第694話 第十一章「工具を交換する姉弟」後編
「私には見える」
「触覚零で?」
「目は残った」
「距離」
「作業籠から十九・四メートル。刃は届かない」
「線は、潮骨笛を通る?」
「通る。方向孔と出口孔の間を横断」
ロロが息を呑む。
「骨の中で切るのか」
「線だけ」
「失敗すれば方向孔」
「世界の上下が、もう一度入れ替わる」
「それを平然と言うな!」
「平然ではない」
「顔が!」
「顔は昔から」
「それが腹立つ!」
ニアは黒い断層楔を見た。
それは今、ロロの手にある。
「返して」
「交換の途中」
「私が切る」
「俺が持ったまま、おまえが声で切れ」
「能力は私から刃へ通す」
「柄に触れれば」
「触覚はない」
「接触はできる」
「あなたの手の上へ、私の手を置く」
「家族だからじゃない」
「作業姿勢として」
「条件」
「あなたは私の指示を拒否できる。私もあなたの手を離せる。どちらか一方で停止」
「受領」
ロロは断層楔の柄を右ではなく左へ持ち替えた。
右手の痺れは四。
左手はまだ動く。
ニアがその上へ左手を置く。
何も感じない。
弟の手の温度も。
震えも。
十五年ぶりというだけで、勝手に生まれるはずの親密な感触も。
だから、声で確かめる。
「握っている?」
「握ってる」
「私の手は」
「柄の中央。親指が俺の人差し指へ少し乗ってる」
「痛い?」
「二」
「位置をずらす」
「〇・四上」
「上は」
「今の床基準!」
「了解」
ニアが手をずらす。
「痛み」
「〇・五」
「作業可能」
「可能」
『切断砲、〇・七』セレナ。
「三鍵を取り直す」とニア。
「さっきの鍵では?」ハル。
「対象が違う」
それが、権限を分けるということである。
一度許された者が、近くにある次のものまで切ってよいわけではない。
危機が続いているからといって、同意が自動で延長されるわけでもない。
非常時、人間は時間を節約するために権限をまとめる。
まとめた権限は、危機が終わった後も、自分を必要とする新しい危機を探す。
ゆえに三鍵は、面倒でなければならない。
「構造鍵」とエリア。
路図が砲線を三層へ分けて表示する。
『白外縁は伝播面。灰中層は切断結果。黒芯は対象結合。切るなら黒芯だけ。幅〇・〇二。方向孔から〇・一二離れる』
「現場鍵」とエメ。
『切り離した砲撃の逃がし先、逆潮外縁・旧固定輪三号。十五年前から使用停止。居住、航路、墓域、採取域なし。地球側警備艇にも確認を求める』
通信に、地球側の声が入る。
『こちら沿岸警備艇。指定方位、レーダー上船舶なし。海底設備なし。ただし、そちらの“逆潮外縁”は当方から観測不能。保証はできない』
「保証できないを受領」とセレナ。
『現場鍵は二者。逆潮側エメ、地球側警備艇。観測不能範囲を明記』
「記録鍵」
『私、セレナ・アークレイ。切断対象、対象結合一本。失敗時、方向孔損傷の可能性。実行後も砲撃を発した側、常設路を起動した側、修理を行う側の責任を相殺しない。公開記録を開始』
「実行者、ニア・ピクス。ただし操作はロロ・ピクスと共同」
「作業者、ロロ・ピクス。拒否権あり」
「拒否する?」
「今はしない」
「私も」
「開始」
白線が、骨笛へ触れた。
空が鳴らない。
海が裂ける。
ロロの左手へ、ニアの左手が重なる。
「刃先、右へ〇・〇三」とニア。
「骨基準?」
「骨基準」
「進める」
「停止」
「まだ〇・〇一しか」
「砲線が動いた」
「動くの!?」
「潮刻で対象位置が変わる」
「動く髪の毛を、痺れた手で切れって?」
「私も触覚零」
「張り合うな!」
「条件共有」
「言い方!」
砲線が方向孔の縁へ寄る。
「待つ」とニア。
「何秒」
「〇・二」
「短い!」
「待って」
〇・二秒。
潮刻が反転する。
黒芯が出口孔側へ戻る。
「今。右〇・〇一。刃圧〇・二」
ロロが押す。
「圧〇・二」
「あと〇・〇五」
「手が開く」
「補助腕」
「圧計を外す」
「外して」
左下補助腕が圧計を放し、ロロの左手首をつかむ。
手を強くするのではない。
開いてしまうのを遅らせる。
「続行」
「右〇・〇〇五」
「見えない!」
「私が見る」
「俺が動かす」
「そう」
「それを忘れるな」
「忘れない」
「十五年後に言うな」
ニアの声が一度だけ途切れる。
「今、言う。忘れない」
ロロは刃を動かした。
黒芯へ入る。
ニアの能力が、再び起動する。
荷重線を一本だけ切る術〈カットオフ〉。
大きなものを切るほど、強い術ではない。
切るべきものを小さく定義し、その外側を切らずに済ませるほど、難しい術である。
黒芯に、隙間が入る。
切断砲が、地球側境界根を見失った。
白線は消えない。
切るという結果だけが、対象を失って空白へ走る。
『対象結合、離脱!』セレナ。
「逃がし先!」ニア。
『旧固定輪三号へ路図接続!』エリア。
白線が曲がる。
切断砲は直線ではない。
何を切るかという法的な、構造的な、魔術的な関係へ沿って進む。
地球側根との関係を切られ、代わりに無人の旧固定輪へ「切断対象」と書かれた瞬間、白線は九十度折れた。
旧固定輪が、巨大落水柱の外で光る。
十五年前、空域を固定するために打たれ、役目を終え、誰にも使われていなかった鉄輪。
白線がそこへ届く。
輪が、音もなく二つになった。
それだけだった。
世界は切れない。
地球の海も切れない。
逆潮も切れない。
使用停止の鉄輪が、二つに分かれて落ちる。
『砲撃、処理!』セレナ。
「海流!」エメ。
人は、攻撃を避けると安心する。
災害は、その安心を待ってから本番を始める。
切断砲によって二つへ割れた巨大落水柱が、行き先を失った。
一方は地球海へ落ちようとする。
もう一方はアステリア雲海へ上がろうとする。
その間に、ソウジ艇、第五切断艦、ゼロスター号、オルロイ号がある。
「入口流量、二千八百!」エリア。
「出口容量は!」ハル。
「修理が半歯! 六百!」ロロ。
「足りない!」
「知ってる!」
「増やす!」ソウジ。
「大径は駄目!」ハル。
「出口だけだ」
「三鍵!」
「今取っている時間が」
「取る!」
「では言え」
ソウジの声に、苛立ちと、奇妙な従順さが同居した。
「構造鍵!」エリア。
『出口弁は半歯開放。流量上限六百。ソウジ艇の圧力喉を二割絞り、流量孔を三分割すれば、第一流を出口へ、第二流を地球海へ返送、第三流を雲海へ返送できる。ただし三流の時間差〇・四秒以内』
「現場鍵!」エメ。
『逆潮側、三流受入れ可能。地球側確認を』
『沿岸警備艇。こちらの海面上昇、毎秒三センチ。返送を受ける。開始時刻と量を告知せよ』
『雲海側、ゼロスター号下方に無人落水域を確保!』カイル。
「記録鍵!」セレナ。
『三流分離。人、船、居住区を流量として扱わない。船体接触時は即時停止。開始責任者はエリア、現場責任者エメ、地球側警備艇、雲海側カイル。圧力操作ソウジ。方向保持ハル。出口弁ロロ、ニア。全員に停止権』
「開始!」
後世の壁画は、世界を救う号令を一人の口へ集めたがる。
実際には、開始の声が多すぎて少し不格好になる。
「開始!」ハル。
「開始!」エリア。
『開始!』エメ。
『開始』地球側警備艇。
「開始!」ロロ。
「開始」とニア。
「開始する」ソウジ。
潮骨笛が鳴った。
音は一つではない。
六孔が、六つの条件を別々に吹く。
入口。
出口。
重力方向。
時間。
流量。
撤回。
ソウジが圧力喉を絞る。
ハルは方向枠へ身体を預ける。
左肩で押さない。
腰帯を二重に掛け、両脚で枠を回す。
「右三度!」エリア。
「誰の右!」ハル。
「地球の空を上とする右!」
「今、地球の空が横!」
「灯台を十二時! 二時方向!」
「それなら分かる!」
枠を二時へ。
ソウジの左義手が圧力管をつかむ。
星晶の指が軋む。
「圧、七・二」とソウジ。
「六・八へ!」ロロ。
「六・八では第二流が逆流」
「六・九!」エリア。
「妥協が速い!」ハル。
「数字は口喧嘩しない!」
「数字を口喧嘩に使う人はいる!」
六・九。
第一流が、修復された出口へ入る。
白い水が骨笛の中を通り、逆潮外縁へ出る。
消えない。
遠くへ捨てられもしない。
逆重力を一度与えられ、古い水路を通り、元の逆潮へ戻る。
第二流が地球海へ。
巨大落水柱の一部が、空へ落ちるのをやめる。
雨になって海面へ戻る。
第三流が雲海へ。
白い滝が、アステリアの雲へ細くほどける。
「時間差〇・六!」セレナ。
「遅い!」エリア。
「出口弁、あと〇・一歯!」ロロ。
「再機は一動作だけ」とニア。
「復元じゃない。今の俺たちが普通に回す!」
「私の手は」
「握ってる。力は五」
「あなたの左」
「開き始めた」
「補助腕」
「手首固定中」
「二人で」
「家族だからじゃない」
「作業人数として」
「そう!」
ニアの手は、工具を感じない。
ロロの手も、工具を保てない。
二人は声で一つの回転を作る。
「一ミリ」ロロ。
「動かす」
「止め」
「停止」
「圧」
「出口五・八」エリア。
「半ミリ」
「動かす」
「止め!」
「停止」
「流量」
「七百二十!」
「もう半ミリ!」
「弁軸が歪む」ニア。
「どっち」
「細端から太端へ〇・〇三」
「逆へ押す」
「補助腕空きなし」
「俺の額!」
「頭部を工具にするな」
「今だけ!」
ロロは額を弁枠へ押し当てる。
ニアが工具を半ミリ回す。
弁が、さらに開く。
流量、八百六十。
「三流差〇・三九!」セレナ。
「範囲!」エリア。
巨大落水柱が、三つの細い流れへ分かれる。
空はまだ一つに混じっている。
だが、混じる速度が落ちた。
地球の青。
逆潮の白。
アステリアの金。
三色が、ゆっくり離れていく。
そこで第五切断艦の女艦長が通信へ入った。
『本艦、最終弾の消失を確認。次射なし』
「最初から撃つな!」ハル。
『それは結果を知った者の要求だ』
「撃った責任は結果を知らなくてもある!」
『受領する。今、何をすればよい』
謝罪ではない。
免責でもない。
次の作業を訊いた。
危機の最中、正しい順序である。
「固定杭二番の手動解放!」エリア。
『解放すれば本艦が流される』
「その杭が第二流を地球側へ引いてる!」
『乗員退避に三十秒』
「二十秒で海面上昇が停止条件!」
『二十秒で行う』
「艦長!」
『何だ』
「乗員を置いていくな!」
『命令するな』
「頼む!」
女艦長は、一拍だけ黙った。
『全乗員、命綱二重。杭解放後、本艦はゼロスター号の右舷索を借りる』
「貸す!」カイル。
『返却条件』
「生きて返す!」
『曖昧だな』
「今はそれで!」
『受領』
第五切断艦の側面で、人影が走る。
自分たちが撃った砲の後始末をする。
それは英雄ではない。
当然である。
当然のことを、命を懸けて行わなければならない制度を作った者は、後で問われる。
今は、乗員を生かす。
「杭解放!」
白い固定杭が外れる。
艦が逆さへ流れる。
ゼロスター号の右舷索が伸びる。
カイルは王盾を使わない。
右腕でも引かない。
「三番帆、手動! 俺の号令じゃない、索員の計測で回せ!」
甲板の航海員たちが、三つの巻胴を別々に回す。
「右巻胴、二!」
「中央、一!」
「左、待て!」
王子が一人で船を救ったのではない。
索員が索を測り、帆員が帆を畳み、船底員が圧を逃がした。
歴史書は、王の名を一行で書き、索員の名を省く。
船は、省かれた者の手数で浮く。
第五切断艦が、ゼロスター号の横へ寄る。
第二流の引きが弱まる。
「時間差〇・二!」セレナ。
「安定!」エリア。
逆潮外縁で、戻された水が巨大な輪を作る。
地球側では、雨が海へ落ちる。
アステリア側では、白い雲がほどける。
潮骨笛の音が、一つずつ消えていく。
入口孔。
流量孔。
重力方向孔。
時間孔。
最後まで鳴っていたのは、出口孔だった。
出たものが戻り切るまで、閉じない。
「残量」ハル。
「三百」エリア。
「二百」セレナ。
「百二十」ロロ。
「六十」ニア。
「零」とソウジ。
出口孔が、低く鳴って止まる。
空が、二つに分かれた。
地球の海と空。
アステリアの雲海と星なき天井。
完全には閉じない。
潮骨笛の六孔のうち、入口と出口の間に、針より細い光が残る。
通路ではない。
通信と計測だけを通せる試験線。
「閉じる?」ソウジ。
「今は閉じない」とハル。
「なぜ」
「地球側と相談する。逆潮とも。アステリアとも。俺たちだけで決めない」
「不安定だ」
「だから監視する」
「常設路より危険が残る」
「常設路より、止められる」
ソウジは、潮骨笛を見る。
自分が永久に開こうとした道。
息子が細く残した、いつでも止めるための道。
どちらが勇敢か、歴史は後から簡単に決める。
その場にいた者は、勇敢さではなく、止められるかどうかを選んだ。
移動作業籠では、ロロとニアが、まだ工具を交換したままだった。
「返す」とニア。
「待て」
「作業終了」
「検査前」
「工具の?」
「工具と、手」
ロロはニアの右手を見る。
「握力」
「右五、左四」
「開いて」
ニアは開こうとする。
右手が〇・四秒遅れる。
左手が〇・七秒遅れる。
「戻り遅い」
「触覚零」
「肘」
「右三、左四」
「肩」
「両方六」
「能力反動、手だけじゃない」
「記録」
セレナが受ける。
『記録。ニア・ピクス、両手触覚零。前腕位置覚、右三、左四。握力低下。医療固定まで工具保持禁止』
「工具を持っている」とニア。
「だから俺が外す」
「同意」
「指一本ずつ」
「声で」
「親指、開く」
「開いた?」
「半分。あと」
「力を抜く」
「抜けた」
ロロは、ニアの右手から自分の再機輪を外す。
取り返すのではない。
返却を手伝う。
次に、ニアはロロの左手から断層楔を外そうとする。
「俺、開けない」とロロ。
「左も?」
「痺れじゃない。握り込み」
「補助腕で」
「一本ずつ」
ニアの両手は役に立たない。
右上補助腕を、ロロ自身が音声で操作する。
「小指」ニア。
「補助腕、指一本へ使うの贅沢」
「落とすより安い」
「金銭感覚は正しい」
「薬指」
「開いた」
「中指」
「痛み二」
「止める?」
「続ける」
「人差し指」
「開いた」
「親指」
「固い」
「待つ」
「時間ある?」
「今は、待つ時間」
弟は、姉の言葉を聞いた。
危機が終わった直後、人は急いで元へ戻ろうとする。
道具を。
関係を。
役割を。
だが、急いで返すと、相手の指を傷つけることがある。
ロロは三秒待つ。
「親指、今」ニア。
補助腕が、ゆっくり開く。
断層楔が外れる。
「返却完了」とロロ。
「受領」とニア。
「傷」
「刃先〇・〇一欠け」
「俺の工具」
「二歯目に新しい圧痕」
「修理費」
「共同作業費へ」
「半分ずつ?」
「使った割合で」
「細かい!」
「公平」
「公平は細かい!」
「知っている」
ニアは断層楔を鞘へ入れられない。
ロロが入れる。
ロロは再機輪を腰箱へ戻せない。
ニアが透明な固定皿ごと持ち上げ、腰箱の受け口へ滑らせる。
触覚はない。目盛りと位置覚だけで、工具を落とさず戻す。
二人は、互いの工具を返した。
十五年を返しはしない。
家族を元へ戻しもしない。
ただ、借りたものを、傷を記録して返した。
信頼という大きすぎる言葉の代わりに、次の作業で使える小さな事実が残った。
「次」とロロ。
「何」
「医務室」
「あなたが先」
「おまえが両手零!」
「あなたは右手四、額に圧痕」
「額は元から丈夫!」
「医学的根拠」
「姉より!」
「比較対象が不適切」
「喧嘩できるなら二人とも搬送可能」とセレナ。
「喧嘩ではない」とニア。
「整備会話!」ロロ。
『分類は後で。作業籠を回収します』
籠がゼロスター号へ引かれる。
背後で、二つの空の境界が細い線になる。
白い砲撃は、無人の鉄輪だけを切った。
混じった海は、三つの出口へ戻った。
潮骨笛は、入口を一つだけ残した。
世界は救われた、と言うには、まだ線が残っている。
世界は切れた、と言うには、通信が通っている。
だからセレナは、記録へこう書いた。
――二世界間境界事故、中心危機は停止。
――完全閉鎖ではない。
――完全接続でもない。
――次の判断は、関係者の合議を要する。
終わった、と書かない記録が、いちばん正確な終わり方だった。