第699話 第二章「名前を二度聞く少女」前編

名前は、一度で足りる。

 役所はそう考える。

 戸口へ一度書き、出生簿へ一度書き、墓標へ一度刻む。一人へ一つ、重複なし。管理する側から見れば、それが最も美しい。

 しかし、人間は本来、同じ名を何度も呼ばれる。

 朝食ができた時。

 転んだ時。

 怒られた時。

 暗い道で見失われた時。

 一度目の名は、誰であるかを示す。

 二度目の名は、まだそこにいるかを確かめる。

 名が制度になる以前、名は返事だった。

【現実/三窓の宿・窓外/覚醒/翌朝】

 少女は人を覚える時、身体へ部屋を作る。

 右の親指へ入口。

 人差し指へ水場。

 中指へ火。

 薬指へ寝床。

 小指へ出口。

 掌は道。

 手首は崖。

 肘は橋。

 場所へ人を置き、人へ場所を置く。

 名を手と地形へ覚える記憶術〈メモリー・パレス〉

 魔法ではない。

 星は光らない。

 誓紋も出ない。

 一度覚えた名が永遠に残るわけでもない。

 寝不足なら廊下が曲がる。

 空腹なら入口と出口が近づく。

 似た音が続けば、別の人が同じ部屋へ入る。

 だから、少女――アムナ・エクリプスは、名前を二度聞く。

 一度目は、相手の口から。

 二度目は、自分の口で返す。

 記憶とは、正確さではなく訂正の回数でできている。

 ハルが宿の外へ出ると、少女は地面へ座っていた。

 灰色の外套を膝へ広げている。

 外套の表には文字。

 裏にも文字。

 大きい字、小さい字、上から書き直された字、途中で消えた字。

 文字の厚みで布が板のように硬い。

 少女は炭の欠片で、自分の右手の甲へ短い線を一本引いた。

「昨日、窓にいたよな」

「いた」

「名前」

 少女が顔を上げる。

「先に」

「え?」

「あなた」

「凪野ハル」

「名前。もう一度」

「凪野ハル」

「違う。私が言う」

 少女は、ハルの右眉の縫合痕、銀筋、左肩をかばう立ち方、配達鞄の順に見る。

「凪野ハル」

「正解」

「正解は、あなたが決める」

「じゃあ採点すんな」

「訂正できる」

 アムナは右の親指へ小さく触れた。

「入口に置いた」

「俺を?」

「名を」

「入口でいいのか」

「すぐ走るから」

「性格まで地図にするな」

「走らない?」

「走る」

「正確」

 少女の口元から、声でない息が一度漏れた。

 笑ったらしい。

「おまえは?」

「アムナ・エクリプス」

「名前。もう一度」

 ハルが返す。

「アムナ・エクリプス」

 少女は一拍遅れて頷いた。

 自分の名を他人の口で聞く時、表情が固くなる。

 その名が大切だからではない。

 誰が、どこへ持っていくか分からないからだ。

「エクリプスって、この空域と同じ?」

「地名。共同姓」

「家族名じゃない」

「家族を名簿で作らない」

「俺も名字あるけど、名字だけで家族になった覚えはないぞ」

「それは、登録されている人の言い方」

 短い。

 怒鳴らない。

 しかし言葉の端が、白い地面へ打った釘のように動かない。

 ハルは返事を急がなかった。

 急がないことは、理解したふりより一段ましである。

 ただし、理解ではない。

 宿の住民は十一人。

 それが今朝の人数札だった。

 女主人。

 夫。

 子供二人。

 老人三人。

 畑番二人。

 荷運び一人。

 台所番一人。

 昨日の夕食には、十八枚の皿。

 旅人五、ノクス一、住民十一、そして空席一。

 足せば十八。

 誰の皿かは、誰も言えない。

 アムナは空席の前へ立った。

 右手の中指へ触れる。

 火の部屋。

「サエル・ミナ」

 女主人の手から匙が落ちた。

「……何?」

「サエル・ミナ」

「それ」

 女主人は胸を押さえた。

「それは、誰」

「あなたの弟」

「弟は」

 言葉が止まる。

 家族関係は覚えている。

 弟がいるという輪郭。

 幼い頃、井戸へ落ちかけたこと。

 硬いパンの端を残すこと。

 右足の靴底だけ早く減ること。

 だが、名前を通って弟へ行こうとすると、道が白くなる。

「サエル」とアムナ。

「繰り返すな!」

 女主人が叫んだ。

「珍しい名前みたいに、繰り返すな。私の――」

「弟」

「分かっている!」

「名は?」

「言えない!」

 その声は怒りではない。

 怒りの形を借りた恐怖だった。

 アムナは外套の裏をめくる。

 黒い文字の一つ。

 サエル・ミナ。

 右足を引く。

 荷車の軸へ油を塗る前に二回咳をする。

 塩粥へ乾いた葉を一枚入れる。

 笑う時、歯を見せない。

「昨夜まで、ここにいた」

「見たのか」セレナ。

 いつの間にか、ゼロスター号の乗員全員が戸口へ集まっている。

「見た」

「時刻」

「夕鐘の三つ前」

「鐘はこの領域でも鳴る?」

「人が叩く」

「行き先」

「下の道。荷車の車軸」

「戻っていない?」

「足音がない」

 ノクスが耳を立てた。

 アムナを見る。

 鼻を近づける。

 嗅ぐ。

 何も見つけられず、少女の周囲を一周した。

「ナァ」

「匂いで覚えられない」とハル。

「誓いがないから?」エリア。

「たぶん」

 アムナは左足を一度引き、右足を半歩前へ出した。

 靴底が乾いた地面を擦る。

 しゃ、こつ。

 ノクスの耳が動く。

 少女はもう一度歩く。

 しゃ、こつ。

 左足は布底。

 右足は釘が一本多い。

 ノクスは二歩目で、彼女の後ろへついた。

「匂いじゃなく、足音」とアムナ。

「ノゥ」

「覚えた?」

「ノゥ」

 ハルが笑う。

「名前、二度聞かなくていいんだな」

 ノクスがハルの耳を噛んだ。

「俺の解釈だけ不正解なのかよ!」

「本人確認」とセレナ。

「噛むのを手続にするな!」