第702話 第三章「地図から消える人」後編
六枚の地図を重ねる前に、エリアは住民へ一枚ずつ返した。
「複写しないの?」アムナ。
「私が先に写すと、私の分類が原本になる」
「原本が多い」
「多いまま照合する」
「矛盾」
「矛盾を残す」
ハルが子供の地図を覗く。
「この線、家を突っ切ってる」
「床下」
「秘密通路?」
「猫だけ」
「人は通れない!」
「猫の地図」
「人間の地図へ混ぜるなよ」
「ノクスは通る」と子供。
ノクスが「ナ」と鳴いた。
「本人確認」とセレナ。
「猫じゃない」とハル。
「夜獣」とロロ。
「本人は分類へ同意してる?」カイル。
ノクスは子供の地図へ前脚を置いた。
「使用意思」とセレナ。
「そこだけ柔軟!」
エリアは猫道を別層へ写す。
「救難時、小型者経路」
「ノクス専用にしない?」アムナ。
「将来、別の小型者が使うかもしれない。けれど通れる寸法を書く」
「名前を消した」
「能力条件へ変えた。本人を地図の部品にしないため」
ノクスは自分の線が消えたと思ったのか、エリアの紙へ鼻を押しつけた。
「消してない。通れる幅、一尺一寸。段差三寸。途中に釘」
「ナ」
「釘を抜く」ロロ。
「修理費」ハル。
「子供の猫道から請求できるか!」
「公共救難路へ昇格した」
「王家が払う?」カイル。
「また王領にする気?」
笑いながら、ロロは釘抜きを持って床下へ入った。
地図へ線が一本増える。
その線は、最初からそこにあった。
誰が使う道として数えられていなかっただけである。
人が地図から消える事件を調べる時、地図に最初から描かれなかった道を見落としてはならない。
エリアは六枚を重ねた。
線は濃くなり、穴が重なり、文字が一部隠れる。
読みやすくはない。
しかし、一枚の美しい地図より、誰の線がどこで食い違うか分かる。
「完成?」ハル。
「暫定」
「いつ完成」
「人が住んでいる間はしない」
「それ、地図製作者の敗北宣言じゃない?」
「更新を止めない宣言」
エリアは完成という欄へ、空白ではなく小さな折り返しを付けた。
次の線を足せる場所。
「一軒目」エリア。
三窓の宿。
窓三。
煙突一。
扉二。
寝床十二。
現在人数十一。
「名前を書く」とアムナ。
「公開地図には人数だけ」
「誰がいないか分からない」
「別紙に、本人同意が取れた名だけ」
「サエルは同意を取れない」
「行方不明欄。閲覧者を限定」
「限定した人が消したら」
「複写を分散」
「全部を誰かが持つ」
「誰も全部を持たない形を考える」
「考えている間に消える」
アムナは右手へサエルの名を書く。
大切な名ほど、手の甲へ。
「あなたの手が燃えたら?」エリア。
「外套」
「外套が燃えたら」
「記憶」
「眠ったら」
アムナは答えなかった。
眠る。
人は眠る。
記録守も眠る。
眠っている間、世界を一人で覚えていることはできない。
宿の内部を測る時、エリアは扉の前で止まった。
「入らないの?」ハル。
「寝床は私有空間」
「さっき数えた」
「女主人が見せた食堂側だけ。奥は許可を聞く」
「事件調査」
「事件調査は、家を公共物にしない」
女主人へ聞く。
「奥の寝床数と、使用痕を確認してよいですか」
「名前は書かない?」
「本人が望まない限り」
「荷箱は」
「開けません」
「窓辺の薬は」
「医療救助に必要なら、誰が使うかではなく、種類と期限だけ」
「床下は」
「構造確認が必要なら、先に説明します」
許可は一度で全部を開かない。
奥の寝床だけ。
荷箱は閉じたまま。
窓辺の薬は外から読む。
十二の寝床。
そのうち一つは、敷布が新しい。
「サエル?」アムナ。
「推定しない」とエリア。
「女主人へ聞く」ハル。
「聞かないで」女主人。
即答だった。
「なぜ」とアムナ。
「昨日、誰が寝たかを思い出すと、名前を探してしまう」
「探さないと」
「今は、下の道へ行った人がいることだけで足りる」
アムナは反論しかける。
エリアが先に聞く。
「寝床一、現在不在。行方不明者の可能性。村内救難隊だけへ記録してよいですか」
「三日。戻ったら消して」
「戻らなければ」
「もう一度聞いて」
「あなたが答えられなければ」
「夫と、台所番」
「二人が違う答えなら」
「違うまま」
「承知しました」
エリアは地図へ寝床一とだけ書く。
名前はない。
しかし、空床でもない。
「名前を書かないと、別の行方不明者と混じる」とアムナ。
「位置、時刻、寝具の継ぎ、本人が戻った時の確認条件を付ける」
「それでも」
「完全には分からない」
「完全にしない?」
「今は、しない」
アムナは外套のサエル・ミナへ触れる。
「私は知っている」
「あなたが知っていることと、女主人が今ここへ書いてよいことは別」
「名を隠したら、救難隊が間違える」
「救難隊には封筒で渡す。公開地図へは書かない」
「封筒を持つ人」
「女主人と、救難役二人。三者のうち二者で開く」
「遅い」
「今は、サエルを捜す方向が分かっている。公開名は不要」
「必要になったら」
「その時の条件で聞き直す」
アムナは、地図の空白を見る。
何もない空白ではない。
寝床一。
不在。
三日。
救難時のみ開封。
名前を書かずに、名前の場所を残す。
「空白にも種類」とハル。
アムナが彼を見る。
「いいものと言わない」
「言ってない」
「顔」
「顔を地図にするな」
「本人同意?」エリア。
「顔は公開済みだろ!」
「外に見えることと、記録してよいことは別です」と、遠くからセレナの声が飛んだ。
「聞いてたのか!」
女主人が、初めて少し笑った。
その笑い方を、エリアは地図へ書かなかった。
二軒目。
家の壁に、四人分の上着。
靴は五足。
食卓の椅子は五脚。
中央地図には、四人居住とある。
「一人多い」とハル。
「靴が予備かもしれない」エリア。
「全部、減り方が違う」
ハルは靴底を見る。
一足は踵外側。
一足は爪先。
一足は右だけ深い。
一足は平ら。
最後の一足は、土に白い豆殻が詰まっている。
「五人が使ってる」
「根拠を地図へ書く」
「靴底」
「どの靴」
「豆殻」
「人の名は」
家の女は首を振る。
「娘がいた」
「いた?」セレナなら時制を問うだろう。
エリアは同じことを聞かない。
「今、家にいる?」
女は奥を指した。
若い娘が布を畳んでいる。
見えている。
触れられる。
話せる。
「私、いるよ」
娘は笑った。
笑った後、自分の名を言おうとした。
「私は――」
口が止まる。
母も、弟も、本人も、名前へ届かない。
「呼ぶ時は?」ハル。
「ねえ、って」母。
「前は」
「前も、家では」
「学校では」
「名札」
「何て書いてあった」
「白い」
壁に学校札の跡がある。
木札そのものは残っている。
紐も残る。
文字だけがない。
アムナが外套を探す。
「ミレア・トウ」
娘の肩が跳ねた。
「それ」
「あなた?」
「分からない。でも、胸が」
手を当てる。
誓紋があったはずの場所。
今は肌の明暗さえ均一で、星座の線がない。
「ミレア・トウ」アムナ。
「二度言うな」ネイの声がした。
少年は屋根の上にいる。
「本人が返事してない」
「返事しかけた」
「胸が痛いのは同意じゃない」
「忘れた名を戻す」
「戻す先が、あなたの外套?」
アムナは睨む。
「今日はネイ?」ハル。
「この屋根では、ソル」
「名前増やすなよ」
「減らされるより、自分で増やす」
「呼ぶ方が困る」
「困る人が所有しやすいよう一つにするの?」
「言い方が強い!」
「内容は」エリア。
「強い」
「反論になってない」
エリアは娘へ向き直る。
「公開地図へ、今の呼ばれ方を書いてよい?」
「今の?」
「家で呼ばれたい呼び方」
「……ミレ」
「正式名ではなく?」
「分からない。でも、それなら振り向ける」
「ミレ。公開してよい?」
「家の地図だけ」
「採用」
エリアは家屋図の裏へ、小さく書く。
ミレ。
家内呼称。
外部公開不可。
アムナが見る。
「半分」
「全部を一度に戻す必要はない」
「半分の名は半分の人?」
「違う。名が全部でも、人は全部じゃない」
ハルが口を挟む。
「名前って、住所みたいなもの?」
「違う」と二人同時。
「息合うな」
「違うから」とエリア。
「正確」とアムナ。
わずかに、二人の間の硬さが緩む。
中央地図は、集会所にあった。
大きな白板。
家、畑、井戸、医療所、配給庫、橋。
線は彫られている。
文字は薄い紙層へ印刷され、細い管で白い塔へつながっている。
「更新式」とエリア。
「今は動かないんじゃないのか」カイル。
聞き取りを終えた二人が合流する。
カイルの肩には薪。
王太子が薪を担ぐと、制度改革より先に生活感が出る。
「個人の誓星術は動かない」とセレナ。「ただし、塔側に保存された残響、機械圧、紙送管は別です」
「動く魔法と動かない魔法の違いを、魔法なしで調べるのか」
「物理痕で」
「地味だな」
「地味な証拠は派手な冤罪より長持ちします」
地図板の右下に、名簿層がある。
宿区、十二。
その数字だけが十一へ変わった。
紙の裏で小さな歯車音。
「今、動いた!」ハル。
「時刻」セレナ。
「十時七分」
エリアは紙層を押さえる。
宿の十二番目。
サエル・ミナ。
アムナが叫ぶ。
「そこ!」
文字の端から白くなる。
白いインクを塗ったのではない。
黒い粒が紙の繊維から抜け、細い管へ吸われていく。
サ。
エ。
ル。
一文字ずつ消える。
エリアは鉛筆で上からなぞる。
鉛筆線は残る。
印刷文字だけが消える。
「紙自体ではない」
「中央層だけ」とセレナ。
「管を切る?」ハル。
「証拠と他地区の更新も止める」エリア。
「止めないの?」アムナ。
「止める。どこを、何が通っているか見てから」
「見ている間に消える」
「切って別の人の医療記録が止まったら」
「消えるよりまし」
「誰にとって」
アムナが答えようとした時、別の紙片が動いた。
ミレア・トウ。
娘は集会所にいる。
母の隣。
ハルの目の前。
名はある。
まだ。
「ミレ!」母が叫ぶ。
娘が振り向く。
正式名ではない。
家で選び直した呼び方。
その音は残る。
中央地図の「ミレア・トウ」は白くなる。
娘の身体は消えない。
服も、影も、息も、母の手を握る力も消えない。
ただ、壁の学校札が白くなった。
集会所の出席欄から一行が消えた。
医療所の受診票が、空欄へ変わった。
「本人はいる」とハル。
「記録だけ」カイル。
「まだ断定しない」とセレナ。
「でも見えてる!」
「見えているのは、文字が消え、人が残ったこと。因果は未確定」
「言い方!」
「因果を急いで誤る方が危険です」
アムナがエリアの鉛筆地図へ手を伸ばす。
「書く」
「待って」
「消えた」
「本人へ聞く」
「今、消えた!」
「だから、今、本人が選べるうちに聞く!」
エリアは娘を見る。
「ミレ。この地図へ、どこまで書いてよい?」
娘は泣いていない。
泣くために必要な、自分へ起きたことの意味がまだ追いついていない。
「家」
「家の位置」
「書いて」
「呼び名」
「ミレ」
「公開範囲」
「この村だけ」
「正式名」
娘はアムナを見る。
「それは、覚えていて」
アムナの指が震えた。
「私が?」
「今は」
「今は」
期限のある預かり。
所有ではない。
アムナは外套の内側へ、ミレア・トウと書く。
外側ではない。
エリアは地図へ、ミレと書く。
家の裏側。
セレナは記録へ、本人が選んだ呼称と公開範囲を書く。
三人が、違う形で同じ人を残す。
どれか一つが正解ではない。
どれか一人が全てを持つのでもない。
白い管の中を、消えた文字の黒い粒が流れていく。
向かう先は一つ。
遠くの白い塔。
エリアは地図へ、塔までの線を引いた。
その線だけは、誰の名前も書かずに。