第690話 第九章「重力反転の渦」後編

 十二メートル。

 無方向時間、一・四秒。

 その後、下は切断艦の船尾になる。

 ハルは空中で身体を回す。

 腕ではなく足。

 右足。

 左足。

 白い外翼へ着地する。

 滑る。

 腰索が張る。

 左肩へ衝撃が来る前に、骨盤帯が受ける。

「着いた!」

「肩」とセレナ。

「二!」

「方向感覚」

「下が三つ!」

「症状を聞いています!」

「耳鳴り一、吐き気なし!」

 切断艦の外翼は、氷のように白い。

 装飾ではない。

 表面へ細い刻みが数千本入り、境界の荷重を切断面へそろえる。

 ハルは赤い位置標を打つ。

 配達店で荷崩れを防ぐために使った、安い反射札。

「ついた!」

「確認」とエリア。「砲線、見えた。次の潮刻で根へ一致」

「何秒」

「十八」

 艦の外壁が開く。

 灰色の防護服を着た乗員が二人出る。

 武器は持っている。

 切断用の短い振動刃。

「止まれ」と一人。

「止まってる!」

「索を外せ」

「外したら落ちる!」

「本艦への侵入だ」

「外にいる!」

「船体占有」

「言葉が強い!」

 乗員は刃を上げる。

 ハルは手を上げる。

「攻撃しない。位置標つけた。砲線の誤差をこっちと共有する」

「無許可標識」

「赤いだけ。壊してない」

「固定杭への妨害」

「してない」

「主任機関士を引き渡せ」

「主任じゃない」

「職籍問題は本艦管轄」

「本人の終了通知を聞いただろ!」

「受理されていない」

「それ、辞められない仕事?」

「緊急職」

「緊急が終わったら」

「審理」

「審理まで働けって?」

「今は境界」

「何でも今は境界って言えば後回しになるな!」

 船体が跳ねる。

 乗員の一人の足が外翼から離れる。

 安全索の金具が、重力反転で外れかける。

 ハルは考える前に飛びつく。

 右手で乗員の腕。

 左は使わない。

 自分の腰索を短くする。

「つかまれ!」

「侵入者に救助される規程は――」

「規程探してる間に落ちる!」

 もう一人が索を引く。

 三人で外翼へ戻る。

「救助を理由に拘束免除はしない」と乗員。

「分かってる! 救助を理由に発射を止めてくれもしない?」

「別判断」

「似た人ばっか!」

 乗員はハルの赤札を見る。

「位置標データは受ける」

「砲、止める?」

「停止条件に達していない」

「地球側の人は」

「退避確認」

「沿岸は」

「観測不能」

「知らないから切る」

「知らない側を守るため、既知側を危険へ置く判断もできない」

「だから小さい道!」

「未修理、未試験」

「直す時間を砲で消すな!」

 乗員の顔は見えない。

 防護面に、ハルの赤いマフラーだけが映る。

「本艦は八年前、逆潮炉暴走で三百四人を救った。切断を九秒遅らせ、二十七人が死亡した」

「だから遅らせない?」

「遅らせる根拠を要求する」

「修理成功六割」

「四割で境界制御を失う」

「切断後の地球被害は不明」

「不明」

「その不明を、二十七人より軽くするな」

「軽くしていない」

「じゃ待って」

「命令系統外」

「誰なら」

「艦内三鍵」

「話させて」

「時間」

「あと十二秒」

 乗員が通信を開く。

「外翼接触者より緊急異議」

『聞く』

「凪野ハル。限定路設計の当事者。出口弁修理の一作業時間を要求」

『成功率』

「六割」

『必要時間』

「何秒!」ハル。

『準備済みなら三十。作業は十二』ロロ。

「四十二秒」

『切断延期四十二秒で、アステリア側境界圧が破局値へ達する可能性三十四』

「ソウジの大径入力を止めれば」

『停止手段』

「俺が行く」

『成功率』

「分からない」

『根拠にならない』

「分からないを零にするな!」

『零ではない。判断可能な値でない』

「じゃ値にする。ソウジ艇まで八秒。外部管五本。二本外せば大径化は止まる。俺が一分以内に二本外す」

『あなたの生存率』

「知らない」

『自己犠牲を根拠にしない』

「俺だけじゃない。帰り線、救助、停止条件、全部ある!」

『一分。大径入力二本停止を条件に、切断砲発射を最大一分保留』

「最大?」

『地球側民間船再接近、固定杭偏位二、境界圧九で即時発射』

「受ける!」

「許可じゃない」とロロの声。

「今は許可!」

 保留時計が、外翼へ赤く灯る。

 六十。

 五十九。

 その数字を見た直後、艦底で低い破裂音がした。

 白い外翼の刻みが一本、暗くなる。

「何!」ハル。

「第四偏荷重錘、固定爪損傷」と乗員。

 外翼の内側から、黒い金属塊が滑り出した。

 人の胴ほどの長さ。

 七十キロ。

 切断砲を撃つ時、反作用で艦が回らないよう、翼の六箇所へ分けて置かれた重りである。

 今の下は、艦尾。

 金属塊は外翼の先へ向けて落ちる。

「落ちたら?」

「照準中心、地球側へ十一メートル」

「さっきの誤差より大きい!」

「本艦は偏位二で自動停止する」

「じゃ止まる?」

「停止後、固定杭の荷重が他艦へ移る。境界圧が上がる」

「止まっても悪い!」

「今は、どの安全も別の危険へつながっている」

 乗員が外翼へ腹ばいになる。

 振動刃を床へ刺し、片腕を伸ばす。

 届かない。

 保留時計、五十四。

「俺が行く」ハル。

「あなたの条件は外部管二本」

「重りが落ちたら、二本外す前に砲線がずれる」

「本艦の故障だ」

「だから本艦だけで直す?」

「侵入者へ作業を委ねる規程はない」

「侵入者に救助される規程もなかったろ!」

「救助と機関作業は別だ」

「別にしてる時間が!」

 四十九。

 もう一人の乗員が、補助索をハルへ投げる。

「作業委任ではない。落下物による境界危険の共同回避」

「長いけど好き!」

「評価不要」

 ハルは索を腰帯の右側へつなぐ。

 左肩へ通さない。

 外翼の刻みは、濡れた氷より滑る。重力は七秒後に変わる。今、金属塊へ向かって下っても、途中で下が艦の腹へ移れば、身体だけが別方向へ飛ばされる。

「次の反転」とエリア。

『五秒。下は艦中央。錘は翼根へ戻る』

「戻るなら待つ?」

『速度がつきすぎる。固定爪へ衝突、翼骨損傷』

「止める場所」

『今いる位置から三メートル先。反転直後に索を錘の後端へ』

「三メートル!」

「走るな」と乗員。

「滑る!」

「もっと悪い」

 四十五。

 重力が薄くなる。

 ハルは床を蹴らない。

 配達鞄から、荷締め用の平帯を出す。

 金属塊へ投げる。

 届かない。

「短い!」

「あなたの腕が」と乗員。

「左は数に入れない!」

 乗員が自分の安全索を外し、平帯へ結ぶ。

「外していいのか!」

「あなたの腰索へ共用」

「俺が落ちたら二人!」

「だから落ちるな」

「命令が雑!」

 結び目は、自由港式でも王都式でもない。

 終端艦の三重返し。

 荷重が増えるほど締まり、解除には輪を三方向から同時に押す。戦場で切断片を回収するための結びである。

「覚えられる?」乗員。

「配達員をなめるな」

「舐める規程はない」

「そこロロに似るな!」

 重力が変わる。

 金属塊が翼根へ向けて飛ぶ。

 ハルも浮く。

「今!」エリア。

 平帯を投げる。

 輪が金属塊の後端へかかる。

 一周。

 二周。

 三周目が届かない。

「結び不足!」乗員。

「分かってる!」

 金属塊が加速する。

 ハルは左手を使わない。

 右手で輪を引き、歯で平帯の端を噛む。

「口は固定具じゃありません!」セレナ。

「今だけ工具!」

「歯の損傷条件を追加!」

「あとで!」

 三周目。

 終端艦の乗員が、自分の振動刃の柄を輪へ通す。

 ハルは荷締め具を噛ませる。

 二つの文化の結びが、金属塊の後ろで一つになる。

「引く!」

 二人が腰索へ体重を預ける。

 七十キロの錘が、次の下へ落ちる力を索が受ける。

 ハルの骨盤帯が鳴る。

 左肩へは来ない。

 乗員の安全索はハルと共用である。片方が滑れば、もう片方も引かれる。

「重い!」

「必要重量だ!」

「減らせない!?」

「減らすと砲が回る!」

「撃たなきゃ!」

「今それを争っている!」

 金属塊が翼根の固定爪へ迫る。

 そのまま当てれば壊す。

「三つ数えろ」と乗員。

「何で知ってる!」

「通信を全部聞いている!」

「一!」

 索を一段緩める。

「二!」

 金属塊の速度が落ちる。

「三!」

 二人で引く方向を変える。

 錘が固定爪の横を通り、予備受け網へ落ちた。

 白い翼が震える。

 暗くなった刻みが、一本ずつ戻る。

「偏位」とハル。

「〇・七。許容内」

「砲は」

「まだ撃てる」

「そこ喜べない!」

「事実だ」

 保留時計、三十六。

 ハルは平帯を外そうとする。

 三重返しが締まりすぎている。

「解除、三方向」と乗員。

「手、二本!」

「一つは私」

「残り」

 もう一人の乗員が足で輪を押す。

 三方向。

 結びが開く。

「共同作業、終了」と乗員。

「名前は」

「作戦中、個人名は非公開」

「じゃ後で請求できない」

「請求するのか」

「平帯一本!」

「本艦が補填する」

「侵入者へ?」

「共同危険回避の消耗品費」

「長いけど絶対請求書に書く!」

「記録不要」

「記録済みです」とセレナ。

 保留時計、三十一。

 ハルはソウジ艇を見る。

 自分の条件は、外部管二本。

 別の危険を救ったから、その条件が軽くなるわけではない。善行は、次の仕事の前払いではなかった。

「行く」

 乗員が、切断艦からソウジ艇への先行索を点検する。

「十二秒後に最接近。跳躍線をつける」

 切断艦の乗員が、ハルの先行索へ補助環をつける。

「本艦からソウジ艇への跳躍線。十二秒後に最接近」

「手伝う?」

「一分保留条件の実施」

「何でも言い方を冷たくする」

「感情を入れると、あなたを行かせたくなくなる」

 ハルが振り向く。

 防護面の向こうは見えない。

「じゃ、ありがとう」

「記録不要」

「セレナ、記録!」

「記録します」

「やめろ!」

 第三の反転。

 逆潮が下になる。

 巨大落水柱の中央が、黒く開く。

 静止点ではない。

 静止して見える場所そのものが、潮刻に合わせて円環の内側を走る。

「中心、船首から左四十!」エリア。

「動いてる!」ハル。

「毎周期、三十度先へ!」

「父さんは」

「先読みしてる!」

 ソウジ艇は中心を追っているのではない。

 中心が次に来る場所へ、先に入っている。

 だから速かった。

「父親、ずるい!」ロロ。

『測量だ』ソウジ。

「聞いてた!」

『外部管へ触れるな』

「じゃ止めろ!」ハル。

『限定路では破局を避けられない』

「今、証明する!」

『おまえが来れば、地球座標を――』

「それ言うな!」

『言わない』

「途中まで言った!」

『すまない』

「謝って続けるな!」

 切断艦とソウジ艇が、十メートルまで近づく。

 間には黒い逆潮。

 水ではない。

 重力へ引き伸ばされた、薄い海。

 触れれば皮膚の外側と内側で下が違う。

「跳躍窓、二秒!」エリア。

 ハルは先行索を投げる。

 ソウジ艇の外部管へ掛かる。

 一本。

「一!」

 足場を蹴る。

「二!」

 黒潮へ入る。

 左腕が上へ。

 右脚が下へ。

 胃だけが地球側へ落ちる。

「三!」

 声を出す。

 身体の全部へ、同じ時刻を教えるため。

 腰索が張る。

 ソウジ艇の船腹へ衝突する。

 右肩。

 膝。

 腰。

「着地じゃない!」ロロ。

「ついた!」

「肩!」セレナ。

「左、三! 右、四!」

「右肩は既往なし」

「今作った!」

「笑えません」

「笑ってない!」

 ハルは船腹の格子を登る。

 一本目の外部管。

 圧力封印。

 回転式。

 ロロが叫ぶ。

『反時計!』

「どっちから見て!」

『おまえから!』

「人名基準!」

『今だけ!』

 回す。

 固い。

 父の星晶義手が、船上から別の制御輪を押さえる。

「外すな」

「止めろ」

「外せば、圧が一孔へ集中する」

「順番」

「二、五、四」

「じゃ二から!」

「大径を止めるなら三、五」

「今、外すなって」

「外すなら順序を守れ」

「父親の会話、毎回取扱説明書!」

 ハルは三番管へ移る。

 船が反転する。

 格子が天井になる。

 片手でぶら下がる。

 左肩に荷重。

「一、二」

 三が出ない。

「引いて!」

 腰索が巻かれる。

 切断艦側の乗員と、ゼロスター号側の巻揚げ機が同時に引く。

 身体が船腹へ戻る。

「助かった!」

『作業を』乗員。

「感想短い!」

 三番管の留め輪へ配達鞄の平金を差す。

 専用工具ではない。

 荷箱の釘抜き。

 回す。

 父の制御輪と逆方向。

「ハル」

「何」

「その平金、折れる」

「店で八百円!」

「値段では強度が分からない」

「俺には分かる! 揚げパン五十個分!」

「比較対象が柔らかい」

「曲がる前に回す!」

 平金がきしむ。

 三番管が外れる。

 白い圧が噴く。

 巨大落水柱が片側へ傾く。

「一本!」

「大径入力、八十!」セレナ。

「もう一本!」

 五番管。

 ソウジが船上から降りてくる。

 止めるためではない。

 噴いた圧を別管へ逃がし、船が裂けないようにする。

 父と息子が、同じ機械の別の側を持つ。

「右へ」ソウジ。

「船首?」

「おまえ基準」

「学習した!」

「今だけ」

「そこも!」

 五番管へ手を伸ばす。

 潮刻が変わる。

 今度の下は、測量艇の甲板。

 ハルは格子から甲板へ落ちる。

 両足。

 右手。

 左肩は身体へ。

 着地。

 目の前に潮骨笛。

 白い骨筒。

 六つの孔。

 五本の管のうち、一本が外れて暴れている。

 反対側にソウジ。

 二人の間に、故郷と異世界をつなぐ道具がある。

 第五切断艦の保留時間、残り二十九秒。

 ゼロスター号は渦の外周で傾いている。

 エリアの二本の帰り線が、ハルの腰へ届く。

 父は息子を見ている。

 息子は父ではなく、図面と手と、潮骨笛を見る。

「二本目」とハル。

「外せば、限定路へ移るしかない」

「それをやる」

「修理前だ」

「修理する」

「六割」

「父さんの案は、地球側を入れたら何割」

 ソウジは答えない。

「数字がないなら、俺の六割より高い顔するな」

 ハルの手が五番管へかかる。

 ソウジの星晶義手も、反対側の留め輪を握る。

 殴り合いではない。

 奪い合いでもない。

 一本の管を、開くか閉じるか。

 親子は潮骨笛を挟み、同じ工具へ逆向きの力を入れた。