第704話 第四章「医療扉に入れない」後編

 薬はサエルに合っていた。

 投薬量は、棚の古い紙記録と、女主人が覚えていた瓶の減りから確認する。

 骨折を固定。

 呼吸を落ち着かせる。

 サエルは眠った。

 しかし、薬棚の次の瓶が動く。

 ――受取人なし。

 さらに一箱。

 この村だけではない。

 名前を失った受療者の薬が、順に廃棄へ回っている。

「止める」とロロ。

「全体停止すれば、期限切れと危険薬も残る」とセレナ。

「手で仕分ける」

「人数が足りない」

「増やす」カイル。

「王命?」アムナ。

「頼む」

 カイルは右籠手を左拳で叩こうとして、止めた。

 炎は出ない。

 王命の印も、この国では鍋敷きである。

「手を貸してくれ。薬番号を読む人、瓶を運ぶ人、廃棄理由を書く人。二時間。途中で抜けていい」

 住民は王子だから従わない。

 具体的な仕事と終了時刻があるから、三人が立つ。

「名は?」セレナ。

 カイルが聞きかける。

 止める。

「呼ばれたい音だけでいい」

 一人は「右手」。

 一人は「薬籠」。

 一人は何も言わず、木札へ丸を描いた。

 名前がなくても、作業は分けられる。

 ただし、事故が起きた時の責任、報酬、治療権をどう残すかは別の問題になる。

 便利な解決は、新しい不便を後ろへ置く。

 サエルの薬を受け取るには、受領者の署名が必要だった。

 サエルの名はない。

 女主人の名も、中央台帳で薄くなり始めている。

「私が書く」とアムナ。

「待って」とセレナ。

「薬を止める?」

「登録へ何が接続されるか不明です」

「私は登録されていない」

「だからこそ、一度書けば最初の接続になる」

「一人が死ぬ」

「死亡の確率を確認していません」

「呼吸が止まる」

「可能性はある」

「同じ」

「同じではありません」

 セレナは厳しい。

 しかし、署名を止める手は出さない。

「選ぶなら、記録します。何を知って選んだかも」

「アムナ・エクリプス」

 アムナは受領紙へ書いた。

 左手で。

 右手は、自分の皮膚へ名前を書くため空けている。

 紙の下で、古い機械が一度鳴った。

 かち。

 名札口から、細い穴列が打たれる。

 アムナ・エクリプス。

 臨時受領者。

 医療区接続。

「中央へ送られた」とエリア。

 白い管の中を、紙片が塔へ走る。

 アムナは見送った。

 自分の名が初めて、公的な道を通る。

 自由になった顔ではない。

 檻へ一歩入った者の顔でもない。

 誰かを助けるために、自分で扉を選んだ顔だった。

「後悔?」ハル。

「まだ」

「後で?」

「後で決める」

「正確」

 ロロがアムナの左眼を見る。

「見えにくい?」

「左、四割」

「何で言わない」

「聞かれてない」

「工具の文字、読めてなかったろ」

「大きい方は」

「大きくするよりレンズ作る」

「値段」

「紙二枚、糸一巻、あと笑い話一つ」

「高い」

「レンズより笑い話が?」

「私の話は、私のもの」

「じゃあ借りる。公開しない」

 ロロは壊れた気圧計の薄いレンズを削り、片眼用の金属枠へ入れた。

 魔法はない。

 非誓式。

 螺子とばねと、ロロの短い指。

 アムナが左眼へ当てる。

 外套の細い字が、少しだけ輪郭を取り戻す。

「見える」

「代金」

 アムナは考える。

「ウルが、若い頃に王の靴を盗んだ話」

「盗んだの?」

「王が先に、ウルの道を盗んだ」

「長そう!」

「一話」

「採用!」

 初めて、アムナの息が二度続けて漏れた。

 笑いだった。

 笑い話の代金は、治療室の隅で支払われた。

 ウルが若い頃、王の靴を盗んだのではない。

 王都が共同道へ柵を立て、道を通る者へ王家印の靴を買わせたので、ウルは見本の靴を一本だけ持ち去り、村の全員で同じ底形を木へ写したという話だった。

「盗んでるじゃん」とハル。

「先に道を盗まれた」とアムナ。

「だからって靴を」

「片方だけ」

「両方なら重罪で片方なら教訓みたいに言うな」

「王は翌年、裸足で来た」

「なぜ」

「靴を盗まれるから」

 ロロは副木を削りながら笑い、補助腕の先でレンズ枠を締めた。

「代金、受領!」

「公開範囲」とセレナ。

「宿内。王の名前なし」アムナ。

「今、確認できた」

「笑い話にも同意が要るのか」とカイル。

「王家の話なら特に」

「俺の祖先じゃないだろうな」

「裸足の王」

「該当者が多い!」

 笑いの間にも、診療は続く。

 サエルの脚へ副木。

 胸へ湿らせた布。

 呼吸数を十五分ごとに記録。

 医師がいない以上、できることと、してはいけないことを分ける必要がある。

「骨を戻す?」ハル。

「大きな変形はない。固定だけ」とセレナ。

「痛み止め」

「白い瓶と相互作用が不明。今は冷却と姿勢」

「苦しんでる」

「苦しみを見て、できない治療をできることにしない」

「見てるだけも嫌だ」

「見ます。呼吸を数えます。悪化時は廃棄待ちの救急薬から、紙記録を照合して選びます」

「地味」

「地味な看護が、派手な誤投薬を防ぎます」

 セレナは右手首を曲げず、左手で脈を取る。

 単眼鏡を外し、サエルの瞳孔を近距離で見る。

「右脚の感覚」

「ある」サエル。

「爪先を動かす」

「動いた?」

「見えています」

「俺には、分からない」

 色のない足先。

 血色の変化が読めない。

「触れてよいですか」

「触らないと分からないだろ」

「それでも聞きます」

 サエルは、遅れて頷く。

 セレナは左右の温度を比べる。

「右が少し冷たい。固定を緩めます」

「締めたばかり」とロロ。

「腫脹を見込んで二指」

「俺、一指半」

「修正」

 ロロは文句を言わない。

 修理と治療の違いを理解している。

「俺の副木、下手?」

「初期固定として有効。十五分後の腫れへ調整が必要」

「失敗じゃない?」

「更新です」

「その言葉、好きだな」

「失敗を失敗でないことにするためではありません。時間で変わる対象へ同じ処置を固定しないためです」

 サエルが薄く笑う。

「荷車も同じだ」

「何が」ハル。

「朝に締めた軸を、昼も同じ強さにするな。熱で膨らむ」

「荷車番らしい」

「俺の名が消えても、軸は膨らむ」

 笑った後、胸が痛み、息を止める。

 ウルの口承にあった通り。

「その癖、救難記録へ残してよい?」セレナ。

「咳が悪化した時だけ。借金取りには見せるな」

「借金取りに健康記録を見せる制度はありません」

「制度はなくても、紙は盗める」

 サエルは、制度から名前を消されたばかりである。

 それでも制度だけを恐れてはいない。

 人間は、法にできないことをする。

 法ができないから安全だと信じる者は、法を信じているのではなく、人を忘れている。

 医療所の奥から、低い叩音がした。

 三回。

 間。

 二回。

「人?」ハル。

「管」ロロ。

「どの管」

「薬搬送。中で箱が詰まってる」

 床下の点検蓋を開ける。

 小さな薬箱が四つ。

 受取人なしの札。

 そのうち一箱だけ、内側から叩いているように揺れる。

「生き物?」カイル。

「気圧弁」とロロ。「受領が止まって、冷却材が膨張」

「爆発?」

「三分で蓋が飛ぶ」

「薬は」セレナ。

「吸入液。割れたら室内全体へ霧化」

「患者へ影響不明」

「外へ出す!」ハル。

「第二扉は開かない」とエリア。

「窓」

「粉塵流入」

「また扉!」

 扉を開けるために名が要る。

 危険物を出すにも名が要る。

 制度は、人を入れないだけでなく、物を外へ出さない。

「冷却水へ沈める」とサエル。

「飲料水しかない」女主人。

「荷車の軸油槽」

「薬へ油が」セレナ。

「箱は密閉。温度だけ逃がす」

 サエルは寝台から身体を起こしかける。

「動かないで」と全員。

「俺の仕事だ」

「今は患者」とハル。

「名が消えたら仕事も消える?」

「役割を休むのと、奪われるのは別だ」

「誰が別にした」

「俺たち。今」

 ハルは軸油槽を持ってくる。

 ロロが薬箱を索で下ろす。

 エリアが時間を測る。

 セレナがサエルの呼吸を見続ける。

 カイルが槽を支える。

 アムナは何もしない。

 何もしていないのではない。

「役割、いる?」ハル。

「箱名」

「受取人名は白い」

「薬番号」

 アムナは薄いレンズを左眼へ当て、消えかけた穴列を読む。

「九、四、二。吸入液。低温。振らない」

「それだ!」ロロ。

 箱を油槽へ沈める。

 叩音が遅くなる。

 三回。

 二回。

 一回。

 止まる。

「成功」カイル。

「経過観察」とセレナ。

「成功って言わせろ!」

「二十分後まで漏出確認」

「喜びへ期限!」

「期限があるから、また喜べます」とアムナ。

 全員が彼女を見る。

「何」

「いい言葉」とハル。

「記録してよい?」セレナ。

 アムナは考える。

「誰の名にも結ばないなら」

「発言者匿名。診療所の作業標語」

「採用」とロロ。

 壁へ書く。

 成功は二十分後に再確認。

 名を失った診療所で、最初に戻った文字は、人名ではなかった。

 次の人も使える手順だった。

 夕方。

 廃棄管の前へ、薬箱が七つ並ぶ。

 受取人なし。

 名簿なし。

 住民なし。

 箱の中には、確かに誰かが必要とする薬がある。

 セレナは箱ごとに封をし、物理在庫を記録する。

「名前が消えたのは人ではない」とハル。

「まだ結論にしない」

「少なくとも身体は消えてない」

「はい」

「でも、扉と薬からは人が消えた」

「正確には、制度が人へ到達する道を失っています」

「道が消えると、人がいないことにされる」

 エリアは白い塔までの管路を紙へ描く。

「道は中立じゃない」

 アムナが、自分の署名紙の控えを見る。

 黒い文字。

 まだ消えていない。

「私の名は、道へ入った」

「出る道も作る」とハル。

「作れる?」

「分からない」

「分からないのに言う?」

「作るって決めるのと、作れるって断言するのは違う」

 アムナは返事をしなかった。

 白い塔の方角で、小さな機械音が鳴る。

 かち。

 医療所の棚から、また一枚の受療者札が白くなった。

 薬箱が一つ、廃棄口へ傾く。

 名前を失う速度は、彼らが扉を外す速度より速い。