第707話 第六章「切れない補給線」前編
補給線とは、地図に一本の線で描かれる。
現実には、一本ではない。
食料を作る者。
袋へ詰める者。
重さを量る者。
運ぶ者。
橋を直す者。
届いた数を数える者。
足りないと訴える者。
地図に描かれる線は、それらの人間を細く潰した影である。
軍人は補給線を「切る」と言う。
技師も「切る」と言う。
政治家は「制裁する」と言う。
食卓に座る者は、もっと短く言う。
明日のパンがない、と。
【現実/逆潮外縁・第零監査台/覚醒/同日・夜鐘前】
ニア・ピクスは、危険な線を見ていた。
逆さ海の外縁から、終端環へ向けて伸びる大径補給索。
太い管の中を、圧縮空気で荷箱が走る。
管の外へ保守足場。
足場の下は、落下する海。
足場の上は、色を失い始めた雲。
終端環側から無誓領域が広がり、索の誓式補強が一本ずつ消えている。
残存荷重、六十二。
安全域、五十五。
次便到着まで、十八分。
「切る」
ニアは言った。
低い声。
判断を感情へ聞かせない声。
エメ・ドックは、三つ目の鍵を回さなかった。
「許可しない」
「このままなら監査台側まで引かれる」
「値を読め」
「読んだ。残存六十二。許容五十五。終端側の第三支柱を切断すれば、こちらは四十八へ戻る」
「切断先」
「無登録区」
「生活者」
「台帳上、零」
「台帳を聞いていない」
エメの声はざらついている。
左手の中指と薬指はない。
右腿へ金属片。
湿度が上がると咳が出る。
彼女は圧力計へ右手を置く。
誓星術の圧痛は、無誓領域の境で乱れる。
だから数字を見る。
終端側へ送った食料箱。
空箱の戻り数。
管内の摩擦。
水袋の減り。
「零なら、なぜ昨日の空箱が十三」
「無登録生活者」
「十三人?」
「最低十三。箱を共同使用していれば多い」
「位置」
「不明」
「切れば」
「次便から食料、薬、吸入紙、全部止まる」
「切らなければ、監査台側四十七人と、逆潮外縁の医療路が危険」
「知っている」
「残せる数を言って」
ニアの口癖。
世界を数へ変える言葉。
エメは彼女を見る。
「数を言えば、少ない側を切る?」
「切断判断の入力にする」
「同じ」
「違う」
「あなたが違うと言えば、切られた側の腹が満ちる?」
ニアは答えない。
両手の触覚は、まだ零に近い。
紙を一枚めくれない。
工具の温度も分からない。
六本の機械補助腕シザー・クラウンは、箱に収められている。
再装着すれば作業速度は上がる。
断機も使える。
だが、三鍵がそろわない。
住民鍵。
現場鍵。
記録鍵。
エメが現場鍵を回さない。
「十八分」とニア。
「時間で同意を削るな」
「削っていない。残りを共有している」
「共有した時間を、あなたが所有するな」
ニアは髪へ編んだボルトを一個回した。
普段なら、次に数字を言う。
言わない。
動揺している時、彼女は数字を間違えない。
数字をやめる。
「別案」
「出して」
「第三支柱を切らず、第二と第四へ仮索。荷箱を管外へ出し、手で運ぶ」
「時間」
「次便には間に合わない」
「一便捨てる?」
「医療箱を先に抜く。食料箱二つは管内で停止。監査台側の荷重を、逆潮の浮き筏へ預ける」
「浮き筏は墓地航路」
「だから墓地管理へ確認」
「十八分」
「十二分で確認が戻らなければ、筏を使わない。監査台の非重要倉庫を外し、荷重を六落とす」
「倉庫の中身」
「終端議会の旧設計資料」
「証拠」
「複写済み八割」
「残り二割」
「失う」
「あなたの審理に必要」
「命より優先しない」
「誰の命」
「登録されていない十三以上も含む」
ニアは一度、目を閉じた。
「採用」
切らない。
切れば速い。
切れば監査台の危険は下がる。
切れば戦略上の好機を得る。
それでも切らない。
善人になったからではない。
エメが鍵を渡さないからである。
成長とは、正しい心が生まれることだけではない。
間違う者の手を、制度が物理的に止められるようになることでもある。
作業員は六人。
ニア。
エメ。
監査台の把持具係二人。
逆潮側の筏番一人。
記録番一人。
バズは別管の当番でいない。
英雄不在。
ちょうどよい。
「補助腕は」エメ。
「使わない」
「見栄?」
「再接続手術後の許可がない」
「正確」
「手作業へ変える」
ニアは厚い木製挟み具を右手へ固定する。
指で握れない。
手首と肘で挟む。
左手は振動計へ。
「ロロなら笑う」
「弟を判断基準にするな」
「しない」
「今した」
「修理方法の比較」
「家族を比較表へ入れるな」
ニアは返事をしなかった。
エメは欠損した左手へ、幅広の固定具を巻く。
「あなたも義指を」
「使わない選択」
「効率が」
「効率の話を続けるなら、鍵を外す」
「やめる」
「早い」
「学習した」
「免責にはならない」
「使わない」
二人は仲良くない。
会話の一つ一つが和解へ向かっているわけでもない。
共同作業は、必ずしも心の距離を縮めない。
それでも工具は渡る。
「十三番レンチ」ニア。
「名前を食べ物にしていない」
「それはロロ」
「知っている」
エメはレンチを渡す。
ニアは感触で受け取れない。
木の受け皿へ置いてもらい、目で位置を確認する。
「受領」
「落とすな」
「落としたら言う」
「落とす前に止めろ」
「停止条件、把持具の角度十二度以上」
「最初から言え」
補給管の外板を開く。
中で荷箱が震えている。
誓式減速が消え、機械ばねだけで止まっている。
次の圧送が来れば、箱同士が衝突する。
「医療箱、先頭」記録番。
「受取人」ニア。
「終端外縁・白峡前」
「登録人数」
「零」
「内容」
「吸入薬、骨固定布、乾燥食」
「零人へ医療箱?」
「昨日まで、受取人数二十四」
エメが笑わない。
「名簿が先に消えた」
「白峡前の村かもしれない」
「断定するな」
セレナがいなくても、同じ言葉が出る。
人は互いから癖を受け取る。
受け取った癖を、相手の所有物にはしない。
次便まで十三分。
墓地航路から返事はない。
「筏、使えない」とニア。
「使わない」エメ。
「旧設計倉庫を外す」
「資料二割」
「先に複写できる量」
「一割」
「残り一割を失う」
「あなたの責任資料が含まれる」
「だから、失ったことも記録」
「後で『資料がないから分からない』と言うな」
「言わない」
「記録番」
「記録中」
ニアは倉庫の接続ボルトへ工具を当てる。
切断術なら一瞬。
荷重線を一本だけ切る術〈カットオフ〉。
だが三鍵がない。
さらに無誓領域の縁で、術そのものが不安定。
一本ずつ緩める。
十二本。
右手の把持具。
左肘。
腰の支え。
一。
二。
三。
ロロの跳躍数ではない。
弟が幼い頃、二人で螺子を外す時に使った数え方。
ニアは三を言わない。
「三」とエメ。
代わりに言う。
「家族の真似?」
「作業合図」
「正確」
ボルトが外れる。
倉庫を吊っていた四本の索が緩む。
旧設計資料の箱を一部だけ搬出。
残りは倉庫ごと逆潮へ落とす。
白い箱が頭上の海へ吸われる。
紙が水へ散る。
十五年前の切断計画。
終端議会の圧力表。
ニアの署名があるかもしれない紙。
証拠が失われる。
命を救うためなら、証拠を燃やしてよいのか。
法は簡単に答えない。
現場は、答えが来るまで崩壊を待たない。
だから、失った資料の一覧を先に残す。
「箱三十二、複写二十九、未複写三」と記録番。
「内容不明一を含む」とニア。
「なぜ不明」
「封印札が消えている」
「不明を不明で残す」エメ。
「分かっている」
「確認」
倉庫が外れた。
荷重、五十六。
安全域五十五。
「一多い」
「私が足場を降りる」とニア。
「人を荷重調整にするな」
「一・六下がる」
「降りた先」
「保守索」
「無誓側」
「はい」
「戻れない可能性」
「三割」
「却下」
「代案」
エメは自分の腰から古い区画鍵を外す。
真鍮の鍵。
十五年前から持っている。
重さ一・三。
圧力計を二台外す。
合計一・八。
「監査具を捨てる?」ニア。
「目盛は複写した」
「次の監査」
「手持ち一台」
「精度が落ちる」
「人より先に計器を残すな」
圧力計が逆潮へ落ちる。
荷重、五十四・二。
安全域。
「鍵は」
「残す」
「思い出?」
「住居権」
「物理鍵がなくても」
「あなたが言うな」
ニアは黙った。
次便まで六分。
医療箱を管から抜く。
外側の保守足場へ移す。
そこから、仮索を伝って終端側へ手送りする。
足場は揺れる。
誓式補強が消えた部分から、金属が本来の弱さを見せる。
文明は、魔法で強くなった物を、最初から強かったと勘違いする。
「右支点、亀裂!」
「長さ」ニア。
「二十七センチ」
「進行」
「一呼吸ごと一ミリ」
「医療箱を先に」
「人が先」エメ。
「人は退避路にいる」
「箱係が二人」
「係も退避」
「医療箱」
「残す」
「誰へ」
「受取人零の二十四人」
「なら人」
ニアの声が止まる。
旧い判断なら、医療箱を残す。
二十四人分の薬と、二人の作業員。
数だけなら二十四が多い。
しかし、薬は人が運ばなければ届かない。
作業員を部品へ数えれば、補給線は自分を食べる。
「箱を固定。全員退避」
「採用」エメ。
作業員二人が戻る。
医療箱を足場へ残す。
亀裂が三十二センチ。
「箱、落ちる」
「仮索二本」ニア。
「手作業」
「私が行く」
「却下」
「理由」
「あなたは触覚零。箱を持った感覚がない」
「視覚で」
「粉塵で視界三割」
「エメは指二本欠損」
「だから幅広具」
「圧痛」
「四」
「五で交代」
「誰と」
「あなた以外」
エメが保守足場へ出る。
左手の固定具を仮索へ掛ける。
右手で箱の取っ手。
亀裂が伸びる。
ニアは切れと言わない。
「一歩」
「命令?」
「距離共有」
「続けて」
「あと二・四メートル」
「箱の重さ」
「十八」
「風」
「逆潮側へ二」
「足場」
「残り三十秒」
「数える」
エメが一歩。
足場の継ぎ目が外れる。
医療箱が傾く。
ニアは本能的に右手を伸ばした。
掴んだつもりになる。
触覚がない。
箱が手の中にあるか分からない。
「持ってる!」エメ。
声で確認する。
ニアの木製挟み具が、箱の角を挟んでいる。
「角度八」エメ。
「十二で停止」
「今十」
「あと一歩」
「十一」
「渡す」
「受領」
エメが箱を引く。
ニアは離す。
離した感覚がない。
「離れた?」
「離れた」
「確認」
「箱は私側」
ニアは手を下ろす。
他人の言葉を、自分の感覚の代わりに使う。
それは依存である。
依存は悪ではない。
隠した依存が、権力になる。
足場が折れた。
二人は別々の索へぶら下がる。
医療箱はエメ側。
「圧痛!」
「五!」
「交代!」
「誰と!」
「俺!」
把持具係が索を巻く。
エメが引き上げられる。
ニアは自分で上がらない。
「助けを」
「頼む」
低い声。
名前ではなく、役割へ。
二人目の係がニアの索を巻く。
足場の半分が逆潮へ落ちる。
補給管本体は残る。
戦略上の時間は失った。
次便は停止。
終端議会の追跡管を切る好機も失った。
十三人以上の食料路は残った。
全員を救った、という言い方はしない。
旧設計資料三箱。
圧力計二台。
足場半分。
次便の食料二箱。
失ったものがある。
救難は、損失を隠す勝利ではない。