第695話 第十二章「魔法が消える方角」前編

国境が初めて開いた日を、国は祝日にしたがる。

 橋が架かった日。

 門が開いた日。

 最初の船が着いた日。

 碑文には王や提督や発明家の名が刻まれ、後世の子供は、世界が一人の決断でつながったように教わる。

 だが、二つの世界が初めて安全に触れた日、通ったのは人ではなかった。

 滅菌した箱一つ。

 金属片三枚。

 そして、停止条件を何度も読み上げる声だった。

 その慎重さを臆病と呼べるのは、その慎重さによって生き残った者だけである。

【現実/境界事故停止から十三分後/ゼロスター号・仮設医務甲板/覚醒】

「全員、口を閉じて」

 セレナが言った。

 誰も閉じなかった。

「右手が痺れる」ロロ。

「両手が触れない」とニア。

「左肩」とハル。

「両踵、左肺」とエリア。

「肋骨」とカイル。

「星酔い」とソウジ。

「父さんは何で患者列に並んでる!」

「怪我をしたから」とセレナ。

「計画を強行した直後だぞ!」

「責任追及は治療後。治療は免責ではない」

「順番が正しいの腹立つ!」

 セレナは右手首を固定したまま、左眼を閉じる。見聞きした事実を記録する羽〈テスタ・フェザー〉は使わない。

 今必要なのは嘘を見つける羽ではなく、腫れ、呼吸音、握力、反応時間を測る器具である。

「ハル。肩、静止時」

「三」

「動かした時」

「六」

「全力跳躍」

「二回半」

「三回」とエリア。

「途中で索に拾われた」

「半分の跳躍はない。二十四時間、全力使用禁止」

「危機が来たら」

「危機へ肩の予定を合わせない」

 エリアは自分から申告する。

「右踵四、左五、呼吸三。路図は十秒まで」

「十秒も禁止」とセレナ。

「地図を使わない会議?」

「紙を使う」

「私の存在を紙へ縮めないで」

「では休む」

「紙でいい」

 ロロは二本の補助腕を外され、右手を温熱袋へ入れられる。

「三番腕は棚にある」と彼は言う。

「未整備。装着禁止」

「見ただけ」

「視線が装着計画」

 ニアの両手は白い固定具の中にある。

「右触覚零、左零。位置覚、右三、左四。握力、右五、左四」

「作業復帰時刻」

「未定」

「計画不能」

「身体を計画へ従わせない」

 ニアは反論しない。

 触れない両手を見ている。

 握ることはできる。力計を見れば、離すこともできる。だが、握ったものが温かいか、尖っているか、誰の手かは分からない。

「ロロ。工具の傷」

「記録した。修理費は共同作業費」

「割合」

「あとで揉める」

「受領」

 姉弟の会話は謝罪ではない。抱擁でもない。

 次に話す理由を、修理費という形で残した。

 ソウジの番になる。

「星酔い五。左義手接合部、裂傷二」と本人。

「自分で診断しない」とセレナ。

「測定した」

「診断は私。三時間、星位計測禁止」

「境界が残っている」

「だから会議をする」とハル。「父さん一人の測定器を、三つの世界の監視に使わない」

「地球側の機器は粗い」

「粗いから勝手に代わるのか」

「事故を待つのか」

「一人で待たない。一人で開けない。一人で監視しない」

 返事をしないことを、同意とは数えない。

 セレナは医務甲板の壁へ紙を貼った。

「会議参加者。地球側沿岸警備艇、逆潮側オルロイ号、第五切断艦、ゼロスター号。測量艇は制御権なしで計測のみ。異議は」

「ある」とソウジ。

「記録」

「却下では」

「異議があるまま開始する。危機下の暫定会議だから」

「それも危険だ」

「だから終了時刻を先に決める」とニア。

 暫定試験は一時間。

 生体通過なし。

 最大質量五十キログラム。

 入口と出口を別々に監視する。

 地球側海面変動二センチ、逆潮側圧痛六、ゼロスター号の重力偏差〇・〇三で停止。

 さらに、鏡砂環のユノと夢灯都市のソムナから届いた伝羽が、許可を六つへ分けた。

 接続。

 通過。

 閲覧。

 継続。

 撤回。

 再参加。

「一度つないだから、通ってよいことにはしない」とエリア。

「通ったから、残ってよいことにも」とハル。

「帰りたいと言ったから、今日帰ることに同意したとも扱わない」とセレナ。

 ハルの胸へ、その一文が入る。

 帰りたい。

 今すぐ片道で帰るとは言っていない。

 戻れない道へ入るとも言っていない。

 エリアは紙地図へ八つの空欄を描いた。

 入口。

 出口。

 開始。

 終了。

 流量。

 停止。

 保留。

 再入。

「名前がいる」とカイル。

「名前をつけると固まる」とエリア。

「呼べない」

「長い名前」とハル。

「どれくらい」

 彼は、見えなくなった地球の灯台を思う。

「帰る道と戻る道を選び直す約束〈リルート〉

「長い」とカイル。

「ルビは短い」とロロ。

 約束は、永遠に守る言葉ではない。

 守れなくなった時、誰が、どう止め、どう選び直すかを先に決める言葉である。

「採用は暫定」とニア。

「全部暫定?」

「全部」

「俺たちの関係も?」ロロ。

「更新条件あり」

「期限」

「七日。工具傷の明細を送る」

「家族連絡に請求書を使うな」

「実費」

「そこが姉!」

 暫定会議は、最初に何を通すかで止まった。

 地球側は、人命確認を求めた。

『凪野ハル本人の帰還または、少なくとも医療者による対面確認を希望する』

 逆潮側は、圧力計の交換を求めた。

『旧式計器では出口流量を毎秒測れない。精密計器を一台』

 アステリア側の王都は、救援物資を送ると言った。

『境界事故で損傷した地球船へ、星帆布と浮力樹脂を提供する』

「全部、理由は正しい」とカイル。

「正しいものが三つある時、王子は何をする」とハル。

「以前なら優先順位を決めた」

「今は」

「決める権限が私にないことを発表する」

「発表だけ?」

「次に、決め方を提案する」

 カイルは紙へ三列を作った。

 今通さなければ失われるもの。

 代替手段があるもの。

 通した時に新しく生まれる危険。

 ハル本人の帰還は、重要である。

 だが今すぐでなければ命が失われるわけではない。音声による本人確認はできる。人体通過には未検証の危険がある。

 精密圧力計は、事故予防へ直結する。

 ただし地球側機器の規格が境界内で動く保証はない。送るなら無人箱で試せる。

 星帆布と浮力樹脂は、地球船の被害状況が不明であり、相手が受け取れる材質かも分からない。贈る善意が、検疫と処分の負担になる可能性もある。

「贈り物が迷惑」とカイル。

「王家には珍しい発見?」ハル。

「耳が痛い」

「肋骨も?」セレナ。

「今のは比喩」

「痛みの比喩で身体報告を混乱させないでください」

「会話に診療規則が多い!」

 地球側の警備艇が提案する。

『まず、互いの規格を示す無菌試験片。人員、薬品、生物、食品は除外。試験終了後、道を閉じ、再開には改めて全側確認』

「向こうも同じ所へ来た」とエリア。

「こっちの条文は届いてない」とハル。

「別々に考えて同じ条件へ来たなら、共有できる」セレナ。

「同じ答えだから正しい?」

「違います。異なる側が同じ危険を見つけたという証拠が増えただけ」

 逆潮側も同意する。

『試験片の往復後、一度完全閉鎖。閉鎖確認を三側で行う』

 第五切断艦は条件を追加した。

『試験中、本艦は切断砲の発射準備を解除しない。ただし停止条件に達しない限り発射しない』

「武器を下ろさない」とハル。

『本艦が武器を下ろすことは、境界が安全になったことを意味しない』

「じゃ、こっちも信用しない」

『要求していない』

「でも条件は共有する」

『それでよい』

 信頼がなくても、同じ停止条件を持つことはできる。

 むしろ信頼できない相手との間にこそ、相手を好きにならなくても使える停止装置が要る。

「最初の荷は、金属片三枚」とエリア。

「人でも手紙でもなく」ハル。

「人を通さないことが、今の人命優先」

「帰還を後回しにされた感じ、少しする」

「する、と記録する」セレナ。

「反対じゃない」

「反対でなくても、負担は負担です」

 ハルは紙へ自分で書いた。

【帰還希望あり。ただし人体未検証のため、現試験では通過しないことに同意。後の帰還同意を意味しない。】

「長い」と彼。

「短くしてもいい」とエリア。

「やだ。今は長い方が俺」

 その一文が、最初の金属箱の横へ置かれた。

 最初に通したのは、滅菌した透明箱だった。

 地球側の硬貨。

 逆潮側の弁座片。

 アステリアの星帆船用リベット。

 三枚の金属を入れ、質量二・三〇一キログラムと記録する。

「文化がない」とカイル。

「検疫」とセレナ。

「菓子は」

「次回」

「異世界交流が金属片三枚!」

「地味な方が安全」とロロ。

 開始条件を読み上げる。

 潮骨笛が小さく鳴る。

 透明箱が逆潮側の入口へ入り、地球側警備艇の甲板へ出た。

『到着。質量二・三〇一。温度十四・八。破損なし』

「戻す」とエメ。

『復路条件を再確認する』

「往路の許可は復路の許可じゃない」とセレナ。

「毎回長い」とハル。

「長さが安全」とニア。

 復路の条件を読み直す。

 箱が戻る。

 質量は消えていない。

 重力方向と流体の入口が切り替わっただけである。

 恒久接続をしなくても、限られた入口と、別の出口と、終わる時刻を組み合わせれば、往復はできる。

 ただし、人は通していない。

 人の身体は箱より重い。

 病原条件も、意志も、戻る理由もある。

 箱が通ったから人が通れる、と飛躍しないことが、最初の成功だった。

 成功を確認した直後、エリアは入口線を閉じた。

「まだ試験時間、四十三分」とカイル。

「一度閉じる条件」

「安定してるのに?」

「安定している時に閉じられない仕組みは、危険になった時にも閉じられない」

 地球側が閉鎖を確認する。

 逆潮側が流量零を読む。

 第五切断艦が固定杭の反応停止を記録する。

 誰も、続けた方が便利だとは言わない。

 便利さは、自動延長の最も柔らかい名前だからである。

「再開する?」ハル。

「必要をもう一度聞く」とセレナ。

 地球側は、録音受領のため通信窓だけを求める。

 逆潮側は、圧力記録の複写を求める。

 アステリア側は、物質通過を求めない。

「さっきと違う」とハル。

「一度開いた道が、全部の希望を大きくしたわけじゃない」とエリア。

「閉じたから、必要な線だけ言い直せた」

「再開は第四線のみ。三分。音声と低容量記録。自動延長なし」

 全側が確認する。

 通信窓だけが開いた。

 道は、開いたまま守るものではない。

 必要なたびに、何のために開くかを言い直すことで、ようやく道であり続ける。

「地球側」とハル。

『聞こえている』

「家族へ録音を送れる?」

 医務甲板が静かになる。

『到達は保証できない。警察・自治体の確認を経る。録音なら預かる』

 ハルは日本語で言った。

「凪野ハルです。生きています」

 一度、息が止まる。

「帰りたいです。でも、帰れる日をまだ言えません。今すぐ帰る約束もできません。帰ったら二度と戻れない道には、今は入りません」

 母の店の二階。

 机の引き出し。

 配達の失敗代を入れた封筒。

 そんな細部を言う。

 本人だと確かめるためであり、世界を越えて最初に伝えたいことが、壮大な使命ではなく生活だったからでもある。

「俺は生きています。こっちに仲間がいます。父さんにも会いました。父さんが生きてることと、帰ってこなかったことは、別々に話します。毎月一度、届くか分からなくても連絡します。届かなかった月を、死亡と決めないでください」

 録音を止める。

 地球側が受領番号を送る。

「父さんも」とハル。

 ソウジはすぐには応じない。

「資料を整えてから」

「整った説明しか渡さないから十五年黙った」

「不完全な説明は期待を」

「不完全だって言って渡せ!」

 長い沈黙の後、ソウジは録音器へ向く。

「凪野ソウジです。生きています。十五年前、事故の調査から帰還せず、連絡を断ちました。事故だけが理由ではありません。目的を優先し、説明を後回しにしました」

 左義手が寝台の縁を握る。

「現在、直ちに帰還しません。帰還できないのではなく、残る判断をしています。家族へ待つことを要求しません。ナツミ。生存だけを先に伝える。すまない」

 短い。

 短いから十分ではない。

 十分でない言葉でも、無言より先へ進むことはある。

 二本の録音が地球側へ渡る。

 質量はほとんどない。

 重さは計れないほどある。

 試験路が閉じる前、潮骨笛の保管条件が決められた。

 王都の第一天鍵。

 翠獣環の王獣鈴。

 鏡砂環の双界鏡。

 雷鎖環の天雷錨。

 夢灯都市の夢灯籠。

 五つが遠隔で一度ずつ応答し、潮骨笛の六孔が順に鳴る。

「第六の天鍵」とエリア。

 重力を吹き替える骨笛〈タイド・ボーン〉

 ハルたちは持ち帰らない。

 逆潮外縁の第零監査台へ置く。ただし逆潮の所有物とはしない。

 構造、現場、記録の三鍵。

 地球、逆潮、アステリアへ同時複写。

 修理者を保管者にしない。

 王家の宝物庫にも、終端議会の兵器庫にも入れない。

「完璧じゃない」とハル。

「完璧な保管は、完璧な管理者を必要とする」とニア。「完璧な管理者は止めにくい」

 透明な監査筒へ収められる。

 隠さない。

 誰か一人のものにしない。

 天鍵を集めれば世界が救われる、という単純な制度にはしない。