第706話 第五章「配給が一人多い」後編

 配給量だけでは拾えない人を探すため、セレナは逆向きの調査をした。

 何も消費しない者。

 食事を自分で取らない。

 洗濯をしない。

 仕事場へ出ない。

 寝具を毎日整えられ、使用痕が薄い。

「痕のない人を、どう見つける」とアムナ。

「他人の痕の不自然さを見る」

 宿の台所番は、一日に一度だけ、塩粥を小さな蓋付き壺へ入れていた。

 配給票にはない。

 皿も残らない。

 壺は井戸裏の小部屋へ運ばれる。

 そこに、寝台へ横たわる老人がいた。

 目を開けない。

 手は胸の上。

 呼吸は浅い。

「名前」とアムナ。

 台所番が首を振る。

「言わない?」

「思い出せない」

「関係」

「母の姉」

「食事量」セレナ。

「三口。水は半杯。昨日から少ない」

「医療記録」

「白くなった」

 老人は生活痕をほとんど残さない。

 働かない。

 歩かない。

 配給庫へ本人が来ない。

 洗濯物は台所番の分へ混ざる。

 仕事量だけを数えれば、最初に消える人だった。

「存在確認」とセレナ。

 呼吸。

 壺。

 台所番の運搬。

 寝台下に、古い杖。

 三媒体。

「生活者一。医療優先。公的名不明。呼称は本人確認不能」

「オルナ」とアムナ。

「確信度」

「九」

「根拠」

「井戸の七番目の歌。杖の角度。ウルの話」

「本人へ聞けない」

「名を戻す?」

「今は医療へ人数と症状だけ接続します。名の公開は保留」

「死んだら」

「死亡記録へも、名不明のまま生活者一を残す。後から証拠が出れば訂正」

「オルナがいなかったことになる」

「なりません。名が確定しなくても、この人がここで生きた事実は残す」

 アムナは、老人の手へ自分の手を置こうとした。

 止める。

「触れてよいか、聞けない」

「緊急の診察なら、必要最小限」とセレナ。「記憶のためなら、触れない」

 アムナは手を引く。

 代わりに、寝台の位置を覚える。

 名は右手へ書かない。

 この人がいたことを、名前の確信度九へ押し込めない。

「存在、一」とアムナ。

「はい」

「名前、保留」

「はい」

「薬、今」

「はい」

 別々に言う。

 老人の呼吸は、名簿より小さかった。

 それでも、一人分だった。

 正午。

 仕事場を回る。

 パン窯は一人分多く生地を練っている。

 井戸の巻き上げ回数は登録人数より多い。

 畑の畝は、名簿の作業者数では終わらない広さが耕されている。

 荷車の修理台には、サエルの手の幅で削られた木片が残る。

 人は名簿から消えても、昨日までの仕事からすぐには消えない。

 問題は明日である。

 明日の生地は、今日の登録人数で減らされる。

 明日の水は、今の名簿で減らされる。

 明後日の薬は、受療者なしとして届かない。

 生活痕は証拠になる。

 同時に、生活痕だけに頼れば、痕を残せない人から先に消える。

 寝たきりの人。

 無償労働をしない人。

 誰とも食卓を囲まない人。

「痕が多い人だけ復元される」とセレナ。

「働いた人だけ?」カイル。

「そうなり得ます」

「それは配給じゃなく給与だ」

「だから、仕事量は存在の一証拠に留めます」

 ハルが、井戸脇の小さな椅子を見る。

 座面へへこみはない。

 脚に、杖の擦れだけがある。

「ここに誰かいた」

「根拠」

「杖。毎日、同じ角度。椅子に座る前に杖を立てる人」

 アムナが右の薬指へ触れる。

「オルナ」

「確信度」

「九」

「他の痕」

「結び目。井戸歌。ウルが知る」

「確認しましょう」

 ウルは井戸の陰に座っていた。

 色違いだったはずの頭巾は、全部同じ灰へ見える。

 結び目の帯を指で読み、咳を三回した後、笑う。

「オルナ?」セレナ。

「さて、その名は誰から聞いた?」

「アムナ」

「アムナは」

「昨夜の記憶」

「記憶は、朝になると自分の夢を一枚着る」

「あなたは覚えていますか」

「杖の音を」

「名は」

「公開してよいとは聞いていない」

「存在は」

「井戸の七番目の歌を持っていた」

 ウルは歌う。

 水を二度。

 桶を一度。

 杖を石へ三度。

 名は歌わない。

 しかし、その人が担っていた順番は残る。

「存在確認一」とセレナ。

「名前を戻さない?」アムナ。

「戻す相手が、公開を望むか不明」ウル。

「消された」

「だからといって、拾った者のものにはならない」

「私は所有しない」

「外套へ縫う」

「忘れないため」

「誰が読む」

「必要な人」

「必要を誰が決める」

 アムナは黙った。

 ウルは咳をする。

 間がある。

 聞き手が勝手に答えを埋めるための間ではない。

 答えを持っていない者が、持っていないまま座るための間だ。

 午後。

 セレナは、消えた十七人の存在を仮に立証した。

 名前を確定した者、七。

 呼称だけ、三。

 存在のみ、五。

 二重計上の可能性、二。

「十七」とハル。

「最大値。確定は十五」

「名前が消えた人、もっといる?」

「他区画は未調査」

「この村だけでも」

「はい」

 アムナの外套には、七つの名。

 セレナの帳面には、十五の生活者。

 エリアの地図には、十三の位置。

 数字が合わない。

 合わないことは、失敗ではない。

 三つの記録が違う対象を扱っている証拠である。

 十五という確定数が、正しいかを試すため、セレナは夕食の配給を一度だけ二列に分けた。

 一列目は中央名簿。

 二列目は生活痕の仮札。

「人を実験に使う?」アムナ。

「食事量は減らしません。列の違いで受取不能が起きるか確認し、全員へ同じ量を渡します」

「列へ並ぶことで、誰が名簿外か見える」とネイ。

「衝立を置きます。受取後の出口も別。外から列を見えないようにする」

「配給係には」

「人数札だけ。呼称なし」

「配給係が覚える」

「交代二人。記録しない条件を確認」

「記憶は止められない」

「思い出して使わない条件は作れる」

 アムナは黙る。

 ネイが彼女を見る。

「練習」

「あなたは並ぶ?」

「今日は、外で食べる」

「逃げる」

「選ぶ」

 列が始まった。

 中央名簿列、百十九。

 仮札列、十四。

「十五じゃない」とハル。

「一人、中央名簿にも残っている可能性」セレナ。

「二重計上」

「または、食事を取らない人」

 名簿列の最後で、一人が二つの椀を受け取った。

「二重受領」と配給係。

「寝たきりの人へ」と台所番。

「仮札は」

「作った。けど列へ来られない」

 オルナの椀。

 仮札列十四と、代理受領一。

 合計十五。

「確認」とセレナ。

「代理受領者名を」配給係。

「本人半札と、代理一回札。名前なし」

「横流し」

「空の椀と、食後の残量を医療者が確認。代理人の給与から差し引かない」

「制度が重い」と台所番。

「椀が届くより軽い範囲へします」

 オルナへ粥が届く。

 食べたのは二口。

 残りは医療所へ持ち帰る。

「一人分を配ったのに、食べたのは二口」とハル。

「配給人数は一。消費量は一未満」セレナ。

「腹は嘘をつかないって」

「腹が小さい人もいます」

「格言が壊れた!」

「格言を証拠規則にしないでください」

 食事後、仮札列の一人が札を返さなかった。

「盗難?」カイル。

「本人が持つ条件」と本人。

「配給係は回収すると」

「聞いてない」

 手続説明の不足。

 札には一日限りと刻んだが、回収か本人破棄かを書いていない。

「本人が破棄」とアムナ。

「なぜ」セレナ。

「位置を追われないため」

「配給側は、同じ札を明日使われない確認が必要」

「半分を本人が折る。穴の片側を配給側へ返す」とロロ。

「返した側から個人を追える?」ネイ。

「日付と配給一だけ。呼称なし。全札を混ぜて数える」

「本人の半分は」

「自分で燃やす」

「燃やさない人」

「翌日失効」

「失効札を集めて追跡」

「穴位置を日ごとに変える。古札はどの人か分からない」

「印刷費」カイル。

「手で穴!」ロロ。

「労働費」

「公開!」

 制度は一つの穴から始まり、会話のたびに穴を増やす。

 増えた穴は複雑さである。

 同時に、誰かが勝手に通り道を一本へまとめないための逃げ道でもある。

 セレナは配給試験へ、確定十五、代理受領一、二重計上なしと記録した。

「名前は一つも増えてない」とアムナ。

「人は一人も減っていません」

「戻したことにならない」

「今夜、食事へ届いたことにはなります」

 アムナは、薄い塩粥の湯気を見る。

 名を戻す前に、腹へ届く。

 救命としては正しい。

 歴史としては足りない。

 足りないまま、今夜を越える。

「共通点」とセレナ。

 名が消えた者の残存資料を机へ並べる。

 学校札。

 婚姻帯。

 医療受領票。

 労働許可。

 通行証。

 用途は違う。

 紙質も違う。

 発行年も違う。

 担当区も違う。

 ただ、穴列が同じ位置から始まっている。

 最初の三穴。

 本人名。

 誓紋型。

 中央照合。

「全員、中央登録を通ってる」とエリア。

「登録していない人は?」

 ネイ。

 ウル。

 アムナ。

 今のところ、名前は消えていない。

「無登録が安全」とハル。

「安全ではない」とアムナ。

 医療扉へ入れない。

 通貨を使えない。

 救難灯が反応しない。

 消されない代わりに、最初から数えられない。

「登録した者だけを狙う仕組み」とカイル。

「狙うという語は意図を含む」とセレナ。「現時点では、登録経路を通った名だけが消えている」

「誰かがやっているかは分からない」

「はい」

「でも同じ穴列」

「はい」

「塔へつながる」

「はい」

「怪しい」

「怪しさは捜査開始理由。結論ではありません」

 ロロが机の端で、アムナの受領票を持ち上げた。

「これも同じ穴」

 医療区接続。

 アムナ・エクリプス。

「昨日、登録された」とセレナ。

「消える?」ハル。

「分からない」

 アムナは紙を取る。

 自分の名。

 公的な紙へ書かれた、初めての自分。

「見れば分かる」

「実験対象にする気?」エリア。

「もう入った」

「だから出す方法を探す」

「私の名は私が見る」

「見ることと、一人で持つことは別」

「また別」

「大事なものほど分けるの」

 アムナは返事をしない。

 紙を外套の内側へ入れる。

 ネイが梁から降りた。

「それ、檻の入口だよ」

「薬を受け取った」

「名を渡して」

「人が助かった」

「次に、あなたを追える」

「追わせない」

「登録した後に言う?」

「消えた名を、戻す」

「戻した名を誰が持つの」

「本人」

「本人が持たないと言ったら」

「……」

 アムナは答えられない。

 答えられない欄を、空白のままにしておく。

 彼女が最も苦手なことだった。

 夜鐘六つ。

 配給機が翌日の人数を更新する。

 百十九。

 パン生地が百十九人分へ減る。

 セレナは手動で八人分を足した。

「確定十五じゃないの?」ハル。

「救命上の不足を避けるため最大側へ寄せます。余れば翌日へ回す」

「証拠より多く配る」

「配給判断と事実認定は別」

「別ばっかりってアムナが言うぞ」

 アムナは自分の受領票を見ていた。

 黒い文字。

 ア。

 ム。

 ナ。

 まだ残っている。

 だが紙の端に、白い粉のような抜けが一つ現れた。

 誰も見ていない。

 アムナだけが、指でそこを隠した。

 夜鐘の向こうで、白い塔が機械音を返す。

 かち。

 翌日のパンは一人減る。

 生活は、一日遅れて人を忘れる。