第709話 第七章「誓いで登録された名」前編

名前は、言葉である。

 だが、国家へ渡された瞬間、名前は言葉だけではなくなる。

 学校へ入る鍵になる。

 薬を受け取る器になる。

 結婚を認める印になる。

 税を納める穴になる。

 国境を越える札になる。

 人は名を持つ。

 制度は名を使う。

 この二つは、同じではない。

 同じだと思われていた時代、名を失うことは、呼ばれなくなることだった。

 制度が名へ無数の機能を結びつけた時代、名を失うことは、生きたまま社会から切断されることになった。

 文明は人を殺さずに消す方法を、善意の申請書から発明したのである。

【現実/三窓の宿・裏の物置/覚醒/到着四日目・朝】

 アムナは十五人を、十五本の指へ置こうとして、足りないことへ気づいた。

 人間の指は十本しかない。

 当たり前である。

 しかし記憶のために身体を使う者は、当たり前を配置の限界として受け取る。

 右手に宿区。

 左手に医療区。

 両手首へ畑区。

 肘へ井戸区。

 肩へ白峡前。

 十五人を位置へ分ける。

 サエル・ミナは右の中指、火の部屋。

 ミレア・トウは左の小指、学校扉。

 名前を失った麦番は右手首、配給庫。

 名を思い出せない陶工は左肘、共同窯。

 そこまで置いて、アムナは止まった。

 右の薬指に、二人いる。

「違う」

 炭で引いた線を袖へ擦る。

 消えない。

 黒い跡は薄くなるだけで、皮膚の溝へ残る。

「違う」

 二度目に言った時、物置の戸口から声がした。

「何がだい」

 ウル・エクリプスは、杖より先に咳を入れてきた。

 一度。

 二度。

 三度。

 それから笑う。

「咳の数を覚えるなよ。季節で変わる」

「覚えていない」

「嘘だね」

「記録していない」

「覚えることと記録することを、便利に分け始めたね」

 ウルは結び目だらけの帯を床へ置いた。

 長い白髪は何枚もの布に包まれ、色のない国では布の違いが手触りだけになる。

「右の薬指へ誰を入れた」

「陶工」

「もう一人」

「粉挽き」

「似ているのかい」

「名前が」

「どちらも思い出せないのに?」

「音の形が似ていた」

「音の形を覚えているなら、思い出せないとは言わない」

「言えない」

「それは違う」

 ウルはアムナの言葉を、そのまま返した。

「言えない名と、覚えていない名と、言ってはいけない名は、別の棚へ置きな」

「棚が足りない」

「棚を増やす前に、人へ持ってもらいな」

「忘れる」

「一人で持っても忘れる」

 アムナは返事をしない。

 ウルは待つ。

 肺の悪い老人が、十五歳の沈黙を待つ。

 時間に余裕があるからではない。

 急かして得た返事は、返事をした人のものではなくなると知っているからである。

「昨日」とアムナ。「サエルの吸入紙を、ミレの寝床へ置いた」

「誰が気づいた」

「ノクス」

「どうやって」

「足音。サエルは右足を引く。ミレは爪先が二度鳴る」

「小獣に教わったかい」

「間違った」

「間違ったね」

 慰めない。

「十五人を覚えられない」

「十五人を一人で覚えようとした」

「同じ」

「違う」

 また返された。

「さて、そこは誰から聞いた?」

「何を」

「一人で覚えなければ、その人は消えるという話を」

 アムナは、自分の外套を見る。

 布を硬くするほど重なった名。

 表へ公開名。

 裏へ家の呼び名。

 袖裏へ死者。

 裾へ所在不明。

 最初の一人を書いた日のことは覚えている。

 最後の一人を書いた日のことも覚えている。

 その間に何人書いたかは、数え直さなければ分からない。

「見た」

「何を」

「名が消えたら、救難灯が消えた」

「それで?」

「書く」

「灯を直す代わりに?」

「両方」

「手は二本だ」

「増やせない」

「人は増やせる」

 ウルは帯の結び目を一つ、ほどいた。

 縄の結びで残す文字〈ノット・スクリプト〉

 結び目一つは文字ではない。

 結ぶ位置、方向、間隔、二重か一重か、端を残すか切るかで意味が変わる。

 紙より遅い。

 検索しにくい。

 複写には人の手がいる。

 だから、一か所から一斉に消しにくい。

「これは誰」アムナ。

「言わない」

「記録」

「数だけ」

 ウルは結び目を触らせる。

 生活者一。

 薬が必要。

 呼称は口頭のみ。

 所在は一日限り。

「名がない」

「名を渡されていない」

「同じ」

「違う」

 三度目。

 アムナは、違うという語を自分だけのものだと思っていた。

 言葉を所有できると思う者は、名を所有する制度と遠くない。

 聞き取りは、宿の食堂で始めた。

 セレナが質問項目を作る。

 一、現在呼ばれている呼称。

 二、その呼称を公表してよい範囲。

 三、消えた公的名を最初に登録した機会。

 四、その時に誓紋を使ったか。

 五、手書き、口承、結び目に同じ名が残っているか。

 六、名を戻すことを望むか。

「最後を先に聞くべき」とアムナ。

「戻せる方法が分からない段階で、結果を約束できません」セレナ。

「望みは聞ける」

「聞けます。しかし、戻すの意味を定義する必要があります。紙へ書くのか、医療へ接続するのか、公開検索へ載せるのか」

「全部」

「本人が全部を望むとは限らない」

「名は全部」

「名へ全部を結びつけたから、今、全部が消えています」

 セレナの声は平らだった。

 平らな声は冷たく聞こえる。

 だが彼女は、冷たいから平らなのではない。

 同じ質問を、王子にも無登録の子供にも同じ高さで渡すため、声から坂を削っている。

「質問を七つにする」とエリア。

「増えた」ハル。

「二を分ける。今の呼称と、戻したい公的名は同じとは限らない」

「七つは多い」とカイル。

「王太子の就任宣誓は百四十七項目です」

「民衆へ負担を転嫁するな!」

「あなたの負担を例にしただけ」

「例にするな!」

 ロロは木札へ七つの穴を開けた。

「読めない人は穴。話したくない人は未回答穴。後で変える人は端を残す」

「端を残す?」ハル。

「切り落としたら変更できない。折って残す。次に本人が開く」

「回答欄が物理的」

「紙は白くなる。木は白くなっても穴が残る」

「色は最初からない」カイル。

「その冗談、ここだと説明がいるから減点」

「王子の冗談へ採点制度が!」

「不合格なら薪割りへ戻す」

「王権の再就職先が安定している!」

 笑いが出た。

 アムナは、笑いを覚える。

 カイルは怒ったふりをした時、最後の音を大きくする。

 ロロは請求の話をする時、二本の補助腕のうち右を先に動かす。

 エリアは本当に面白い時、右手で口元を隠す。

 セレナは笑わないようにした時、単眼鏡の位置を直す。

 ハルは誰かが笑えば、自分の冗談が失敗していても成功した顔をする。

 人を名だけで覚えない。

 アムナが目指していたことだった。

 しかし人を名へ集めるほど、その人の笑い方は欄外へ追い出されていた。

 最初の聞き取りは、麦番だった。

「今の呼ばれ方」セレナ。

「麦番」

「公表範囲」

「配給区まで」

「消えた公的名を登録した機会」

「十三の時。粉挽き組合へ入った」

「誓紋」

「押した。『量をごまかさない』って」

「手書き記録」

「母の鍋裏」

「口承」

「夫が知ってる。今は言えない」

「戻したいですか」

 麦番は考えた。

「薬へは戻して」

「公開名簿へは」

「いらない」

「徴税へは」カイル。

「王子が聞く?」

「王子だからこそ、答えたくなければ答えなくていい」

「それを王子が言うと、断った時の怖さが増える」

 カイルは右籠手を左拳で二度叩きかけ、炎が出ないことへ気づき、手を止めた。

「質問を撤回する」

「撤回記録」とセレナ。

「そこまで残すのか」

「聞かれた圧力は、答えがなくても残ります」

 麦番はカイルを見る。

「税は、名前じゃなくパン窯の数で取って。私の名に窯を結ぶと、また名が消えた時に窯まで止まる」

「提案として記録する」

「私の名なしで」

「承知した」

 二人目は、ミレだった。

「学校登録」

「七歳」

「誓い」

「『学んだことを町へ返す』」

「その名だけ消えた?」

「家の呼び名は残った」

「公的名を戻す?」

「卒業証へは」

「公開検索」

「村だけ」

「村の外から探す人は」

「母が許した時」

「あなたが許した時ではなく?」エリア。

 ミレは母を見る。

 母も娘を見る。

「私が」とミレ。

「訂正します」とセレナ。

 三人目は、陶工。

 婚姻誓約で登録。

 配偶者の死後、名を公開したくない。

 共同窯の持分だけ戻したい。

 四人目は、井戸番。

 医療誓約。

 輸血歴と薬歴は医療者だけへ。

 名は村内で口承。

 五人目は、荷運び。

 通行誓約。

 事故時に家族へ知らせる呼称は必要。

 普段の居場所は検索されたくない。

 六人目。

 七人目。

 八人目。

 共通点が形になる。

 出生時の名だけではない。

 親が呼んだ名でもない。

 壁へ炭で書かれた名でもない。

 医療、就学、婚姻、職能、通行。

 何かを受け取るため、何かを守ると星へ誓った時。

 公的名は誓紋へ固定され、中央の白い塔へ接続された。

「誓いで登録された名だけ」とアムナ。

「現時点の全十五例で一致」とセレナ。

「仮名は」ハル。

「残る」とエリア。「宿の呼び名、家の略称、仕事名、壁の落書き。中央へ接続していないものは白くならない」

「人が名前を失ったんじゃない」

「制度が使う名前を失った」カイル。

「逆」とネイ。

 梁の上から、足が一組下りた。

 今日は左靴に薄い金属片、右靴に布。

 昨日とは音が逆である。

「制度が名を失ったんじゃない。制度へ渡した名が、人から離れた」

「同じじゃない?」ハル。

「誰を主語にするかで、盗まれた物が変わる」

「盗みと断定する証拠はありません」とセレナ。

「じゃあ、なくした?」

「原因は未確定です」

「制度は原因が未確定なら、返さなくていい?」

「返す方法と権限を立証します」

「立証している間に、薬が捨てられる」

「だから救命手続を別に動かしている」

「別、別、別」アムナ。

「分けないと、一つの名へ全部がつながる」とエリア。

「分けたら、忘れる」

「忘れる可能性を一人でなく複数へ渡す」

「渡した相手が消す」

「だから撤回と監査を作る」

「作っている間に消える」

 アムナは立ち上がった。

 十五人の名が身体の上で揺れる。

 右の薬指に二人。

 左肘に、今はいないはずの一人。

 肩の白峡前へ置いたサエルが、医療区へ移ったのに戻し忘れている。

「薬」とアムナ。

「何?」ハル。

「サエルの吸入紙。朝、三枚」

「渡した」

「二枚しか」

「俺は三枚持っていった」

「寝床は」

「医療所の奥」

「違う。宿の火部屋」

「昨日まで」

「今日も」

 アムナは走る。

 物置。

 火部屋。

 空。

 医療所。

 奥の寝床。

 サエルがいる。

 吸入紙は三枚。

「ある」とハル。

 アムナは右手を見る。

 火の部屋へ置いた名を、場所が変わった後も移せていなかった。

「私が間違った」

「疲れてる」

「理由は訂正にならない」

「訂正の理由にはなる」

「違う」

「違わない。間違えたことと、次にどう防ぐかは別だろ」

「別ばかり」

「分けた方が責めやすい」

「責めたい?」

「責任の場所が分かる」

「私」

「今の間違いはな。十五人全部を一人で持たせたのは、俺たちも」

「頼んでいない」

「頼まれてなくても止められた」

 ハルは、アムナの手から炭を一本取った。

「サエルを俺の配達鞄へ置け」

「鞄は動く」

「動く場所を俺が持つ」

「忘れたら」

「戻って聞く」

「戻れなかったら」

「エリアの地図、セレナの記録、ロロの穴札、ノクスの足音。四つある」

「全部間違ったら」

「その時は、分からないって言う」

「消える」

「分からない人を、いない人にしない」

 それが、セレナの数え方だった。

 名を想像で埋めず、存在だけを立証する。

 アムナは炭を取り返さない。

「サエル・ミナ」

 ハルが言う。

「名前。もう一度」

「サエル・ミナ」

「鞄、内側の右」

「了解」

 一人を渡す。

 人を手放したのではない。

 記憶の責任を分けた。

 記憶を分けるには、置き場所だけでなく、渡した時刻が要る。

 ハルの配達鞄へサエルを置いた後、アムナは外套の同じ文字へ細い横線を引いた。

「消す?」ハル。

「移した」

「線だけで?」

「右から左へ一本。今日。配達鞄」

「俺が返したら」

「逆線」

「俺が忘れたら」

「空線」

「線に種類が多い!」

「人が多い」とロロ。

「さっき聞いた!」

 アムナはハルの配達鞄へ手を伸ばさない。

 サエルの記憶がそこにあるわけではない。

 ハルへ確認責任を渡したという約束があるだけである。

 誓いの働かない国でも、約束はできる。

 魔法にならないからこそ、守ったかどうかは後から人が見るしかない。

「返す時刻」とセレナ。

「夕鐘二つ」ハル。

「返せない場合」

「医療所の寝台へ直接確認」

「本人が移動した場合」

「女主人か、寝床札」

「両方違ったら」

「不明」

「採用」

「不明が正解になる日が来るとは」

「正解ではありません。誤答を作らない停止です」

「言い方が裁判」

「作業です」

 記憶に返却条件を付ける。

 貸した工具より、人の名を軽く扱わないために。