戦に見せないで」
「でも経路は同じ」
「目的が違う」
「配達は、一便で複数荷物持つ」
「人命作戦を混載便で説明しないで!」
「効率いい!」
「効率の問題じゃない!」
言い争っている間にも距離は縮む。
十五メートル。
十四。
十三。
「エリア」
「何」
「手伝って。切断艦からソウジ艇まで、二本の帰り線を描いて」
「帰る先が二つ?」
「ソウジ艇に着けなかったら、ゼロスター。着いた後、父さんを止められなかったら、またゼロスター」
「途中で切断艦へ残る選択」
「入れる」
「地球へ落ちる可能性」
「入れない」
「なぜ」
「今は受入れ準備がない」
「正確」
エリアは息を整える。
「呼吸、四。踵、六。路図二本、二十五秒。ハル、二十五秒を越えたら線は消す」
「俺が途中でも?」
「途中なら最寄り船へ」
「分かった」
「分かった顔は」
「腹立つ?」
「今は信じる」
ハルの冗談が止まる。
「……それ、重い」
「重力戦だから」
「さっきの仕返し?」
「事故説明」
腰索を二本。
一本はゼロスター号。
一本は切断艦へ投げる先行索。
左肩へは荷重をかけない。
配達鞄を胸へ回す。
マフラーの端をジャケットへ入れる。
「一」
切断艦の白翼が迫る。
「二」
重力が消える。
「三」
ハルは跳ぶ。