第697話 第一章「色のない国」前編

色は、自然が作った。

 だが、色の意味を作ったのは人間である。

 赤を危険と呼び、白を降伏と呼び、青を安全と呼ぶ。王家は深紅を所有し、公爵家は濃紺を紋章へ縫い、救難隊は遠くから見える黄を選んだ。

 歴史というものは、しばしば色分けから始まる。

 敵味方を分ける。

 通れる場所と通れない場所を分ける。

 救う者と救われる者を分ける。

 ゆえに、色が消えた時、人間は初めて知る。

 自分たちが見ていたのは物ではなく、物へ貼り付けた説明だったのだ、と。

【現実/地図外の終端空域〈エクリプス〉外縁/覚醒/誓星術消失から十一秒】

 ハルの赤いマフラーから、赤が消えた。

 布はある。

 風に鳴る。

 首へ巻いた重さも、母が縫い直した端のほつれも、旅先で増えた煤もある。

 ただ、赤くない。

「色まで故障するのかよ!」

「故障と断定するな!」ロロが機関室から怒鳴った。「船の故障なら俺に請求が来る!」

「じゃあ世界の故障!」

「請求先がもっと分からねえ!」

 ゼロスター号は落ちていた。

 墜落という語は、落ちる物体が地面へ向かっている時に使う。

 終端環では、その地面がどちらにあるかから怪しい。

 船首の前に、色を失った平原がある。

 右舷の下に、白い壁のような雲がある。

 左舷の上に、黒ではなく暗さだけが集まった裂け目がある。

 重力計は沈黙。

 星脈炉は火を失い、歯車だけが回っている。

 路図の淡緑線は一寸も伸びず、エリアの地図槍はただの金属棒になった。

 カイルの右籠手へ炎は出ない。

 セレナの証羽は、落とせば落ちる普通の羽だった。

 ノクスの二本尾は同じ方角を指したまま、迷っている。

 零星針も動かない。

 針が狂うなら、狂った方角を読める。

 針が一周するなら、円の中心を疑える。

 これは違う。

 針は、質問そのものを聞いていない。

「ハル、右索!」

 エリアの声。

「俺の右?」

「船首基準!」

「前の海で個人基準を増やすなって言ったの誰だ!」

「増やしたから減らしているの!」

「口論の履歴を航法に使うな!」カイル。

「履歴は使うものです!」セレナ。「同じ誤りを繰り返さないために!」

「今は落ちてる!」

「落ちながらでも誤りは繰り返せます!」

 ハルは右索へ飛びついた。

 一。

 二。

 三。

 跳躍の三拍。

 左肩へ全体重を預けない。

 右手で索を取る。

 膝を船縁へ当て、腰帯を輪へ通す。

 いつもなら零星針の白い線が、最も失われた向きを示す。

 今は、何もない。

 何もないから、見えるものを使う。

 帆の皺。

 索の震え。

 甲板へ転がる工具の向き。

 カイルの半マントが持ち上がる角度。

「風、船尾から三十度!」

「根拠!」エリア。

「おまえの三つ編み!」

「人の髪を風見にしないで!」

「正確なら使う!」

「正確だから腹が立つ!」

 エリアは紙地図を甲板へ広げた。

 紙の四隅へ重し。

 鉛筆。

 砂時計。

 船首の方角は、いま見えている平原の二本の塔を基準にする。

 魔法の地図は、現在を線へ変える。

 紙の地図は、誰かが現在を測って線へ変えなければならない。

 便利さとは、消えるまで労働の名を隠している。

「高度!」エリア。

「気圧管、差四!」セレナ。

「それ、高度にすると?」カイル。

「この地域の標準気圧が不明です!」

「役に立たない数字を明瞭に言うな!」

「不明を黙るより役に立ちます!」

 ロロが機関室の昇降口から顔を出した。

 青いはずのゴーグルも黄色いはずの上着も、違う濃さの灰でしかない。

 二本の補助腕が手回し軸をつかみ、短い腕が震えている。

「炉、機械出力三十六! 片帆だけなら九分! 左右帆へ分けたら四分! 完全に止めたら永遠!」

「最後の選択肢が一番長い!」ハル。

「飛ばない時間だ!」

「着地まで何分?」エリア。

「地面が地面なら三!」

「地面である証拠は」セレナ。

「木が上に伸びてる!」

「十分!」

 十分ではない。

 歴史上、木が上に伸びていたため地面だと判断し、その木ごと落ちた星帆船は四十三隻ある。

 そのうち二十一隻は記録上「未知の重力事故」とされ、残り二十二隻は「船長の判断ミス」とされた。

 同じ事故でも、責任を取りやすい名があれば歴史はそちらへ落ちる。

 この時のゼロスター号には、責任を取りやすい王子が一人いた。

「俺が舵を取る!」

「王子だから?」ハル。

「腕が長いから!」

「採用!」ロロ。

 カイルが舵輪へ両手を掛ける。

 本来は左利き。

 盾のため右へ矯正された身体は、力を入れると左右の仕事がずれる。

「肋部」セレナ。

「二!」

「虚偽」

「三!」

「許容。五で交代」

「俺の身体に官庁窓口を作るな!」

「申告しないからです」

 ノクスが甲板を走った。

 誓いの匂いはない。

 ハルの約束も、エリアの地図も、カイルの盾も、ロロの修理痕も嗅げない。

 小獣は一度、船首で止まった。

 鼻を上げる。

 何もない空気を嗅ぐ。

 それから床へ耳を付けた。

「ノゥ!」

 二本尾が左舷へ倒れる。

「何だ!」

 船底から、細い連打。

 石。

 砂。

 乾いた植物。

 風ではなく、地面から跳ねた粒が船底へ当たっている。

「近い!」ハル。

「どれくらい!」エリア。

「配達自転車で濡れた砂利へ突っ込む直前くらい!」

「単位!」

「三秒!」

「最初から言いなさい!」

 三秒。

 ロロが主軸を切り替える。

 カイルが舵を右へ倒す。

 エリアが紙地図へ着地点を一本だけ引く。

 セレナが全員の腰索を目視する。

 ハルは帆索を引いた。

 左肩へ痛み。

 四。

「四!」

「交代!」エリア。

「間に合わない!」

「片手を離して!」

「帆が!」

「あなたの肩が帆じゃない!」

 エリアがハルの腰帯へ自分の補助索を通す。

 二人で引く。

 力を半分にするのではない。

 痛みの向きを変える。

 帆が一度だけ膨らんだ。

 ゼロスター号の船首が上がる。

 地面が迫る。

「全員、衝撃!」

 カイルは炎の盾を出せない。

 だから普通の盾を甲板へ打ちつけた。

 右籠手の裏から折り畳み式の金属板を開き、船首の支柱へ噛ませる。

 王盾炎がなければ、王子は何も守れないのか。

 そんな問いは、盾を持ったことのない者が好む。

 魔法の盾より先に、人間は木の板を持った。

 木の板より先に、腕を上げた。

「景気が悪い着地だな!」

「景気で浮くなら王国予算を燃やせ!」ロロ。

「燃えない!」

「今日だけ正しい!」

 船底が地面を擦った。

 白い粉塵。

 色のない草。

 左側の着地橇が折れ、船体が二十度傾く。

 ハルの身体が索へ投げ出される。

 一。

 二。

 三を言う前に、エリアの左手が腰帯を引いた。

 二人で甲板へ転がる。

 カイルが盾ごと支柱へ押しつけられる。

 ロロの補助腕が一斉に軸へ噛む。

 セレナは単眼鏡を押さえ、ノクスを外套へ包む。

 ゼロスター号は、三百六十二メートル地面を滑った。

 最後に片帆が低い木へ絡み、止まった。

 音が消える。

 星脈炉が止まった音ではない。

 もともと星の音がない土地へ、人間の騒音だけが急に負けた静けさだった。

 負傷確認。

「ハル」セレナ。

「左肩四。指動く。吐き気なし。耳鳴りなし」

「耳鳴りがない?」

「零星針を使ってないから」

 言ってから、ハルは胸の奥の薄さに気づいた。

 父と交わした言葉。

 母の店へ帰ること。

 エリアと戻る道を作ること。

 覚えている。

 文としては、一字も欠けていない。

 ただ、その文を胸へ結んでいた熱が遠い。

 約束が消えたのではない。

 約束へ伴っていた、星の反響が消えている。

 それは、熱がなければ約束ではないと信じていた者には危険な土地だった。

「ハル?」

「覚えてる」

「何を」

「帰ること」

 エリアは一瞬だけ黙った。

「私は、聞いていない」

「何を?」

「あなたが今、何を覚えているかを」

「じゃあ何を」

「肩」

「四」

「正確」

 彼女は地図針のない三つ編みを触った。

「私は左肺三。踵二。魔法なし。思考は――」

「いつもより言葉が刺さる」

「正常ね」

「俺への刺さり方を正常値にするな」

「カイル」セレナ。

「肋部三、左膝二、王子度ゼロ」

「最後は医学的数値ではありません」

「この国では誰も俺を王子と認識しなさそうだ」

「よかったな」とロロ。「背の高い無職から始められる」

「せめて背の高い旅人!」

「旅費を払える?」

「王家の信用で」

「魔法通貨、全部死んでる」

「背の高い無職だ!」

 ロロは右手を振る。

「痺れ四。喘息一。補助腕二本稼働。再機、零。主軸の歯欠け三。左橇全損。修理費――」

「通貨が死んでる」とハル。

「借金は生きる!」

「強いな」

「制度が滅んでも残るのが借金と油汚れだ!」

 セレナは紙へ書く。

 紙。

 黒鉛。

 手。

 証羽がなくても、記録はできる。

 ただし、見た者の疲労と、書いた者の偏りと、濡れれば消える弱さを隠せない。

「ノクス」

「ナァ」

 外套から黒い顔が出る。

 金色だった眼も、今は明暗しかない。

 二本尾の青白い光は消えている。

「嗅げる?」ハル。

 ノクスはハルの手を嗅いだ。

 首を傾げる。

 噛んだ。

「痛い!」

「生存確認」とカイル。

「おまえも出せ!」

「王族の血は高い」

「無職のくせに!」