第705話 第五章「配給が一人多い」前編
国家が人を数える理由は、たいてい二つある。
与えるため。
取るため。
パンを配る。
税を取る。
薬を配る。
兵を取る。
寝床を作る。
労働時間を取る。
歴史上、人間を最も正確に数えた制度は、慈善でも哲学でもない。
配給と徴税である。
腹は、名簿より嘘をつかない。
ただし、腹の数が分かっても、誰が空腹かまでは分からない。
【現実/宿区配給庫/覚醒/到着三日目・早朝】
セレナ・クロウは、パンを証拠番号順へ並べた。
「食べないの?」カイル。
「検証後です」
「朝食を検証対象にすると冷めるぞ」
「パンは冷めても証拠能力を失いません」
「味は失う!」
「味覚は本件の争点ではありません」
配給庫の長机へ、硬い丸パンが百二十七個。
昨日の納入票は百二十七。
今朝の受領票は百十九。
庫内残数は九。
「一個、多い」とハル。
「計算が速い」
「パンなら」
「法学でも同じ速さを期待します」
「分野別能力!」
「空腹別能力だろ」とロロ。
ノクスが机の下から前脚を伸ばす。
セレナは見ずにパンを一個上へ移した。
「ナァ」
「証拠品です」
「ノゥ」
「抗議は記録します」
「抗議が分かるの?」カイル。
「食べたい時の二音目です」
「長い付き合い!」
誓いの匂いを嗅げなくても、ノクスの食欲は消えない。
約束に伴う感情が薄くなる土地で、空腹は強かった。
人間の文明は星へ誓う前から、食べなければ死んだ。
「一個多い理由」とセレナ。
「注文を間違えた」カイル。
「仮説一」
「誰かが受け取らなかった」エリア。
「仮説二」
「昨日の人数で焼いた」とアムナ。
「仮説三」
「ノクスが一個盗んで、二個戻した」とハル。
「物理的に不可能です」
「ノゥ」
「本人も否定」
「鳴き声を証言採用するな」
「証言ではなく行動観察です」
セレナはパンを切らない。
重さを測る。
焼き印を見る。
底の煤を比べる。
百二十七個は、同じ窯で同じ時刻に焼かれている。
余り物を後から足したのではない。
注文票の穴列は百二十七。
「配給機は前日人数を参照する」と配給庫の女。
彼女は自分の名を言えない。
住民は「麦番」と呼ぶ。
「当日ではない理由」セレナ。
「粉を前夜に量る」
「更新時刻」
「夜鐘六つ」
「昨日の夜鐘六つまでは、百二十七人いたと登録されていた」
「今は百十九」
「八人」ハル。
「名簿上、八人減った。しかしパンは一個しか余っていない」
「おかしい」
「おかしいから証拠になります」
セレナは倉庫を見回す。
パンだけではない。
水瓶。
塩袋。
煤油。
吸入薬。
寝具布。
洗濯石鹸。
物資ごとに発注時刻が違う。
パンは前夜。
水は三時間前。
塩は七日前。
薬は月初。
寝具は季節初め。
人数が消えた時刻を、余り方の違いから逆算できる。
「歴史の地層」とエリア。
「配給の地層です」セレナ。
「同じ」ハル。
「違います」二人。
「また息合ってる」
セレナは、名前を集めなかった。
人数を集める。
宿区。
井戸区。
畑区。
白峡前。
医療区。
食卓の椅子。
洗濯物。
寝具のへこみ。
靴底。
仕事量。
人が一人いれば、生活は複数の場所へ痕を残す。
一つの痕だけでは断定しない。
三つ以上、互いに独立した痕が重なった時だけ「生活者一」と数える。
「名前は?」アムナ。
「今は数」
「数だけなら、同じ人を二度数える」
「だから位置と時間を付けます」
「位置も動く」
「動いた痕を追う」
「追えなくなったら」
「不明と書く」
「不明で終わる?」
「知らない名を想像で埋めるよりよい」
「想像しない。覚えている」
「あなたの記憶が誤る可能性は」
「ある」
「なら照合します」
「私を信用しない」
「信用と検証を同じにしません」
アムナの右手に、昨夜書き直した名がある。
サエル。
ミレア。
ほか七人。
「消えた人が、検証されるまで薬を待つ?」
「待たせないため、仮札で救命します。正式名の確定とは別」
「別ばかり」
「混ぜると、救命の緊急性を理由に公開まで強制できます」
「公開しなければ、また消える」
「公開すれば、追跡される人もいる」
アムナはネイを見た。
少年は配給庫の梁へ座り、名札を三枚燃やしている。
紙質を灰で見分ける遊び。
「今日は何て呼ぶ?」ハル。
「梁の上では、ニイ」
「一字しか変わってない!」
「一字で別人にする制度が悪い」
「制度へ責任を押しつけて遊ぶな」
「制度は僕へ責任を押しつけて追う」
ネイは灰を指で潰す。
「名前があればパンをもらえる。名前があれば居場所を探される。パンだけ欲しいと言うと、わがまま?」
「いいえ」とセレナ。
「即答」
「権利を一括契約へする理由はありません」
「この国はしてる」
「だから調べています」
「調べ終わるまで腹は待たない」
ノクスが一個のパンを梁へ投げた。
前脚ではなく、口で。
ネイが受ける。
「証拠!」セレナ。
「ノゥ」
「被害品一。返還不能」
「食料救難」とカイル。
「勝手に罪名を変えないでください」
ネイはパンを半分にし、ノクスへ戻した。
名も契約もない交換。
それでも、どちらが何を渡したかは見えている。
午前九時。
寝具庫。
登録人数百十九。
使用痕百二十四。
「五人差」とハル。
「パンは一人差、水は三人差、寝具は五人差」とエリア。
「消えた時刻が違う」セレナ。
寝具は一週間ごとの交換。
この七日間に五人。
水は三時間ごとの汲み上げ。
直近三時間に三人。
パンは前夜から一人。
「残り七人は?」カイル。
「長期在庫か、生活痕が別区画か、二重計上」
「答えを一つにしないの、気持ち悪いな」
「気持ちよい誤答より安全です」
セレナは一枚の毛布を持ち上げる。
中央へ浅いへこみ。
端へ指の油。
枕元へ細い糸くず。
「使用者一」
「名前は」アムナ。
「不明」
「外套にある」
「どれです」
アムナは手を止めた。
宿区の寝床。
井戸区の糸。
白峡前の手袋。
記憶宮殿で三つの部屋が近い。
「……タリ」
「確信度」
「六」
「十段階?」
「はい」
「記録上は不明。候補タリ、確信六。公開しない」
セレナはそのまま書く。
「否定しない?」アムナ。
「六を十にもしません」
「信用してる?」
「六だけ」
アムナの息が一度漏れる。
笑いではない。
悔しさと安心が、同じ呼吸へ入った音だった。
寝具庫の次は、洗濯場だった。
洗濯石鹸の減りは登録人数より十一人分多い。
「十一人、追加」とハル。
「追加しません」セレナ。
「証拠だろ」
「消費量は生活者数と一致するとは限りません」
「さっきまで腹は嘘をつかないって」
「腹は。石鹸は嘘をつきます」
「石鹸に人格を与えるな」カイル。
「制度が数字へ人格を与えた結果を外しています」
セレナは石鹸箱の底を調べる。
粉が湿って固まっている。
洗濯場の排水管には、白い泡の乾いた縁。
「漏れ」とロロ。
「いつから」
「弁の傷、三日以上。毎晩少しずつ流れた」
「人ではない」とアムナ。
「石鹸差分十一人分のうち、漏出推定九・五。残り一・五は誤差範囲」
「人を半分へする?」
「しません。人の存在証拠として採用しない」
「一人いたかもしれない」
「いなかったかもしれない。だから他の痕を探す」
アムナは帳面の十一へ線を引こうとした。
セレナが止めない。
「消す?」
「いいえ。石鹸差分十一、漏出九・五、生活者証拠として不採用、と残します」
「間違いを残す」
「後で漏出推定が誤っていたと分かるかもしれません」
「記録が増える」
「訂正の道です」
洗濯場の女が、端で聞いていた。
「昨夜、子供が石鹸箱を倒した」
「どのくらい」
「一塊」
「なぜ最初に」ハル。
「誰も聞かなかった」
セレナは自分の帳面へ、聞き取り不足と書く。
「自分の失点も?」カイル。
「原因の一部です」
「証言者名」
「言いたくない」女。
「洗濯場の目撃者。村内記録。三日で破棄」
「それなら」
洗濯石鹸の十一人差は、漏出九・五、転倒一、誤差〇・五へ変わった。
消えた人は、そこにはいない。
人を救おうとする時ほど、人の痕を見つけたい。
見つけたい者は、泡の跡まで人へ見える。
善意は、証拠を増やさない。
善意が増やすのは、急ぎたくなる理由である。
次は共同窯。
薪の消費が登録人数より三人分多い。
「今度こそ」とハル。
「仮説」とセレナ。
窯壁の温度。
焼いたパン数。
灰の量。
夜間の火守り回数。
薪は確かに多く使われている。
しかし、パンは一人分しか余っていない。
「暖房?」エリア。
「夜、医療所から患者を移した」と麦番。「名札がなくて寝床へ入れない人を、窯横で温めた」
「人数」
「二人」
「今は」
「一人は家へ。一人は、呼び方を言いたくない」
「存在確認」とセレナ。
「どの痕」アムナ。
窯横に敷いた藁。
二人分の寝跡。
一つは長い。
一つは小さく丸い。
水碗が二つ。
「生活者二。うち一人、現在位置不明。名前を推定しない」
「薪差分三人」ハル。
「患者二人と、窯を高温へ戻す分で説明可能」
「残りの一人はいない?」
「いないとは証明しません。この差分からは立証しません」
ハルは頭を掻く。
「数えるほど人数が減る」
「誤って増やした人数を外しています」
「助ける側の景気が悪い」
「救助を景気で考えないでください」
「でも、いたと思った人がいないの、少し安心する」
「誰も消えていなかったなら、よいことです」
セレナの声は平らなまま。
左眼の焦点が合いにくくなり、単眼鏡を外す。
右手首へ痛み三。
「休憩」とカイル。
「あと一件」
「それ、ハルの言い方」エリア。
「違います」
「言葉が同じ」
「私は状態を把握しています」
「右手首」アムナ。
「三」
「左眼」
「二重像。近距離のみ」
「帳面を持つ」とカイル。
「順番が変わります」
「読み上げろ。俺が書く」
「字が大きい」
「公文書向きだ!」
「余白が減る」
「王子へ筆跡批評!」
「代筆条件。私が読み上げ、あなたが書く。訂正は私、原稿は共同保管」
「採用」
カイルが帳面を持つ。
セレナは手を休めても、判断を手放さない。
しかし、判断の記録を他人へ渡す。
一人で全てを行うことと、責任を持つことは同じではない。
「石鹸差分」とセレナ。
「十一!」カイル。
「生活者証拠として」
「不採用!」
「声を小さく」
「王命の癖!」
「自覚があるなら直してください」
笑いが出る。
カイルの字は大きかった。
ただし、消された人を想像で増やす余白は、まだ残っていた。