第708話 第六章「切れない補給線」後編

 医療箱を終端側へ送る方法がない。

 管内圧送は停止。

 足場は破断。

「迂回」とニア。

「どこ」

「逆潮の落水柱を一周する旧保守索」

「所要」

「九時間」

「薬の温度」

「八時間で上限」

「一時間足りない」

「箱外装を水冷」

「逆潮水は塩分高い」

「内袋を二重」

「材料」

「旧設計資料の防水布」

「証拠を使う」

「複写済み部分」

「採用」

 ニアとエメは、資料箱の布を剥がす。

 過去の制度を包んでいた布が、現在の薬を包む。

「札が必要」と記録番。

「受取人名は消えてる」とエメ。

「管路の検問が通らない」

 ニアは机へ厚い木札を並べる。

 触覚で読めないよう、大きな穴を開ける。

 一穴、生活者一。

 二穴、医療。

 三穴、食料。

 横穴、名前非公開。

 端の切り欠き、本人確認未了。

「名前なしで数える札」

「数も追跡に使える」とエメ。

「位置を分離」

「配送には位置がいる」

「便ごとの一時位置。到着後に切る」

「誰が切る」

「受取側」

「中央へ複写」

「しない」

「紛失したら」

「同じ便の三枚へ分ける。箱、運搬者、受取縄」

「一枚盗まれても」

「人数だけでは場所が分からない。位置だけでは名が分からない」

「名はない」

「必要ない」

 ニアが、必要ない、と言う。

 以前の彼女なら、数字へ人を押し込むために名を省いた。

 今は、名を持たない権利を残すために、数と位置を分ける。

 同じ動作でも、目的が違う。

 目的が違っても、結果が同じなら被害者には区別できないこともある。

 だから監査がいる。

「現場鍵」エメ。

「渡す?」

「この札の運用だけ。三便。終了後、回収」

「採用」

「ありがとうと言うな」

「言わない」

「必要とする」

「赦してはいない」

 二人の決まり文句。

 繰り返すたび、同じ意味ではない。

 最初は壁だった。

 今は、壁へ扉の位置を記す言葉になりつつある。

 扉が開いたわけではない。

 迂回路は、地図では半円だった。

 現場では、半円を歩く者がいた。

 旧保守索の最初の三分の一は、頭上へ落ちる海の飛沫を受ける。

 次の三分の一は無風。

 最後の三分の一は無誓領域の縁で、誓式の靴底固定が一歩ごとに消える。

 荷箱を送るだけなら、滑車へ載せればよい。

 薬箱は違う。

 温度を見なければならない。

 衝撃を数えなければならない。

 冷却布が乾けば交換する。

「運搬者名」と記録番。

「いらない」とエメ。

「事故時の責任」

「役割札。第一索、第二索、冷却、温度、受取」

「同じ役割が交代したら」

「交代時刻」

「誰が交代したか」

「本人半札」

「名前なしで、後から責任を問える?」

「問えるようにするんじゃない」ニア。「何が起きたか検証できるようにする」

「同じでは」

「責任者を一人見つければ事故が説明できるとは限らない」

 自分が署名した成功基準を、後から制度全体のせいだけにはしない。

 しかし、制度全体を一人の署名へ潰しもしない。

 記録番は木札へ役割穴を開けた。

 第一索。

 第二索。

 冷却。

 温度。

 受取。

 その横へ、交代時刻だけを刻む。

「報酬」と筏番。

「登録名がない運搬者へ払えない」と記録番。

「また名」エメ。

「監査台の会計規則」

「物資券」

「本人確認」

「半札」

「盗まれたら」

「便終了で失効。再発行は同じ役割の二人が証言」

「共謀」

「全部を防ぐ仕組みは作れない」ニア。

 その言葉を言うのに、彼女は以前より時間がかかった。

「防げなかった損失を、誰へ押しつけないかを先に決める。盗難分は共同損失。運搬者の給与から引かない」

「会計が赤字」と記録番。

「赤字を隠す方が高い」

「誰へ説明」

「登録されている監査台四十七人と、登録されていない受取側。両方」

「受取側へ帳面を渡せない」

「数字だけの写し。場所は切る。名前はない」

 物資を渡す時、会計も渡す。

 無料の救難は美しく聞こえる。

 無料で働いた人間の名前と食事を、後から請求書ごと消しやすいからである。

 第一索で、冷却係が交代を拒んだ。

「まだ三」

 若い作業員が言う。

「手の震え四」とエメ。

「寒いだけ」

「箱を落としたら」

「落とさない」

「条件」ニア。

「何が」

「落とさないと判断した根拠」

「前の便でも」

「前の便は誓式靴底が動いていた」

「俺を外したい?」

「交代させたい」

「名前がないから信用しない?」

 ニアは答える前に、若者の半札を見る。

 呼称欄は空。

 役割は冷却。

 本人が名前を出さないと選んでいる。

「名前ではなく、震え四」

「俺は三と言った」

「自分の申告と外部観察が違う」

「どっちを信じる」

「両方残す。交代判断は、箱の安全とあなたの安全を分けない」

「俺の仕事を奪う」

「報酬は便終了まで。交代しても減らさない」

 若者の口が止まる。

 仕事を失う恐怖が、疲労を三と申告させていた。

 交代すれば報酬を失う制度は、疲れた身体へ嘘を言わせる。

「交代」と若者。

「本人申告、四へ訂正?」記録番。

「三のまま。手は四」

「両方」

「両方」

 彼は冷却布を次の係へ渡す。

 名は言わない。

 役割は渡せる。

 第二索で、薬箱の温度が上がった。

 残り許容、四十分。

 到着予定、五十五分。

「十五分足りない」とエメ。

「冷却水を増やす」とニア。

「重量二・一増」

「索上限」

「あと一・七」

「四百グラム超える」

「外装布を一枚捨てる」

「証拠資料の複写」

「済み」

「薬箱の保温が落ちる」

「外側を濡らすなら布が必要」

 計算が閉じない。

 以前のニアなら、もっとも価値の低い物を一つ切る。

「箱を二つへ分ける」と筏番。

「密封を破る」とエメ。

「内袋は独立」

「説明書」

「名前が消えた紙の裏」

 紙の名は白い。

 注意書きは残っている。

 吸入薬十二。

 骨固定布六。

 乾燥食二十四。

「乾燥食を別荷」とニア。「薬箱から外す。食料は常温」

「受取札が一つ」

「分ける」

「一人分の情報を二便へ」

「名前はない。内容と数量だけ」

「紛失したら、どちらが本体か分からない」

「本体を作らない」

 薬は薬として届く。

 食料は食料として届く。

 同じ受取人へ結びつけるのは、受取側の半札だけ。

 中央の運搬記録は、誰が薬と食料を両方受け取ったか知らない。

「不正受領」と記録番。

「起きる可能性」ニア。

「防がない?」

「受取側で、人数と在庫を監査。個人の名を中央へ戻さない」

「損失が出たら」

「共同損失」

「また赤字」

「赤字であることを公開」

 正しい制度は、赤字にならない制度ではない。

 どこで誰が費用を負うかを、弱い側の沈黙へ隠さない制度である。

 乾燥食を別袋へ移す。

 荷重は一・六下がる。

 冷却水を二増やす。

 総重量は上限内。

 到着予定を三分短縮。

 まだ十二分足りない。

「第二索の曲がりを一つ使わない」とエメ。

「旧墓地縄」

「墓標管理へ許可なし」

「さっき返事がない」

「無断使用はしない」

「待てば温度上限」

 エメは、自分の真鍮鍵を握る。

「墓標を動かさず、索だけ通す。使った区間、荷重、時刻、損傷なしを現場へ残す。後から費用を払う」

「許可なし」とニア。

「緊急使用。終了条件二十分。戻し条件、墓標一ミリでも動いたら中止」

「誰が判断」

「墓地へ一番近い筏番」

「本人は」

 筏番が頷く。

「使う。死者の道を、生者が勝手に所有しない。通った跡は消さない」

「採用」

 墓地索を一度だけ使う。

 十二分短縮。

 薬箱は温度上限の三分前に最終索へ入った。

 最後の区間で、受取側から信号が来た。

 名はない。

 縄の結び。

 一、受取人が予定より四多い。

 二、吸入薬を先に。

 三、食料は共同庫。

 四、運搬者の名を送るな。

「四多い」と記録番。

「箱の数が足りない」エメ。

「薬は二十四人分」とニア。

「受取予定二十四、実数二十八」

「割る?」

「医療判断が必要」

「現地に医師なし」

「症状札」

 返ってきた縄を読む。

 喘鳴強三。

 中四。

 軽十七。

 予防四。

「強三へ正規量。中四へ正規量。軽十七は一回分を確保。予防四は保留」エメ。

「誰が決める」

「現地の症状確認者と、こちらの在庫。暫定。到着後、再確認」

「名前なしで、重複投与」

「本人半札へ投与穴。中央へは送らない」

 ニアは薬の配分へ口を出さない。

 数を読むことと、医療判断をすることは別である。

「私は食料の配分」

「一人一袋では足りない」と筏番。

「共同鍋。人数二十八。二日分。予備一日を作らない」

「次便が遅れたら」

「次便の遅れを隠して、今の一食を減らす方が危険。遅延時は監査台側の備蓄を追加迂回」

「こちらが減る」

「減ることを四十七人へ公開」

「反対されたら」

「反対も数える。無登録側の腹を投票から外さない」

 記録番が息を吐く。

「遅い制度だ」

「速い切断を止めた結果」エメ。

「遅さの費用も記録」とニア。

 迂回輸送は英雄的ではない。

 寒い。

 長い。

 帳面が増える。

 報酬交渉がある。

 墓地へ謝罪が要る。

 薬は足りず、食料も余らない。

 それでも、補給線は残る。

 線を残したのではない。

 線の向こうで、名簿にいない腹が空くことを、切断計算から外さなかったのである。

 九時間後。

 医療箱は旧保守索を通り、終端環側へ入った。

 色が消える境界で、札の穴だけが残る。

 紙の行き先名は白くなる。

 木の穴は消えない。

 縄の結びも残る。

 箱。

 運搬者。

 受取縄。

 三つに分けた情報が、別々の道を進む。

 その夜、三窓の宿の前へ、音のない荷車が着いた。

 名札は空白。

 箱の側面へ大きな穴が二つ。

 医療。

 横穴。

 名前非公開。

 端の切り欠き。

 本人確認未了。

 エリアが札を読む。

「誰から?」ハル。

 紙の差出人名は白い。

 木札の裏へ、工具で一文だけ刻まれている。

 ――数は権利の最低線。名は別に選べ。

 ロロは文字の削り方へ指を当てた。

「ニア」

「断定?」セレナ。

「最後の縦線だけ、触覚ない手の角度。エメが固定した跡もある」

「二人から?」

「共同作業。仲良くなったって意味じゃない」

「分かってる」

 箱の中には、廃棄されるはずだった薬。

 名前がなくても数えられる木札。

 受取人が自分で切り離せる縄。

 遠い場所で、ゼロスター号の到着を待たず、別の救難が進んでいる。

 ニアは補給線を切らなかった。

 そのために失った物も、遅れた時間も、消えない。

 届いた薬だけを見て英雄と呼べば、失った資料と危険へ残った作業員が、また数から消える。

 エメは感謝を送らなかった。

 次便の監査時刻だけが、木札の下へ刻まれていた。