第698話 第一章「色のない国」後編
船を降りる。
ゼロスター号の非常灯は点かない。
救難信号も出ない。
扉の誓紋錠は、登録された乗員名を確認できず、閉じたままになった。
「自分の船に締め出されるとはな」カイル。
「所有と利用が同じだと思うからです」セレナ。
「今、所有権の授業いる?」
「閉じ込められてから学ぶより先がよいでしょう」
ロロが手動解放輪を回す。
「旧式を笑った奴、順番に謝れ」
「誰が笑った」ハル。
「全員。便利になった時に旧式を捨てた顔してた」
「顔で罪を作るな」とセレナ。
「じゃあ修理費で」
船腹の扉が開く。
外の空気は乾いていた。
匂いが少ない。
塩も、花も、燃料も、誓いの残り香もない。
遠くに家がある。
屋根は白い。
壁も白い。
道も白い。
空も、薄い明るさが続くだけだった。
色がないのに、生活はある。
煙突から煙。
物干しへ布。
畑の畝。
井戸の滑車。
道標が一本立っている。
板の表面に、文字の形だけが残っていた。
何度も削られ、上から塗られ、また削られた跡。
「地名は」ハル。
エリアが指で触る。
「消えている」
「風化?」セレナ。
「表面だけではない。文字の溝がない。最初から彫られなかったように平ら」
「看板が忘れた?」カイル。
「看板へ人格を与える前に、加工痕を調べます」
道の両脇に細い縄が張られている。
結び目が一定間隔で変わる。
ロロが屈み、指で触れた。
「文字だ」
「読める?」
「機械図じゃない。長い、短い、二重、返し……触って読むやつ」
縄の結びで残す文字〈ノット・スクリプト〉。
終端環の記録法。
暗闇でも読める。
水へ濡れても、紙より残る。
だが長文には向かず、結び直した者の指癖で意味が揺れる。
「誰か来る」とハル。
「匂い?」エリア。
「足音」
ノクスも耳を立てた。
道の向こうから、一人の男が歩いてくる。
灰色の外套。
長い棒。
棒の先に、二枚の布。
右を一度。
左を二度。
布を振る。
「手旗」とセレナ。
「意味は」カイル。
「右一、停止。左二、人数確認……おそらく」
「おそらくで返す?」
「白旗一回を」
「全部白だぞ」ハル。
色がない国では、旗の色が役に立たない。
男は布の形を変えた。
一枚は三角。
一枚は四角。
「形で分けてる」とエリア。
セレナが四角を一回、三角を五回振る。
乗員五。
ノクスを一人に数えるかで一拍止まる。
「一人です」とセレナ。
「ノゥ」
三角を六回。
男は近づき、最初に名前を聞かなかった。
「数」
低い声。
「六」とハル。
「船」
「一」
「動く?」
「動かす」ロロ。
「今?」
「今は動かない」
「正確」
男は腰の木札へ六つ穴を開けた。
名前の欄はない。
「ここ、何て国?」ハル。
男は道標を見た。
「国」
「名前」
「今は、ない」
「前は?」
「言えない」
「禁止?」セレナ。
「違う」
「知らない?」
「違う」
「では」
男は口を開いた。
舌は動いた。
息も出た。
だが音になる直前、言葉だけが薄くほどけた。
「……ない」
彼は自分の喉へ手を当てた。
「宿へ」
男の後を歩き、白い村へ入った。
門は開いていた。
開いていたというより、閉じる機構を住民が外していた。
誓紋を読む板は沈黙し、登録名を持つ者だけへ動く閂は、木槌で叩き抜かれて壁際へ積まれている。
「不法改造」とセレナ。
「合法だと全員締め出される」と男。
「誰が許可を」
「通る人」
「利用者全員?」カイル。
「今朝、いた人」
「明日来る人は」
「明日、聞く」
「毎日決めるのか」
「毎日、門を使う」
王城の門は、百年の規則で動く。
この村の門は、朝ごとの相談で動く。
前者は安定している。
後者は面倒である。
安定は、昨日いなかった人を締め出すことがある。
面倒は、今日いる人の顔を見なければ始まらない。
「王国全部を毎朝決め直したら、会議だけで日が暮れる」とカイル。
「だから大きい国は、昨日の答えを今日も使う」とエリア。
「悪い?」
「必要。危険。両方」
「政治の答え、だいたい両方だな」ハル。
「一つにすると誰かを隠すからだ」
村の中央には、小さな市場があった。
店の名はない。
屋台の前へ、品物の形を刻んだ木片。
丸い刻みはパン。
波線は水。
針三本は裁縫。
空の木片は、今日売る物が決まっていない店。
「空欄?」ハル。
「何もない?」
店番の女が首を振る。
「まだ、決めてない」
空欄は、奪われた跡にもなる。
まだ決めていない場所にもなる。
形だけでは区別できない。
誰が、どうして空けたかを聞かなければならない。
ハルは言葉にしなかった。
空白を可能性と呼びたくなる。
その言い方が、後で誰かを傷つけることを、まだ知らない。
市場の支払いは、物と労働と時間だった。
パン一つ。
井戸水二桶。
屋根板を留める釘三本。
荷運び十五分。
カイルは王家印を出しかけ、引っ込めた。
「学習した」とロロ。
「金属鍋敷き扱いは一度で十分だ」
「王権の換金率、鍋一個」
「広めるな!」
ハルは腰の地球硬貨を一枚出した。
穴はない。
肖像と数字。
店番は眺め、歯で噛んだ。
「これは?」
「百円」
「何が百」
「円」
「円が何」
「……日本だと、安い飲み物一つ」
「飲み物はない」
「今ここで価値ゼロ?」
「金属一」
「王家印と同じ分類!」
「世界を越えると王子と百円玉が並ぶ」とエリア。
「そこに笑う要素あるか!」カイル。
結局、ハルはパンを受け取らない。
代わりに屋台の傾いた脚を直す。
ロロが工具を貸し、貸出料を口にする前に女から乾燥豆を一袋渡された。
「過払い」とロロ。
「直った」女。
「材料費だけなら半分」
「次の人の分」
「寄付?」
「前の人が、私の分を払った」
名を言わない。
「誰」とロロ。
「言えない」
女の指が止まる。
直してもらった記憶はある。
屋台の脚へ当てた板の角度も、工具を左手で持っていたことも覚えている。
名前だけがない。
ロロは豆袋を半分返さなかった。
「次の修理へ回す」
「借り?」ハル。
「前の人から次の人への修理費。俺が一度預かる」
「名前なしで帳簿付けられる?」セレナ。
「屋台脚一、修理済み。豆一袋、半分使用、半分繰越。人名いらない」
「責任者」
「俺」
「あなたがいなくなったら」
「屋台の裏へ書く」
「名前は」
「工具の形」
「それで責任追及できる?」
「俺の工具、変な形だから」
「自慢する箇所?」
「遠目でも識別しやすい!」
ロロは、二本の補助腕をわざと左右へ広げた。
「何の遠目だ」とカイル。
村の向こうで、救難灯が一度だけ暗くなった。
灯の下に人がいる。
老人が手を振っている。
だが灯は、その人の登録名へ応答しない。
男が走り、手で鐘を鳴らした。
救難灯が使えないなら、人が鐘を叩く。
鐘が届かないなら、旗を振る。
旗の色が消えたなら、形を変える。
便利が一つ消えるたび、労働が一つ姿を現す。
「この村、ずっとこう?」ハル。
「前から紙と縄は使う」と男。「全部が止まったのは、三日前」
「無誓領域が広がった時期と近い」とエリア。
「名前が消えたのも?」セレナ。
男は答えようとした。
口が動く。
「最初は、井戸の――」
誰かの名を言おうとして、白く止まる。
「思い出せない」
「人は?」ハル。
「いた」
「今も?」
「いる。たぶん」
「たぶん?」
「家はある。靴もある。井戸の桶も二つ減る。でも、誰に渡したか分からない」
生活は、人の形を残す。
制度は、名前の欄を白くする。
その差を、旅人たちはまだ事件と呼んでいなかった。
ただ、村へ入って最初の一時間で、名前のない労働へ何度も助けられた。
宿は三つの窓を持っていた。
看板はない。
入口の縄に、寝床、湯、食事、火災時の出口が結ばれている。
通貨端末は沈黙していた。
カイルが王家印を出す。
宿の女主人は裏表を見て、硬さを確かめた。
「金属」
「王家の印だ」
「鍋敷き?」
「国一つ買える信用だぞ」
「鍋一つ置ける」
「王権が食卓へ降りた!」
「適正価格だ」とロロ。
結局、宿代は労働で払う。
ロロは井戸の滑車を直す。
エリアは風でめくれた屋根板を測る。
カイルは薪を割る。
セレナは宿帳の代わりに人数札を作る。
ハルは井戸水を運ぶ。
魔法がない。
だから、できないことが増えた。
同時に、誰がどの仕事をしていたかが見える。
夕食の卓へ、皿が十七枚並んだ。
宿の住民十一。
旅人五。
ノクス用の浅皿一。
「合ってる」とセレナ。
女主人が首を振った。
「十八」
「誰の分です」
彼女は十八枚目の皿を置いた。
厚い陶器。
縁に欠け。
匙は右側。
パンは硬い端を避けて、柔らかい中だけ切ってある。
誰かの好みが、手の動きとして残っている。
「誰の分?」ハル。
女主人は止まった。
周囲の住民も皿を見る。
幼い子が椅子を一つ引く。
老人が無意識に、その席へ塩を近づける。
若い女が空の椅子の背へ外套を掛ける。
全員が、その人の生活を知っている。
誰も、名前を言えない。
「家族?」エリア。
「……そうだった」女主人。
「どんな人?」セレナ。
「荷車を直す」
「年齢」
「私より少し下」
「今どこに」
「朝、出た」
「どこへ」
「下の道」
「名前は」
女主人の口が動く。
音が出ない。
ノクスが空席の下へ潜った。
床板を嗅ぐ。
誓いの匂いは追えない。
それでも、泥の粒と靴底の油と、椅子の脚についた毛糸を嗅ぎ分ける。
小獣は窓へ走り、遠い暗がりへ向かって鳴いた。
「ノゥ」
外に、人の足音があった。
軽い。
左右の歩幅が同じ。
宿へ近づかず、窓の外で止まる。
短い白髪の少女が立っている。
灰色の外套。
外套の表も裏も、黒い文字で硬くなっている。
炭で染まった指。
少女は空席を見た。
それから、ハルたちを一人ずつ数えた。
名前は聞かない。
まだ。
食卓には皿が一枚多い。
生活は、その人を覚えている。
人間だけが、その人の名前を失っていた。