第700話 第二章「名前を二度聞く少女」後編

 下の道は、白い畑の間を縫っていた。

 畑の作物にも色はない。

 葉と土を、明るさと形で分ける。

 道標の文字は消えている。

 代わりに縄が張られている。

 大きな結びは右折。

 二重は水場。

 返しは崩落。

 短い結び三つは、荷車が通れる幅。

「地図より触った方が早い」とハル。

「地図は触った結果を他人へ渡すためにあるの」とエリア。

「俺は一度走れば覚える」

「あなた以外が困る」

「俺が配る」

「あなたがいない時に困る」

「いなくなる前提?」

「人が一人いなければ使えない制度を作らない前提」

 アムナが二人を見る。

「喧嘩?」

「航法」とハル。

「喧嘩です」とセレナ。

「喧嘩を航法にするな」とカイル。

「おまえが言う?」ロロ。

 ロロは荷車の轍へしゃがみ込む。

 二本の補助腕は動く。

 だが工具へ過去の作業手順は残っていない。

「車輪幅、四尺二。右だけ油が新しい。軸の金属粉、昨日。ここで一回止まってる」

「サエルの荷車?」ハル。

「断定はしない」とセレナ。

「他に同じ幅の荷車は」

 アムナは右の中指へ触れた。

「三台。サエル。畑番。配給」

「名前を全部覚えてるのか」カイル。

「全部ではない」

「どれくらい」

「今、三百八十九」

「十分全部だろ」

「昨日、三百九十一」

 アムナの声は変わらない。

「二人、場所を間違えた」

 彼女は外套の文字を見た。

「ウルの話を、ウラの家へ置いた。直した」

「三百八十九を、どう置く」とセレナ。

 質問の声。

 疑いではない。

「場所へ」アムナ。

「具体的に」

 アムナは白い畑の縁へしゃがんだ。

 畝を一本、右手の人差し指とする。

 石を関節。

 水路を掌の皺。

「宿区は右手。医療区は左手。崖の下は右腕。塔路は背中」

「背中は見えない」とハル。

「見えない名」

「公開しない?」

「所在を知らない」

「それを同じ場所へ入れると、所在不明と非公開が混じる」とセレナ。

 アムナは黙る。

「混じったことは」

「ある」

「どのように訂正した」

「本人に会った」

「会えない場合」

「ウルへ聞く」

「ウルも知らない場合」

「外套へ疑問の結び」

 外套の裾に、小さな輪。

 不明。

 未確認。

 同名の可能性。

「あなたの記憶は、記録と照合して初めて訂正できる」とセレナ。

「記録が消える」

「だから複数必要です」

「複数は食い違う」

「食い違いが誤りを見せます」

「一つなら、食い違わない」

「一つが間違っていても分からない」

 アムナはセレナを見る。

 短い黒髪。

 六角単眼鏡。

 左眼をわずかにかばう角度。

 右手首を曲げすぎない持ち方。

「セレナ・クロウ」

「はい」

「名前。もう一度」

「今は必要ですか」

「覚える」

「私の同意を先に」

 アムナの手が止まった。

「名前を言った」

「自己紹介はしました。あなたの身体へどの情報と結びつけるかは聞いていません」

「同じ」

「違います」

 この旅の人間は、違うという語をよく使う。

「どこまで」とアムナ。

「呼称、セレナ。職務、星律官。左眼の古傷は救難時のみ。右手首は荷重分担に必要。家族情報は不要」

「笑い方」

「記録しないでください」

「笑わない?」ハル。

「あなたの前では減ります」

「俺が原因!」

「確認しました」とアムナ。

 セレナ・クロウ。

 左手の人差し指。

 証拠机。

 右手首は荷重。

 笑い方は記録しない。

「今、置いた?」セレナ。

「置いた」

「訂正条件」

「あなたが言う」

「承知」

 カイルが胸を張る。

「次は俺だな」

「なぜ」

「順番」

「誰が決めた」

「王子」

「その肩書、ここでは無職」とロロ。

「まだ言うのか!」

 アムナはカイルを見る。

「カイル・アークレイ」

「もう一度」

「それは私が言う」

「俺にも一回やらせろ!」

「カイル・アークレイ。左利き。右手を矯正。盾は右。背中に火傷。肋骨――」

「待て、どこまで知ってる!」

「昨日、負傷確認」

「背中は見せてない!」

「外套を脱いだ時、襟」

「観察が細かい!」

「覚えてよい?」

「救難時に必要な範囲。火傷の形は公開しない。王太子の肩書は……」

 カイルは止まる。

「言わなくてもいい」とアムナ。

「いや。王太子であることは隠さない。ただし、この国の人へ命令権があるとは書くな」

「王子。命令なし」

「短くすると、ただの飾りみたいだな!」

「背の高い無職」とロロ。

「戻った!」

 エリア。

「エリア・ルーンベルグ」

「名前。もう一度」

「エリア・ルーンベルグ」

「覚えてよい範囲」

「呼称、地図、左肺、両踵。家名は公的。母の情報は、私が話した範囲だけ」

「公爵令嬢」

「必要な時だけ」

「地図を一人で持つ」

 エリアの右眉が上がる。

「誰から聞いたの」

「昨日、全部自分で描いた」

「紙が一枚しかなかったから」

「複写しなかった」

「今朝する予定」

「予定は記録?」

「実行後に」セレナが入る。

「予定を功績にしないでください」

「あなたたち、私の監査を始めた?」エリア。

「地図は命令」とアムナ。

 エリアは一拍黙る。

「覚えてよい。ただし、その言葉は私の発言として」

「出典」

「そう」

 ロロ。

「名前、ロロ・ピクス。もう一度!」

「先に言った」

「時短!」

「本人が二度言う?」

「俺は俺を所有してる!」

「本当に?」ネイのいない方向から、誰かの声がした気がする。

 ロロは周囲を見る。

「今の誰だ!」

「風」とハル。

「風に思想を持たせるな!」

 アムナはロロの二本の補助腕を見た。

「三番腕」

「ない」

「記録では四本」

「古い。今は二本稼働、一つ取り外し、一つ休止」

「更新」

「そうしろ。あと右手の痺れ四。無料で働くと悪化五」

「最後は医学じゃない」とカイル。

「経済病!」

 ハル。

 名前はもう置いた。

「凪野ハル」

「もう一度?」

「昨日、置いた」

「更新ない?」

 アムナは左肩を見る。

「無理を隠す」

「性格は本人同意いらない?」

「行動」

「違いが難しい」

「走る。左へ曲がると一歩短い。人を見ると地図より先に行く。空白を見ると、未来と言いそう」

 最後の一つに、ハルは顔を上げた。

「言ってない」

「顔」

「顔の解釈は証明に使うな!」

「証明じゃない。警戒」

「空白、嫌い?」

「嫌いじゃない」

「じゃあ」

「空白にされた人を、これから書ける紙みたいに言う人が嫌い」

 ハルは、今度も返事を急がなかった。

 待つ。

 アムナは理由を話さない。

 待てたからといって、必ず話す義務はない。

「分かったとは言わない」とハル。

「正確」

「覚えてよい?」

「今の言葉は」

「うん」

「置く」

 アムナの記憶宮殿へ、旅人たちの名が入る。

 名だけではない。

 覚えてよい情報と、覚えてはいけない情報の境界も一緒に置く。

 彼女はこの時、境界を守れると思っていた。

 記憶へ入れたものを、後から出さなければならない日が来るとは、まだ考えていなかった。

 畑の端で、女主人の末子が縄を結んでいた。

 八歳くらい。

 色のない髪を耳の後ろへ押し込み、短い縄へ大きな結びを一つ、小さな結びを二つ作る。

「それは何」アムナ。

「朝の人」

「名前」

「知らない」

「誰」

「毎朝、井戸を先に回す人」

 子供は大きな結びを指す。

「今日は来なかったから、ほどかない」

「来なかった印?」ハル。

「来るまで残す印」

「同じじゃない?」

「来なかった、は終わってる。来るまで、は待ってる」

「八歳に言葉で負けた」とカイル。

「年齢を勝敗条件にするから負けるの」とエリア。

 アムナは縄を見た。

 名はない。

 しかし、不在を不在のまま残している。

「その人の名を知りたい?」

 子供は首を傾ける。

「会ったら聞く」

「会えなかったら」

「結びを残す」

「誰も分からなくなったら」

「井戸が分かる」

 井戸は返事をしない。

 けれど、巻き上げ縄の片側だけが深く擦れている。右手を強く使う者が、毎朝同じ向きへ回していた痕である。

 アムナは、その擦れを自分の左手首へ置こうとした。

 止める。

「覚えてよい?」

 子供は驚いてから、井戸を見る。

「人の名前は知らないよ」

「擦れ。朝に来る人がいること」

「村の外へ言わないなら」

「村の中」

「明日まで」

「明日まで」

 期限のある記憶。

 アムナは左手首へ井戸の冷たさを置く。

 名前は置かない。

「覚えた?」

「今は」

「忘れる?」

「明日、聞き直す」

 子供は満足して、結び目をもう一つ作った。

「それは」

「あなた」

「私の名?」

「白い外套の人。一日だけ」

「灰色」

「色、分からない」

「私も」

 二人は外套を見た。

 色を知らない者同士でも、同じ明るさを同じ言葉で呼ぶとは限らない。

「外套の人」と子供。

「今日だけ」

「今日だけ」

 アムナは、自分が他人の記憶へ期限付きで置かれたことを、初めて意識した。

 覚える側でいる時、忘れられる恐怖は大きい。

 覚えられる側へ立つと、永遠に残される恐怖も同じだけ大きい。

「三百八十九人、全員へ聞いた?」セレナ。

 アムナの肩がわずかに上がる。

「名前は聞いた」

「覚えてよい範囲は」

「聞いていない」

「これから聞ける人には聞く。聞けない人は、公開しない」

「それでは、私は何を覚えている」

「あなたが見たものです」

「見たら、私のもの?」

「いいえ」

「じゃあ」

「見た事実と、使う権利を分ける」

「また、違う」

「違うことを面倒がると、一つへまとめた人が勝ちます」

 セレナは、子供の縄を勝手に帳面へ写さなかった。

「記録しない?」アムナ。

「本人へ、誰の帳面へ何を残してよいか聞いていません」

「消える」

「私の目には残ります。ただし、私の目から先へ渡さない」

「忘れたら」

「井戸へ戻って聞く」

 戻る。

 記憶の術を磨く者は、忘れない方法ばかり学ぶ。

 忘れた時に戻る方法は、誰かへ道を借りなければ作れない。

 アムナは子供へ聞いた。

「井戸までの道、覚えてよい?」

「それは、みんなの道」

「公開してよい?」

「崖の向こうの人にはだめ。水を取りに来て、縄を切るから」

「みんな、は誰」

 子供は考えた。

「水を戻す人」

 国民でも、登録者でも、同じ姓でもない。

 使った水の分だけ井戸縄を直す人。

「それを地図へ書く」とエリア。

「名前なしで?」アムナ。

「道の条件として」

「人が変わったら」

「条件を読み直す」

 エリアは紙の井戸記号へ、細い二重線を足した。

 誰でも通れる道ではない。

 誰か一人が所有する道でもない。

 使う者が水を戻す限り、通れる道。

 地図に人名はない。

 それでも、人の選択が線の形へ残った。

 アムナは、その線を記憶宮殿へ入れなかった。

 紙を持つエリアへ預ける。

 預けたことだけを覚える。

「忘れるのか」ハル。

「忘れる」

「魔法じゃない」

「言った」

「言われたけど、見た目が魔法っぽい」

「外套?」

「覚え方」

「あなたが走った道を覚えるのも、見た人には魔法」

「方向音痴だけど」

「道を覚えるのと方角を覚えるのは違う」エリア。

「急に味方するな」

「事実へ味方しただけ」

 轍は途中で消えた。

 物理的に切れたのではない。

 白い粉が道へ均一に降り、車輪跡を埋めている。

 その先に、古い関所扉がある。

 扉の中央へ、名札を差し込む細い口。

 左右へ誓紋の形を読む金属板。

 どちらも動かない。

「通った?」セレナ。

 アムナは扉の下を見る。

 右靴の引きずり跡。

 荷車の油。

 乾いた咳の唾痕。

「通った」

「扉は閉じてる」ハル。

「昨日は開いた」

「今は?」

「名がない」

 アムナは扉へ手を当てる。

「扉は人を見ない。名前を見る」

「この国の扉は全部?」エリア。

「中央へつながるもの」

「中央」

 アムナは遠くを指した。

 白い塔。

 空と同じ明るさで、輪郭だけが立っている。

「何の塔?」カイル。

「記録」

「誰が管理してる」セレナ。

「今は、知らない」

「前は」

「知っていた人の名が消えた」

 関所の脇に、小さな人影がいた。

 裏返せる外套。

 灰色の短髪。

 左右で音の違う靴。

 少年は、いつからそこにいたのか分からない。

 同じ輪郭で覚えられないよう、立つたび肩の高さを変えている。

「ネイ」とアムナ。

「今日はそれで」

「名前。もう一度」

「今日は、それで」

「ネイ」

「二度目は所有印じゃない」

 少年はアムナの外套へ近づき、文字の一つを見つけた。

 ネイ。

 細い刃で、その布だけを切り取る。

「何する!」

 アムナの声が、初めて大きくなった。

「返した」

「私の外套」

「僕の名」

「失くす」

「失くす権利も僕の」

「追えない」

「追うために渡してない」

 アムナは切られた穴を押さえる。

 布の空白。

 ハルは、その空白を見て言いかけた。

 可能性。

 言葉になる前に、アムナが彼を見る。

「空白を、いいものみたいに言わないで」

 ハルは口を閉じた。

「まだ言ってない」

「顔で言った」

「顔を証拠にするなってセレナが」

「私は顔の解釈を禁じていません。証明に使うなと言っています」

「細かい!」

「正確です」

 ネイは切り取った布を細く裂いた。

 四本の短い紐にする。

 一つを右足へ。

 一つを扉の蝶番へ。

 一つを道の縄へ。

 一つをポケットへ入れる。

 一つの名を、一つの場所へ置かない。

「下の道、今は通れない」ネイ。

「サエルは」アムナ。

「その呼び方が誰か、今日は知らない」

「昨日は」

「荷車の人が、医療区へ行った」

「怪我?」ハル。

「咳。転倒。扉が開かなかった」

「どこ!」

「白い峡谷の手前」

 ハルが走り出す。

「待って!」エリア。

「場所!」

「地図!」

「走りながら聞く!」

「それを待たないと言うの!」

 アムナはハルの足音を聞いた。

 速い。

 左へ曲がる時だけ、肩をかばって一歩短い。

 右の親指に置いた名が、入口から道へ走っていく。

「十二人」とアムナ。

 全員が止まる。

「何?」セレナ。

「昨夜まで、宿には十二人いた」

 アムナは地面へ十二本の短い線を引いた。

 十一本は宿へ戻る。

 一つだけ、白い峡谷へ向かっている。

「サエル・ミナ」

 二度、言う。

 一度目は、その人がいたことを示すため。

 二度目は、まだ助けに行けると確かめるために。