第691話 第十章「同じ秘密計画に従わない」前編
父の仕事を継ぐ。
この言葉は、古い社会では美徳として書かれた。
鍛冶屋の子が火を継ぐ。
船乗りの子が舵を継ぐ。
王の子が国を継ぐ。
技術も土地も責任も、一代では終わらない。
継承は、人間が寿命より長い仕事をするために作った橋だった。
だが橋には、もう一つの顔がある。
親が始めたから、子が続ける。
親が犠牲を払ったから、子も払う。
親が正しいと信じたから、子は疑わない。
血縁は、同意書ではない。
似た手を持つことと、同じ工具を握ることは違う。
【現実/一号測量艇・潮骨笛固定甲板/覚醒/第五切断艦の発射保留、残り二十八秒】
五番管を、父と息子が反対から握っている。
ソウジの左手は星晶義手。
白い結晶の指が、金属輪へ深く食い込む。
ハルの右手は、生身。
配達だこ。
擦り傷。
八百円の平金。
「離せ」とソウジ。
「そっちが」
「圧力が片寄る」
「だから外す」
「外した瞬間、四孔へ逆流する」
「順番言え」
「五を半回転戻し、二を閉じ、四を一拍へ。最後に五を外す」
「それで大径止まる?」
「止まる」
「じゃやれ」
「六孔が直るまで境界圧を保持できない」
「小さい入口へ」
「破局圧は逃がせない」
「同じ話!」
「同じ危険が残っている」
「同じ危険を理由に、同じ答えを強くするな!」
巨大落水柱が艇の外を回る。
青い海。
銀の雲。
黒い逆潮。
甲板へ一秒ごとに違う色の影が落ちる。
父の顔も、青、銀、黒へ変わる。
表情は変わらない。
表情が変わらない人間は、迷っていないとは限らない。
迷いを顔へ出さない訓練を、長く続けただけかもしれない。
「父さん、俺を見ろ」
「見ている」
「手じゃなく」
ソウジの視線が、留め輪からハルへ上がる。
「今、俺が帰りたいから邪魔してると思ってる?」
「帰還可能性が判断へ影響しているとは思う」
「父さんも帰したいから開いてる」
「それだけではない」
「それだけじゃないなら、なくせない」
「なくす必要はない。偏りとして記録する」
「記録したら使っていい?」
「そうは言っていない」
「でも使う」
「使わない判断にも偏りはある」
「だから一人で決めるな!」
ソウジの右手が、制御卓の小さな弁へ伸びる。
ハルは配達鞄の肩紐を外し、五番管へ巻く。
「何を」
「荷崩れ防止」
「圧力管は荷物ではない」
「動かしたくない物は荷物!」
紐を八の字に通す。
一周。
二周。
留め輪と甲板格子を結ぶ。
「その結びは、引くほど締まる」ソウジ。
「店の基本」
「切る」
「切ったら弁も一緒に動く」
「わざと近くへ」
「父さんが刃を入れにくい位置」
「人質にした」
「管質」
「言葉遊びで危険は減らない」
「父さんの言い換えより、まだ笑える!」
ソウジは刃を取らない。
別の弁へ手を伸ばす。
ハルも移る。
二人は殴らない。
押し倒さない。
潮骨笛を奪わない。
制御卓の周りを回る。
父が開こうとする弁へ、息子が紐をかける。
息子が抜こうとする管へ、父が圧を逃がす。
喧嘩というより、互いの作業を互いが保守点検している。
「外部管二、閉鎖!」エリアの通信。
ゼロスター号から淡緑の線が来る。
「三、まだ八十!」セレナ。
「第五切断艦、保留残り二十!」
「聞こえてる!」
『ハル』ソウジ。
「目の前で通信名呼ぶな!」
「声が届くか確認」
「届いてる!」
「なら聞け。境界圧は九へ向かっている。切断艦が撃てば、地球側根が消える。私が止めれば、裂け目は固定杭へ引かれ、同じ結果になる」
「だから恒久」
「そうだ」
「限定路と出口修理は」
「間に合わない可能性」
「六割」
「四割で両世界が無制御」
「父さんの案は何割」
「アステリア側安定、七十四」
「地球側」
「計算不能」
「人の往来」
「初期三十二」
「病気」
「計算不能」
「軍事利用」
「確実に起こる」
「止める制度」
「接続後に作る」
「遅い!」
「接続前には相手がいない」
「相手はいる! 向こうで船が応答した!」
「一機関だ」
「こっちだって父さん一人!」
「遠隔反応座――」
「鐘と鏡と錨と灯籠と王都の鍵! 道具だ! 鳴ったから賛成じゃない!」
「安定装置として使うだけだ」
「使われる側の許可!」
「天鍵に意思はない」
「じゃ持ってる人の許可!」
「取れない」
「取れない時は、使わない!」
「使わず二世界を失うなら」
「その言い方が二択!」
ハルは平金を五番管へ差し直す。
「父さんの第三案、三番目じゃない」
「どういう意味だ」
「『今すぐ開きっぱなし』と『今すぐ切る』と『今すぐ恒久接続』。全部、今すぐ誰かが世界を決める案」
「境界が待たない」
「待たない部分だけ先に止める。通る部分は小さく。通信は別。水は戻す。人は試さない。あとで選ぶ」
「破局圧」
「出口を直す」
「六割」
「四割を下げる作業をする!」
「時間」
「時間を作る!」
「どうやって」
ハルは第五切断艦を見る。
「頼んだ」
「敵へ」
「父さんも頼め」
「切断を選ぶ艦だ」
「救難もする。さっき俺を助けた」
「その一分後に撃つ」
「父さんは俺を帰したい一分後に、地球へ無断で管を開く!」
同じである、と言っているのではない。
同じ危険を持つ、と言っている。
人は、自分と敵の違いを語る時、自分に似た部分を最も見落とす。
第五切断艦の保留、残り十五秒。
『大径入力二本停止、未達』
「一本止めた!」ハル。
『条件は二本』
「今やってる!」
『発射準備再開』
「あと三十秒!」
『境界圧八・六。延長根拠を』
「出口修理の準備完了!」ロロ。
『成功率』
「さっき六割。今は七」
『上昇根拠』
「孔の摩耗方向、最後の正常動作、工具交換条件、三鍵。あと俺が現物見た」
『最後は主観』
「技術者の現物確認!」
『七十パーセントとして仮置き。失敗時の即時切断可能性』
「出口失敗だけなら可能。骨筒割れたら不能」
『骨筒割れ確率』
「九」
『九パーセントで本艦の手段も失う』
「恒久接続でも、父親が骨筒割ったら同じ!」
『ソウジ案の骨筒破損予測三』
「だからそっち?」
『判断中』
「数字だけで答え出すな!」
『数字を使わず答えを出さない』
ハルは息を呑む。
切断艦は冷たい。
だが冷たい言葉の中に、自分たちの方法への批判もある。
「じゃ数字を増やす。地球側の損失、不明。相手の同意、なし。退出手順、なし。恒久接続後の閉鎖、未設計。父親の単独強行傾向、高!」
『最後を定量化せよ』
「百!」
「ハル」とセレナ。
「分かってる、感情!」
『定量には使わない。ただし統治危険として記録』
ソウジの義手が、制御輪を強く握る。
「統治するつもりはない」
「道を握る人が、統治しないって言っても駄目!」ハル。
「道の管理は共同へ移す」
「いつ」
「接続後」
「また後!」
「接続前に共同体がない」
「今ここにいる! エリア、ロロ、ニア、セレナ、カイル、エメ、バズ、地球の船、切断艦!」
「利害が一致しない」
「一致しないから共同!」
ソウジは黙る。
ハルは止めない。
父の沈黙を、納得にも拒絶にも数えない。
「父さんは、一人でやった方が速い」
「そうだ」
「間違いを隠したいからじゃない」
「隠してはいない」
「人を信じてないからでも、たぶんない」
「なら」
「待つのが怖い」
義手の歯車が、一つ止まる。
「誰かの返事を待ってる間に、道が消えるのが怖い」
「……そうだ」
「十五年前、帰るって言って、帰れなかった。今度こそ道を残したい」
「そうだ」
「俺を帰したい」
「そうだ」
「母さんへ説明したい」
「そうだ」
「自分が消えた意味を、道にしたい」
ソウジはすぐに答えない。
内心は見えない。
見えるのは、右手が図面の端を押さえたこと。
左の義手ではなく、生身の右手。
「意味がなかったとは思わない」と彼は言う。
「違う。意味がなかったら怖い?」
「怖い」
「分かる」
「なら」
「分かることと、従うことは違う」
ハルの声は低い。
父の肩書を呼ばない。
「父さんが寂しかったのも、道を残したいのも、俺を帰したいのも分かる。全部分かった上で、同じ秘密計画へ従わない」
「秘密ではない。今、公開した」
「強行する直前に見せた計画は、相談じゃない。説明つきの命令」
「時間が」
「それも聞いた」
「代案の成功率が」
「それも」
「切断艦が」
「聞いた!」
「なら、何を聞けば変わる」
「俺の答え」
ハルは五番管を引く。
「乗らない。手伝わない。地球人の同意に使わせない。息子の協力に使わせない」
「記録する」
「記録だけじゃなく、止めろ」
「止めれば、扉が」
「俺が帰れなくなるかもしれない」
「そうだ」
「それでも止める」
ソウジの顔が、初めて崩れる。
眉ではない。
口でもない。
瞳が、灯台へ一度動く。
「母さんへ会えなくても?」
「会いたい」
「次がなくても?」
「嫌だ」
「ならなぜ」
「帰りたいを、人を黙らせる道具にしたくないから!」
ハルは平金を踏む。
五番管の留め輪が、半回転戻る。
圧が落ちる。
巨大落水柱の直径が、わずかに縮む。
「二本目、停止率四十!」セレナ。
「あと半回転!」ロロ。
ソウジが義手で留め輪を押さえる。
「離せ!」
「外せば四孔へ逆流」
「先に二を閉じろ!」
「二を閉じれば地球側入口が切断艦へ固定される」
「四を一拍!」
「出口がない」
「直す!」
「失敗したら」
「その時、止める!」
「止める手段がなくなる」
「だから一人じゃなく、三隻いる!」
ハルは父の義手を殴らない。
手首へ配達紐を回す。
制御輪と別方向へ結ぶ。
「拘束か」
「動かすと締まる」
「おまえの手も近い」
「一緒に切れる」
「危険だ」
「だから父さんも動かすな」
「自分を停止装置にするな」
「父さんが世界を停止装置にしてる!」
二人の手が、同じ輪に縛られる。
父が動けば息子が傷つく。
息子が無理に引けば父の義手が圧管を割る。
互いを人質にしたのではない。
互いの行動が、互いへ届くようにした。
秘密計画は、他者の痛みが設計者へ戻らない時に強くなる。
ハルは、戻り線を一本、父の手へ結んだ。
第五切断艦の保留時間が尽きた。
『条件未達。発射判断へ移る』
「二本目、四十!」ハル。
『停止ではない』
「あと半回転!」
『境界圧八・八』
「出口修理、準備中!」ロロ。
『準備は結果ではない』
「結果を出す前に撃つな!」
『結果を待つ間の損失も結果だ』
終端艦の言葉は冷たい。
しかし冷たさは、残酷さと同義ではない。
熱い言葉で人を死なせる者もいる。
冷たい計算で人を救う者もいる。
問題は温度ではなく、計算へ誰の命が入っているかだった。
「地球側、沿岸人口を暫定入力!」ハル。
『根拠値』
「凪浜市、俺がいた時で二十万ぐらい!」
「正確ではない」とセレナ。
「分かってる!」
『現在年不明。海岸線から影響範囲不明。暫定入力はできる』
「入れろ!」
『影響確率を置けない』
「零より上!」
『不明として既に入っている』
「不明の人数を大きくしろ!」
『不明は大きさではない』
「じゃ不明を理由に撃つな!」
『不明を理由に既知側を失えない』
言葉が輪になる。
開く側も、切る側も、未知を自分に都合よく扱ってはいない。
それでも結論は反対になる。
論理は、前提が違えば敵同士になれる。
だから前提を決める権限が必要になる。
そして権限を持つ者だけで前提を決めれば、論理は綺麗な独裁になる。
「発射まで」とニア。
『三鍵審査、二十秒』
「三鍵の異議窓」
『十秒』
「外部異議」
『受け付ける。ただし新規値のみ』
「新規値を作る」とニア。
ゼロスター号で、彼女は箱を開く。
六本の機械補助腕。
背へつけない。
腕として使わない。
箱の底から、細い黒刃と透明な圧力板を出す。
「作業籠へ」とロロ。
「まだ交換条件」
「今やる!」
「記録」
「目的、六孔出口弁一動作。期限、境界安定まで。単独使用禁止。返却、作戦後。事故責任、工具所有者へ自動帰属させない!」
「追加。作業中、互いの停止宣言を一者停止」
「追加。姉弟関係を同意代用にしない!」
「追加。俺をロロ坊って――」
「既に入ってる!」
「確認!」
セレナが記録する。
「工具交換契約、暫定成立。署名は作業後に追認しない。現時点の音声を正本とする」
「何で追認しない」とハル。
「成功後は、成功したから同意したことにされやすい」
「失敗後は」
「失敗したから同意が無効だったことにされやすい。だから今の言葉を残す」
「法の人、やっぱ強い」