第701話 第三章「地図から消える人」前編
地図は、土地を描くものではない。
正確には、土地について誰かが必要とした情報を描くものである。
軍は坂の角度を書く。
商人は税関を書く。
旅人は宿を書く。
王は国境を書く。
住民は井戸と、近道と、夜に吠える犬を書く。
同じ町を描いても、地図は同じにならない。
ゆえに、地図から人が消えた時、問うべきは「人がどこへ行ったか」だけではない。
誰が、その地図へ人を書いていたのか。
何のために書いたのか。
そして、消す権利を誰が持っていたのか。
【現実/三窓の宿前/覚醒/到着二日目・朝】
エリア・ルーンベルグは、魔法の出ない地図槍を地面へ置いた。
置く時、石突きを北へ向けようとして、止まる。
北が分からない。
太陽は白い円。
影は薄く、方向を示すほど長くない。
零星針は沈黙。
路図は出ない。
だから、北を作る。
「船を原点にする」
「国の地図を船基準にするの?」ハル。
「今、確実に位置が分かる物が船だけ」
「地面は」
「地面が動かない証拠がない」
「昨日、滑ったけど」
「船が滑ったのか、地面が流れたのか、両方か」
「地図って、疑い始めると何も描けないな」
「疑わず描く地図は命令よ」
エリアは鉛筆へ糸を結んだ。
糸の反対へ小石。
簡易の鉛直。
船の傾きから、現在の重力方向を測る。
「ロロ、測輪」
「修理中!」
「昨日、作れると言った」
「作れると無料は別!」
「材料費は」
「左橇から外した車輪の縁、宿の古い桶板、カイルの王家印」
「最後は使うな!」カイル。
「鍋敷きより昇進だぞ」
「測輪へ王家印を使えば、通った道が全部王領になる!」
「政治的に危険」とセレナ。
「冗談だ!」ロロ。
「冗談にも記録が残ります」
「おまえが残すからだよ!」
結局、測輪の重しはカイルの予備ボタンになった。
「これも王家紋だぞ」
「小さい王領」とハル。
「道幅一寸だけ征服!」
「返してもらう!」
笑い声は出る。
だが、色がない。
カイルの赤金の髪は明るい灰。
エリアの濃紺の髪は暗い灰。
ハルの赤いマフラーも、セレナの黒外套も、明度の差でしかない。
色を知っている者は、記憶で補う。
色を知らず育ったアムナは、彼らが何を失ったと騒いでいるのか、完全には分からない。
「赤って、どんな形」
彼女が聞いた。
「形じゃない」ハル。
「じゃあ、どんな重さ」
「重さでもない」
「匂い」
「違う」
「説明できないのに、なくなったと分かる?」
ハルはマフラーをつまむ。
「分かる」
「名前と同じ」
アムナは外套の文字を見る。
「見えなくても、なくなった場所が痛む」
エリアは鉛筆を止めた。
色と名前を同じだとは思わない。
同じではないものを、分かりやすさのために同じにするのは危険だ。
しかし、完全に違うとも言い切れない。
「地図には色を使えない」とエリア。
「困る?」アムナ。
「線種を増やす。太さ、点、破線、二重線。困るけれど、描ける」
「名前は」
「本人が望むなら書く」
「望まなくても、消えた人は」
「望みを確認できない人の名を、あなたが所有する理由にはならない」
アムナの煤色の瞳が細くなる。
「消えたままにする?」
「消された事実と、公開する名を分ける」
「分けたら、忘れる」
「一つへ集めたら、奪われる」
二人の間に、白い地図がある。
地図はまだ何も言わない。
空白は中立ではない。
誰が先に線を引くかを待っているだけである。
測量班を三つに分けた。
エリア、ハル、アムナ、ノクスが家と道。
セレナ、カイルが住民聞き取りと公共設備。
ロロはゼロスター号と測輪の修理。
「俺だけ船?」ロロ。
「船が落ちたままでは帰れない」とエリア。
「人が消えてる時に船!」
「あなたが現場へ来たら、消えた設備を全部分解する」セレナ。
「証拠保全を信用しろ!」
「あなたの信用と証拠保全は別の台帳です」
「俺の台帳を増やすな!」
ロロは文句を言いながら、測輪を完成させた。
木輪一周、二尺。
十二周で宿から井戸。
二十七周で畑端。
四十一周で白い関所。
魔法の路図なら一瞬で測れる。
手で測ると、誤差が出る。
石へ乗り上げる。
輪が滑る。
人が道を横切る。
その誤差こそ、生活である。
最初の測輪一周で、エリアの地図は間違った。
宿から井戸まで十二周。
そう書いた直後、女主人が首を振る。
「十一と半分」
「測りました」エリア。
「乾いた日は」
「今日は乾いています」
「井戸へ水桶を持って行く日は、畑の石を避ける。空桶なら十二。満ちた桶で戻るなら十一半」
「戻りの方が短い?」ハル。
「重いから、家の裏を抜ける」
「私道?」
「冬だけ閉じる道」
「なぜ」
「屋根雪を落とす」
エリアは一本の線を消し、二本へ分けた。
空桶路。
満桶路。
同じ二地点を結ぶ道でも、荷物と季節で別の道になる。
「地図が増える」とハル。
「世界が最初から多いの」
「一枚へ全部入れたら」
「読めない」
「分けたら」
「重ねる」
エリアは薄紙を六枚出した。
一枚目、地形。
二枚目、建物。
三枚目、水と食料。
四枚目、医療と避難。
五枚目、生活者数。
六枚目、公開を許された呼称。
「七枚目は?」アムナ。
「非公開情報」
「どこ」
「一枚にはしない」
「地図なのに?」
「地図へ載せない方がよい情報もある」
「載せなければ、救助できない」
「救助時だけ開く半札を本人と救助所へ分ける」
「本人がいない時」
「その場合の条件を、本人へ聞く」
「聞けない人」
「不明の印だけ。名は書かない」
アムナは六枚の薄紙を光へかざした。
色はない。
重ねれば、線が濃くなるだけである。
「どの線が何か、見分けられない」
「線種を変える」
エリアは実演した。
地形は細い連続線。
建物は角のある二重線。
水は短い横刻み。
医療は丸点。
人数は穴。
呼称は手書き。
「色の代わり?」
「色があっても、色だけへ頼る地図は弱い。見え方が違う人、夜、煤、複写で崩れる」
「今まで色を使ってた」ハル。
「使っていた。頼りすぎていた」
「負けを認めた?」
「改善点を認めた」
「言い方で勝ちへ戻すな」
「地図は勝負ではない」
「公爵家の地図競技で三年連続優勝」カイル。
「なぜ知ってるの」
「外交資料」
「地図競技が外交資料?」ロロ。
「婚約候補の教養欄」
エリアの鉛筆が止まる。
「その資料、廃棄して」
「俺が作ったんじゃない!」
「持っている」
「王家文書!」
「公開範囲」セレナ。
「機密!」
「本人が破棄を希望」
「外交手続と本人希望が衝突!」
「ここで解決しないで」とエリア。
「採用」セレナ。
「何を!」
「未解決欄へ」
色のない地図の上で、王家の古い婚姻制度が一行だけ未解決になった。
歴史は大きな戦争だけで続くのではない。
捨てられなかった一枚の身上書が、何年も後に他人の顔を曇らせることでも続く。
村人へ、道を描いてもらった。
同じ白い板へ全員で書かせると、声の大きい者の線だけが太くなる。
だから一人一枚。
麦番は窯から配給庫への直線。
子供は屋根の下を通る細い線。
杖を使う老人は坂を避けた大回り。
荷運びは車軸が通る幅を書き、途中の橋へ重量上限を添える。
女主人は、夜に一人で通らない道へ×を付けた。
「危険?」セレナ。
「危険じゃない」
「では、なぜ」
「亡くなった子の家の前だから」
物理的には通れる。
感情的には通れない。
「地図へ書く?」ハル。
「本人の地図へだけ」とエリア。「公共地図へは、夜間迂回を希望する人がいる、と理由なしで」
「理由を消す?」アムナ。
「理由を公開しない」
「同じ」
「理由がある事実は残す」
女主人は頷く。
「子の名は」アムナ。
「今日は、言わない」
「覚えている?」
「私が?」
「はい」
「忘れた日はある。忘れたふりをした日もある。どちらを記録する?」
アムナは答えられない。
「今日は、道を通らないことだけ」と女主人。
「採用」とエリア。
理由のない迂回線を描く。
地図を読む者には非効率に見える。
しかし、地図は人間へ最短路を命令するためだけの物ではない。
通れる道と、通りたい道。
危険な道と、痛い道。
そこを区別できない地図は、正確でも残酷である。