第703話 第四章「医療扉に入れない」前編
扉は、壁に開いた穴ではない。
穴なら、誰でも通れる。
扉とは、通ってよい者と、通ってはいけない者を分ける装置である。
鍵はその判断を金属へ代行させ、門番は判断を人間へ代行させ、法律は判断を文章へ代行させる。
文明は、扉の数だけ便利になる。
同時に、扉の数だけ締め出され方を増やす。
病院の扉が最も残酷なのは、入れない者ほど中を必要としている時である。
【現実/白い下道/覚醒/到着二日目・午前】
ハルは地図を持たずに走った。
地図が嫌いだからではない。
地図を待てない時があるからだ。
サエルの荷車跡。
右輪だけ新しい油。
右足を引く靴跡。
白い道へ落ちた乾燥葉。
配達で道を覚える時、ハルは曲がり角を方角で覚えない。
魚屋の匂いの次を右。
赤い自販機の前を左。
犬が吠える塀を過ぎ、雨樋のへこんだ家から三軒。
この国には魚屋の匂いも赤い自販機もない。
代わりに、井戸縄の擦れる音。
硬い豆殻を踏む感触。
崖から吹き上がる冷気。
荷車軸の油が石へ残した丸い染み。
目印は、世界が変われば変えればいい。
道を覚える力とは、同じ目印へ執着することではない。
「左!」
後ろからエリア。
「分かってる!」
「右へ行こうとした!」
「確認した!」
「間違いを確認と呼ばないで!」
「右の道にも跡がある!」
「山羊!」
「色がないから人と山羊の靴跡が似てる!」
「人は蹄じゃない!」
「知ってる!」
エリアは走りながら紙へ線を引く。
路図はない。
地図槍も光らない。
歩幅、時間、曲がり角。
ハルが見つけた目印を、後から来る者にも使える形へ変える。
それが二人の役割分担だった。
一人が先へ行き、もう一人が他人も通れる道へする。
「肺!」ハル。
「二」
「嘘」
「三」
「セレナの真似するな」
「正確さは共有財産!」
「嫌な財産!」
白い粉塵が横から吹いた。
色はない。
だが密度はある。
目へ入る。
喉へ張りつく。
エリアが咳き込み、歩幅が半歩狭くなる。
ハルは速度を落とした。
「先に行って」
「一緒に戻れる速度で行く」
「救助対象が」
「俺一人で扉を開けられるなら走る」
「開けられないと?」
「おまえの地図とロロの工具とカイルの馬鹿力がいる」
「最後だけ分類が雑」
「王子力?」
「もっと悪い」
後ろでカイルが聞いていた。
「馬鹿力、到着!」
金属盾を背負い、ロロの工具箱を片手へ持ち、もう片方でセレナの記録鞄を支えている。
「王子の仕事が荷物持ちへ固定された!」
「王権は持てなくても荷物は持てます」とセレナ。
「名言みたいに言うな!」
ロロは二本の補助腕で工具を抱え、短い脚で追いつく。
「工具箱を王子へ預けたら、国有化される?」
「借用だ!」
「返却条件」
「生還後!」
「曖昧。時刻!」
「おまえ、ミラに契約を習っただろ!」
「請求書は旅で育つ!」
アムナとノクスは最後尾。
アムナは走らない。
サエルの名を右手へ書き直しながら、足跡を一つずつ数える。
焦れば記憶宮殿の部屋が重なる。
ノクスは彼女の、しゃ、こつ、という足音を追う。
誓いの匂いがない土地で、小獣は鼻より耳を使っていた。
荷車は崖道の途中で横倒しになっていた。
右車輪が外れている。
荷台の白い薬草袋が斜面へ散乱。
血は色で見分けられず、濡れた土の暗さだけが残る。
「サエル!」
アムナが先に呼んだ。
返事はない。
荷車の下に、男の脚。
ハルが駆け寄る。
「意識!」セレナ。
「呼吸ある。浅い。右脚が挟まってる」
「名前を聞く」
セレナが膝をつく。
「聞こえますか。あなたの呼ばれ方を言えますか」
男の瞼が動く。
「……荷車」
「名前ではありません」
「直す」
「仕事」
「姉が」
「家族関係」
セレナは、違う、と責めない。
答えられない箇所を、答えられる項目で囲む。
「痛い場所」
「脚。胸」
「薬の既往」
「白い瓶」
「何の薬」
「咳」
「それで十分です」
アムナが男の耳元へ言う。
「サエル・ミナ」
男の呼吸が一度止まった。
指が土を掴む。
「……知っている」
「あなたの名」
「分からない」
「身体は反応しています」とセレナ。「本人確認には足りない」
「本人なのに?」ハル。
「本人であることと、名を自分のものとして受け取れることは別です」
「回りくどい!」
「回り道が必要な時もある」エリア。
荷車の重量を測る。
ロロが軸下へ楔。
カイルが盾を差し込み、梃子にする。
「王家の盾が荷車用!」
「人を救うなら昇進」とハル。
「さっき無職って言ったろ!」
「再就職」
「早い!」
「せーの!」ロロ。
「数え方!」ハル。
「おまえの一、二、三は跳ぶ時だけだろ!」
「救助にも使う!」
「じゃあ三で上げる!」
「一!」
カイルが力を入れかける。
「まだ!」全員。
「王子は一で動くな!」セレナ。
「決断が速いんだ!」
「聞かないだけ!」エリア。
「二!」
ロロの補助腕が楔を押さえる。
ハルは腰索を荷台へ回す。
エリアは崖側の土が崩れない位置へ足を置く。
「三!」
荷車が上がる。
サエルの脚を引き抜く。
右脛の骨折。
胸の喘鳴。
白い粉塵を長く吸った可能性。
「医療所へ」セレナ。
「扉が開かない」とネイ。
少年は崖上の石へ座っていた。
「また急に出るな!」ハル。
「急に見つける方が悪い」
「いつから」
「荷車が落ちる前」
「見てたのか!」
「止めようとした。名を聞かれた」
「誰に」
「関所」
ネイは扉の方を見る。
「名を入れないと、警報を鳴らせない。入れたら追える。迷っている間に落ちた」
「なぜ呼びに来なかった」アムナ。
「来た。宿へ入る名札が昨日と違って、女主人に止められた」
「別の名を」
「名が問題なんだよ」
責任は一人へ落ちない。
名を拒んだネイ。
名を要求した関所。
名前へ頼った宿。
荷車の故障。
粉塵。
どれか一つだけを悪にすれば、物語は簡単になる。
簡単な物語は、次の事故を複雑なまま残す。
医療所は白い峡谷の入口にあった。
半円形の建物。
粉塵を遮る二重扉。
第一扉には人数計。
第二扉には名札口と誓紋板。
第一扉は開いた。
人数計へ七人と一頭、患者一人。
第二扉が開かない。
金属板の上へ、白い文字が浮かぶ。
――受療者照合不能。
「本人はここ!」ハル。
文字は返事をしない。
「サエル・ミナ!」アムナ。
――登録名なし。
「登録が消えた」とエリア。
「顔は見ないのか」カイル。
「顔を見れば双子や怪我や老化で誤る」とセレナ。「身体だけなら入れ替えられる。誓紋と登録名を結ぶ方が、制度上は精度が高かった」
「過去形にしろ」とロロ。「今は目の前の患者を弾いてる」
「制度は、成功していた期間が長いほど壊れた時に外しにくい」とセレナ。
「歴史の説明で扉は開かない!」ハル。
「だから外す」ロロ。
工具箱を開く。
二本の補助腕が蝶番へ伸びる。
「待って」エリア。
「何」
「二重扉は粉塵圧を保っている。蝶番を外せば内側へ白塵が入る」
「患者を入れないよりまし」
「薬棚へ入れば全部汚染」
「じゃあどうする」
エリアは扉の周囲を測る。
路図はない。
槍で床を叩き、反響を聞く。
鉛筆で枠を描く。
「扉全体を外さない。上蝶番を残し、下と中だけ抜く。カイルが盾で仮壁。ハルは患者を低く通す。私が隙間へ布。ロロは三十秒で戻す」
「三十秒?」ロロ。
「できる?」
「四十五」
「粉塵流入は三十から増える」
「じゃあ工具代二倍」
「命の値段を交渉に使うな!」ハル。
「急ぐための危険手当だ!」
「請求先は」
「医療扉!」
「扉は払わない」
「だから制度へ請求する!」
ロロは歯で細いピンを抜く。
右手の痺れ四。
二本の補助腕の一つを固定へ、もう一つを回転へ。
再機の残響はない。
工具は過去の作業を教えてくれない。
「前に外したことは」ハル。
「この型はない」
「じゃあ」
「今、覚える」
工具の角度。
金属音。
螺子の抵抗。
一度目の作業を、自分の身体へ記録する。
「中蝶番、抜く!」
カイルが盾を立てる。
炎はない。
ただの金属板。
白い粉塵が隙間へ噴き、盾へぶつかる。
「重い!」
「王盾炎なら痛みを受けるだけだったな!」ハル。
「だけって言うな! 今は腕も痛い!」
「肋部!」セレナ。
「三!」
「さっきから三」
「便利な数字だ!」
「虚偽の可能性」
「四!」
「交代条件五。続行」
エリアが布を押し込む。
左肺へ粉塵。
咳を一度。
二度。
「エリア」
「三」
「交代」
「隙間を塞いでから」
「今」
ハルは自分のマフラーを外し、隙間へ押し込んだ。
色を失っても、布は布である。
「それ、大事な物でしょう」
「今は目張り」
「汚れる」
「もう汚れてる」
エリアは一歩下がった。
助けを求める時、命令形をやめる。
「ハル、そこを三十秒お願い」
「採用」
サエルを低く運ぶ。
一。
二。
三。
扉の下を滑らせる。
ロロが蝶番を戻す。
四十秒。
粉塵は入った。
薬棚までは届かない。
「成功率」カイル。
「七割」ロロ。
「成功したのに?」
「成功後に事故が出る分を引いた」
「現実的!」
診療室に医師はいなかった。
白い国では、医療従事者も名前を失えば勤務表から消える。
壁へ手順書。
器具へ絵。
棚へ薬番号。
「治療は」ハル。
「骨折固定ならできる」とセレナ。「投薬は既往確認が必要」
「サエルの白い瓶」アムナ。
薬棚を探す。
番号。
症状。
受療者名。
サエル・ミナの欄は白い。
瓶だけが一本残っている。
自動処理機が動く。
――受取人なし。
棚の底が開いた。
「廃棄!」ロロ。
白い瓶が管へ落ちる。
ハルは走った。
「どこへ!」エリア。
「下!」
「地図!」
「薬が待たない!」
廃棄管は壁の中を通る。
零星針は失われた物を指さない。
路図もない。
だが、管には勾配がある。
瓶が落ちる音。
床の震え。
空気の流れ。
配送店で、壁裏へ落ちた鍵を探した時と同じだ。
「右!」ロロが叫ぶ。
「根拠!」
「管径!」
「俺は音!」
「同じ答えなら走れ!」
ハルは右へ曲がる。
左肩四。
壁を蹴る。
右手で梁を取る。
身体を横へ振る。
一。
二。
三。
廃棄炉の手前。
管が三本へ分かれる。
「どれ!」
音が止まった。
白い瓶はどこかの緩衝布へ落ちている。
ハルは床へ手を置く。
左。
中央。
右。
わずかな振動。
「中央!」
蓋を蹴る。
開かない。
名前錠。
廃棄物にも、処理担当者の登録名が必要だった。
「ふざけんな!」
ハルは工具を持っていない。
零星針もない。
配達鞄を開く。
中に、各地で集めた端の石。
紐。
折れた切符。
小さな鏡片。
普通の薄い金属札。
ミラの自由港で覚えた簡易解錠。
「借りるぞ!」
誰へ言ったのか分からない。
金属札を隙間へ入れる。
錠の爪を押す。
開く。
瓶が落ちてきた。
右手で受ける。
同時に、焼却炉の熱が噴く。
ハルは身体を丸める。
配達鞄で瓶を守る。
左肩へ床衝撃。
「五!」
初めて、自分から大きく申告した。
エリアが追いつく。
「動かさないで」
「瓶」
「私が持つ」
「落とすな」
「あなたより地図を落とした回数が少ない」
「瓶と地図を同じにするな」
「どちらも今は命」
エリアは瓶を受け取る。
ハルは壁へ背を預けた。
零星針がなくても、見つけられた。
その喜びは小さい。
人が苦しんでいる時に、自分の有用性へ喜ぶのは不謹慎に思える。
だが、人は必要とされた時に嬉しい。
その感情まで否定すると、助けることが罰になる。
「笑ってる?」エリア。
「瓶があった」
「それだけ?」
「俺、針なくても配達できた」
「当然」
「即答」
「あなたが零星針を持つ前から、配送をしていたでしょう」
「そうだけど」
「能力を得た後、人は能力以前の自分を過小評価する」
「歴史俯瞰みたいに言うな」
「事実」
「じゃあ、おまえも路図なくても地図描ける」
「当然」
「ちょっとは照れろ」
「あなたから褒められると測量誤差が増える」
「嫌われてる?」
「影響が大きいと言っている」
「そっちの方が困る!」