第710話 第七章「誓いで登録された名」後編
ウルは、中央登録が始まった頃の結び縄を持ってきた。
古い縄は太い。
現在の細かな文字結びではなく、大きな結びが七つだけ。
「何人」アムナ。
「人じゃない」
「では」
「避難口」
七つの結びは、昔この地方にあった七つの洞穴を示していた。
「大嵐の時、どの家がどの穴へ入るかを覚える縄だった。家の名を結び、人数を結び、薬の要る者には返しを付けた」
「中央へ登録?」カイル。
「最初は村の柱へ掛けた。誰でも見た。嵐の後、外から救援隊が来て、同じ縄では読めないと言った」
「規格化した」とロロ。
「便利だったよ。どの村でも救援隊が読める。穴の場所も、薬の数も、迷わず分かった」
「悪いことではない」とエリア。
「悪いことから始まる制度は少ない」
ウルは最初の結びを撫でる。
「救難のための名が、次に配給へ使われた。配給の名が学校へ。学校の名が仕事へ。仕事の名が税へ。税の名が通行へ」
「一つへ接続」とセレナ。
「毎回、新しく名を出すのは面倒だった。本人も役所も、同じ札を使いたがった」
「便利だから」とハル。
「便利は悪くない。ただ、入口を一つにすると、出口も一つになる」
「誰が中央へ送ることを決めた」とアムナ。
「一人じゃない」
「王?」カイル。
「王は最後に印を押した。村は救援を早くしてほしかった。医者は薬歴を見たかった。学校は年齢を確かめたかった。商人は二重払いを防ぎたかった」
「全員、正しい理由」とエリア。
「正しい理由を積み上げても、最後の形が正しいとは限らない」
歴史は、悪人が一晩で作った牢獄より、善人が一世代ずつ足した便利の方を壊しにくい。
一つ一つの扉は誰かを助けた。
扉同士を同じ鍵へ替えた時、鍵を失った者は全部の外へ出された。
「反対した人は」セレナ。
「いた」
「記録」
「中央記録には、登録拒否者」
「口承では」
「名を一枚へ置かなかった人」
「同じ人たち?」
「全部ではない」
「誰」アムナ。
「さて、そこは誰から聞いた?」
「今、ウルから」
「なら、私が言ってよい範囲だけだ」
ウルは結び目を一つ、アムナへ渡す。
「この結びは、名を登録しなかった人ではない。登録した後、自分の名をどこへ使ったか見せろと言った人」
「何と呼ばれた」
「面倒な人」
「名前」
「本人が、話の中では出すなと言った」
「死んでいる?」
「死者の拒否は、死んだら失効するかい?」
アムナは答えない。
死者に聞けない。
聞けないから全部公開する制度もある。
聞けないから全部封じる制度もある。
「結びの意味だけ、覚えてよい?」
「出典は私。公開はこの部屋。期限は、白い塔を調べ終えるまで」
「その後」
「聞き直せるなら聞く。私が死んでいたら、結びをほどく」
「話が消える」
「話を残すために、約束を破るのかい」
アムナは結びを右手へ置かない。
机の角へ置く。
目で見る。
身体へ入れない。
「覚えない?」ハル。
「今は、場所を覚える」
「誰の話かは」
「入れない」
入れない部屋を作る。
記憶宮殿に、空の部屋を置く。
何もない部屋ではない。
入る許可がない部屋。
登録経路の聞き取りは、名を失っていない人にも行った。
ネイ。
ウル。
宿の幼い子。
外から来た季節労働者。
「登録したことは」セレナ。
「ある」と季節労働者。
「公的名は消えていない」
「登録名が違う」
「現在の呼称と」
「うん」
「どこへ登録」
「北の港。漁具組合」
「中央白塔へ接続」
「してない。港だけ」
同じ公的登録でも、地方記録は消えていない。
「誓紋は」
「押した。『網を切らない』」
「星へ誓った名でも残る」とハル。
「中央接続が条件」とセレナ。
「誓いそのものが名を消すわけではない」とエリア。
仮説を絞る。
公的名だから、ではない。
誓いを使ったから、だけでもない。
誓いで固定され、中央白塔へ照合された名。
「アムナの受領票も」とロロ。
「中央医療区」アムナ。
「昨日、初めて」
「だから今、消え始めた」
「登録歴が長い人からじゃない」とカイル。
「順序は別条件」とセレナ。「接続後の照合時刻か、利用時刻か、地区更新時刻」
「名前へ呪いが付いたみたいに考えてた」とハル。
「呪いなら、人を選ぶ」とアムナ。
「制度も人を選んでる」ネイ。
「制度が選んでいるのか、規則へ合わない者を落としているのかは未確定です」とセレナ。
「落とされた側には同じ」
「被害は同じでも、止め方が違います」
誰かが一人ずつ名を選んで消しているなら、選ぶ者を止める。
応答のない登録名を機械が一律に削除しているなら、削除条件を止める。
同じ白紙でも、手を入れる場所は違う。
アムナは自分の受領票を見る。
まだ一画、黒が残る。
「最後まで見る」と彼女。
「一人で見ない」とハル。
「私の名」
「おまえの名だから、見届ける人をおまえが選べ」
「選ぶ」
アムナは、ウルではなく、ハルでもなく、全員を見る。
「ここにいる人」
「人数は?」セレナ。
「六人と一頭。ネイは」
「今日は数えないで」と少年。
「六人と一頭」
「本人同意、確認」
アムナは一人で消える瞬間を抱えない。
名を守るためではない。
消えた後も、本人がここにいることを、複数の目で確認するために。
午後、ロロは簡単な試験台を作った。
三枚の札。
一枚目は、紙へ「ミレ」と手書き。
二枚目は、木へ学校登録時の公的名を刻む。
三枚目は、中央式の穴列へ同じ公的名を登録し、白い管へ接続する。
「本人同意」とセレナ。
「一時間だけ」とミレ。「終わったら三枚とも私へ返して」
「返却条件、記録」
「実験費」とロロ。
「何で本人が払うの」エリア。
「払わない! 費用を知ってもらう!」
「言い方!」
「木札一、紙一、管圧二分、俺の労働四十分!」
「請求先」カイル。
「王家?」
「なぜだ!」
「公共制度の不具合」
「この国は我が国ではない!」
「国境を越えると公共責任も越える王子!」
「勝手な格言を作るな!」
試験が始まる。
白い管が一度鳴る。
かち。
一枚目の手書きは残る。
二枚目の木刻も残る。
三枚目の中央式穴列だけ、内側から白い粉を噴き、読み出し窓が空になる。
ミレ本人は立っている。
母は「ミレ」と呼べる。
アムナは公的名を言える。
中央へ接続した同じ音だけが消えた。
「無誓領域で、誓紋の応答が返らない」とロロ。
「応答がない名を、どう処理している」とカイル。
「不明」とセレナ。
「死者?」ハル。
「可能性。移住、失効、虚偽登録、死亡、本人による撤回。白い塔の規則を見なければ分からない」
「でも塔が消してる」アムナ。
「塔へ向かう命令経路は確認済み。ただし塔が命令を作っているか、中継しているだけかは未確定です」
アムナは、自分の医療受領票を取り出した。
紙の中央。
アムナ・エクリプス。
昨日まで黒かった文字の端が、白く崩れている。
ア。
ム。
ナ。
最後の一画が薄い。
「試す」とアムナ。
「何を」ハル。
「医療扉」
「もう分かってる」
「私で」
「分かってるからやらない」
「本人が望んでる」とネイ。
「危険がある」エリア。
「入れなくなるだけ」アムナ。
「薬を必要とした時に困る」
「今、困っている人と同じになる」
「同じになっても理解したことにはならない」とセレナ。
「私の名」
「だから、あなたが決める。ただし影響を説明した上で」
説明する。
扉に認識されない。
医療履歴へ接続できない。
配給、通行、就学など、後から紐づく可能性がある。
復旧方法は未確定。
「続ける」アムナ。
医療所の入口へ立つ。
昨日、自分の署名でサエルの薬を受け取った扉。
白い読み取り板へ受領票を差す。
かち。
紙から、最後の黒が抜けた。
扉は開かない。
表示窓へ、二語。
受療者なし。
アムナは立っている。
呼吸している。
左眼の非誓式レンズを付け、煤で黒い指を持ち、昨日より少し咳をしている。
制度の側だけが、彼女を見失った。
「名前」とハル。
アムナは振り向く。
「アムナ・エクリプス」
「名前。もう一度」
「アムナ・エクリプス」
ハルは言えた。
エリアも言える。
ロロも、カイルも、セレナも言える。
ノクスは、しゃ、こつ、と彼女の足音を聞き分ける。
紙だけが白い。
アムナは自分の右手へ、左手で名を書こうとした。
炭が止まる。
「書かないの?」ハル。
「今は」
自分の名を、消える恐怖だけで書く。
それは選んで残すことではない。
アムナは白い受領票を折った。
捨てない。
名前があった場所も、証拠だからである。
遠くの白い塔が、また一度、機械音を鳴らした。
かち。
アムナの公的名が消えた。
アムナ本人は、消えなかった。
この二つを、もう同じにしてはいけない。