第696話 第十二章「魔法が消える方角」後編

 ソウジがいなくなったのは、その直後だった。

 医務甲板には灰色の外套と、星酔い止めの空包だけが残る。

「父さん!」

「肩!」セレナ。

「今は父!」

「肩は父を待たない!」

 ハルは左肩を固定し、腰帯を通路索へ掛けて下層へ走る。

 測量艇との連絡筒が閉じかけている。

 向こうにソウジ。

「止まれ!」

「艇を境界から離す」

「逃げるのか」

「終端議会の拘束だけへ従えば、地球側と被害側を含む説明の場が作れない」

「だから自分で逃げる場所を選ぶ?」

「そうだ」

「責任を果たす人の台詞じゃない」

「逃亡と記録しろ」

 エメの声が通信へ入る。

『そのつもりだ』

 第五切断艦は追えない。接近すれば細い試験線が壊れる。

 ゼロスター号も、潮骨笛の共同保管を無人にできない。

 ソウジは、逃げられる条件まで計算していたのかもしれない。

 内心は語られない。

 分からないことを、父だからという理由で分かったことにしない。

「次に安全な召喚路ができたら」とソウジ。「三十日以内に公開質問へ出る。地球、逆潮、アステリア、被害当事者。質問範囲を私が限定しない」

「約束は功績じゃない」とハル。

「履行するまで未履行だ」

「世界を理由に他人の同意を省かない?」

「約束する」

「俺を固定点にしない?」

「撤回する」

「母さんを待たせる理由にしない?」

「しない」

「次は、帰る話をしろ」

「戻る話も」

「勝手に足すな」

「選び直すのだろう」

「……そうだよ」

 連絡筒が閉じる。

 ハルは最後に、父ではなく名を呼ぶ。

「ソウジ!」

 測量艇は逆潮の白い影へ入った。

 逃げた。

 約束を残して。

 生存連絡を残して。

 責任を果たし切らず。

 セレナは別々の行へ記す。

 凪野ソウジ、未拘束のまま逃亡。

 公開質問への出席約束、履行未確認。

 約束は、果たされる前には実績ではない。

 試験開始から一時間。

 入口と出口を閉じる。

 地球側、逆潮側、アステリア側が、それぞれ閉鎖を確認する。

 物も人も通さない、髪ほどの計測線だけを残す。

 自動延長はしない。

「終了」とニア。

 地球の灯台が消える。

 地球が消えたのではない。

 今は見えなくなっただけである。

「帰る?」エリア。

 引き止める声ではない。

「今は帰らない」

「私がいるから?」

「それもある。俺が、戻れる道を作ってから帰りたい」

「戻りたいの」

「こっちにも」

「私も。あなたが帰った後、帰還日を待つだけの人にはならない。私も地図を作る」

 ハルは右手を出す。

「今、医務室まで一緒に戻る」

「短い約束」

「短い約束から」

「撤回条件」

「踵か肺が四になったら止まる。俺の肩が六でも止まる」

「採用」

 八十七メートル。

 梯子二つ。

 停止条件つき。

 それで十分な道もある。

【現実/境界事故停止から二日後/逆潮外縁・第零監査台】

 ニアは逆潮へ残る。

 大径接続設備の解体。

 終端議会の審理。

 両手触覚零の治療。

「必要とする」とエメ。

『赦してはいない』

「理解している」

『理解を免責へ使うな』

「使わない」

『三鍵なしで能力を使うな』

「使わない」

 必要と赦しは別である。

 嫌いな者の技術を必要とすることがある。

 必要な者を赦せないこともある。

 共同体は、好きな者だけで作れる家族ではない。

 ニアは黒い管輪を透明な受け皿へ置き、皿ごとハルへ差し出す。

 触覚がない手から直接渡して、落とした重さを相手へ負わせないために。

 輪には八つの切り欠き。

 入口、出口、開始、終了、流量、停止、保留、再入。

 一箇所だけ、閉じていない。

「七枚目の航路札」とハル。

「所有を示さない」

「今までのも所有じゃない」

「未命名で記録」とセレナ。

「名前にも保留席」とエリア。

 ロロは工具箱の蓋を一度叩く。

「七日後」

「修理明細を送る」とニア。

「それだけ?」

「医療数値も」

「仕事みたい」

「今は、仕事ができる関係」

「家族は」

「更新中」

 握手はしない。

 ニアは感じない。

 ロロの右手は痺れている。

 二人は工具箱を、こん、こん、と鳴らす。

 触れない者と、触れにくい者の別れは、音になった。

 別れの翌朝、ニアは第零監査台の主任席へ座らなかった。

 椅子は空いたまま。

「誰か座る」とエメ。

「任期を決めてから」とニア。

『今は緊急』

「緊急任期、六時間。再任は現場、構造、記録の三鍵。連続二回まで」

『あなたが最も構造を知る』

「だから一票。三票ではない」

 ニアは記録棚の前へ立つ。

 両手の触覚は戻っていない。

 紙の端を指先で探せない。

 薄い札を一枚だけ取ることもできない。

 以前なら、六本の機械腕で棚ごと分類した。

 今は机へ固定した一基の把持具に、厚い木製の挟み具をつけている。札と札の間には、指一本ぶんの仕切り。紙の上端には、大きな切り欠き。

 身体へ仕事を戻すのではない。

 仕事を、今の身体で扱える形へ変える。

「五番管、解体申請」とバズ。

「申請者」

『大径設備班』

「影響を受ける側」

『外縁居住船、測量路、潮墓地』

「三者の確認は」

『居住船のみ』

「保留」

『危険管だ』

「切るなとは言っていない。潮墓地へ連絡するまで、圧抜きだけ。解体しない」

『死者は返事をしない』

「墓地管理者と遺族航路が返事をする」

『遅い』

「遅いことを理由に、いない者を賛成へ数えない」

 ニアの言葉は、かつてより遅い。

 触覚のない手で資料を持ち替えるたび、目で位置を確認するからである。

 その遅さを、周囲が勝手に慎重さという美徳へ変えるべきではない。

 痛みと不自由は、人格の成長証明ではない。

「手伝う」とエメ。

「何を」

『札をめくる』

「判断はしない?」

『めくるだけ』

「頼む」

 ニアは助けを受ける。

 それも、以前ならしなかった動作だった。

 エメの遠隔把持具が一枚ずつ札をめくる。ニアが読む。バズが現場へ戻す。

 三人は仲良くない。

 エメはニアを赦していない。

 バズは彼女の判断速度を信用していない。

 ニアは二人の感情を改善計画へ入れない。

 それでも当番は回る。

「次」とニア。

『ソウジ測量艇の航跡資料、公開要求七件』

「本人逃亡中。資料は」

『複写済み。ただし星位暗号が二割』

「解読を始める。公開できない部分は、非公開理由と解除条件を併記」

『父親だから優先?』バズ。

「境界事故の実行資料だから」

『ハルへの連絡は』

「七日後の定時報告。緊急ではない」

『姉弟の工具明細と同じ便』

「送料を分けない」

『倹約』

「会計」

 英雄の仕事は、危機の瞬間だけを切り取れば美しい。

 だが危機の後に残るのは、札をめくる者、連絡を待つ者、解体を保留する者、送料を一便へまとめる者である。

 世界は、そういう細い仕事で、もう一度壊れないよう縫い直されていく。

 六時間後、主任席の任期が切れた。

 ニアは再任へ自分で投票しない。

 現場鍵はエメ。

 構造鍵はバズ。

 記録鍵は外縁居住船の当番。

 三者は、別の者を次の主任へ選んだ。

 ニアは異議を出さない。

「不満」とエメ。

「ある」

『従う?』

「決定に従う。監査は続ける」

 役職を失うことと、声を失うことを分ける。

 それが、彼女が逆潮へ残って最初に行った、小さな切断だった。

 出航前、潮骨笛の方位検査が行われる。

 北。

 東。

 南。

 西。

 六孔は、それぞれ違う調子で鳴る。

 北西へ向けた時だけ、無音。

 鳴らないのではない。

 周囲の風車、圧力計、呼吸の音まで一瞬薄くなる。

 エリアが路図を伸ばす。

 淡緑の線は、二百メートル先で色を失った。

「停止」とニア。

 路図を切る。

「故障?」バズ。

「他方位では鳴る」とロロ。

「今は、無音方位とだけ記録」とセレナ。

 その方角の正体を知る者は、その場にいなかった。

 監査記録には、その時に見えた事実だけが残された。

 ゼロスター号が逆潮を離れる。

 潮骨笛は残る。

 ニアも残る。

 船を降りても、ニアの時間は終わらない。

 翌朝、彼女には大径管の解体と、審理資料の整理と、再診がある。

 その翌日にはエメとの圧力監査、バズの安全教育、ロロへ送る見積り。

 英雄の凱旋ではなく、当番表がある。

 続く生活とは、たいてい当番表の形をしている。

 出航から一時間後、ロロは星脈炉を止めた。

 故障ではない。

「無誓式航行訓練!」

「今?」カイル。

「事故の翌日以外、いつやる」

「身体が痛い翌日!」

「だから全力作業をしない手順を作る!」

 誓星術を使わず、十五分だけ船を維持する。

 星脈炉は待機。

 路図は紙。

 王盾炎は使わない。

 証羽はしまう。

 零星針は方角計に含めない。

 帆の角度は目盛板。

 速度は流し木と砂時計。

 高度は気圧管。

 連絡は真鍮鐘と手旗。

「古い」とカイル。

「古い仕組みは、魔法が消えても古いまま動く」とロロ。

「新しい仕組みは?」

「魔法が消えると、急に置物になる」

 エリアは地図槍を背へ固定し、紙地図の角を四箇所留める。

「風向、目視」

「雲が三層」とハル。

「上、白。中、灰。下、逆潮の黒。どれを風向にする」

「帆が受けている層」

「どう見る」

 ハルは配達伝票を一枚、空へ放る。

 紙は右へ飛び、すぐ下へ落ちた。

「上層、右。船の高さでは下向き」

「伝票一枚、損耗」とロロ。

「訓練費」

「共同?」

「船費」

「勝手に分類するな!」

 セレナは手旗の意味を読み上げる。

 赤一回、停止。

 赤二回、医療。

 黄一回、進路変更。

 黄二回、聞こえない。

 白一回、確認。

 白を振り続ける、意味不明。

「意味不明にも信号がある」とハル。

「分からない時、分かったふりをしないためです」

 カイルが舵輪を手で回す。

 肋部へ力がかかる前に、ハルと交代する。

 ハルの左肩へ負荷が来る前に、足踏み補助へ切り替える。

 エリアは呼吸を数えながら方眼へ線を引く。

 ロロは二本の補助腕を動かさず、指示だけに徹する。

 十五分。

 ゼロスター号は遅くなった。

 高度を十二メートル失った。

 進路は三度ずれた。

 それでも落ちなかった。

「成功?」カイル。

「失敗込みで成立」とロロ。「次は高度損失八以内。人員交代を二分早く」

「魔法が戻ったら、この訓練いらない?」

「戻ったから要る。使えるものへ頼りすぎてる時に、使えない手を覚える」

 星脈炉を再起動する。

 音が戻る。

 誰も、その音が消える方角へ船が引かれているとは、まだ知らない。

 出航から三時間後。

 片帆が北西へ引かれた。

「学院路から外れる!」エリア。

 路図を伸ばす。

 淡緑の線が、船首で色を失う。

 星脈炉の音が消える。

 カイルの王盾炎が点かない。

 セレナの証羽がただの羽になる。

 ロロの再機輪から残響が消える。

 ハルの零星針は、空白さえ指さない。

 ゼロスター号の全ての誓星術が、一瞬で消えた。

「術を使えない空白域〈ノー・スター〉

「仮称」とセレナ。

「原因」とカイル。

「不明」

「範囲」

「不明」

「敵」

「不明」

「言えること少ない!」

「少ない時に増やさない」とハル。

 船はすぐには落ちない。

 片帆の物理揚力。

 手動索。

 ロロが旅の各地で増やした非誓式の補助具。

「手動飛行へ!」

 星脈炉を機械駆動へ切り替える。

 紙地図を甲板へ留める。

 真鍮鐘を鳴らし、手旗を振る。

 魔法が消えても、旅の全部が消えるわけではない。

 前方の雲が、色を失う。

 白でも灰でもない。

 赤、青、緑という区別そのものが遠くなる。

 色のない地平。

 そこに、国がある。

 城壁のような直線。

 旗のような布。

 塔のような影。

 どれにも色がない。

「国?」カイル。

「そう見える」とセレナ。

「戻れる?」ハル。

 エリアは魔法の出ない槍を置き、配達用の紙地図を広げる。

「今いる場所を、手で描く」

「帰路は」

「まだない」

「戻り道は」

「まだない」

「じゃあ」

「作る」

 鉛筆で最初の線を引く。

 風向。

 帆の角度。

 重力。

 速度。

 時刻。

「ハル、時計」

「午後四時十二分」

「カイル、手動速度」

「十二ノット。落下率〇・四」

「ロロ、炉」

「機械出力四十二。十五分!」

「セレナ、見えたもの」

「色のない国。距離、推定不能。塔影七。動体、未確認」

「書く」

 分からないものを、分からないまま。

 ハルは船首へ立つ。

 左肩は三。

 魔法はない。

 零星針は動かない。

 それでも三つ数える。

「一」

 跳ぶためではない。

「二」

 帰るためでもない。

「三」

 今いる場所を、仲間と同じ時刻にするために。

 ゼロスター号は、色のない国を前に、手動帆を開いた。

 その国で何が待つかは、まだ誰も知らない。

 見えているのは、一つだけ。

 魔法が消える方角に、国がある。