第693話 第十一章「工具を交換する姉弟」前編
工具を貸すことは、武器を貸すことより難しい。
武器は、相手へ向けて使うものだと誰もが知っている。
工具は、直すために使える。
壊すためにも使える。
直したつもりで、前の持ち主が残した工夫を消すこともできる。
壊したつもりで、閉じ込められていた動きを戻すこともできる。
使う者の善意だけでは、結果を決められない。
だから工匠は、工具へ名前をつける。
癖を覚える。
貸した日を覚える。
返ってきた傷を見る。
家族へ工具を渡す時、人は家族だから信じるのではない。
家族であっても、間違えた手を止められる距離にいると確認してから渡すのである。
【現実/巨大落水柱内周・移動作業籠/覚醒/最終切断砲到達まで二・八秒】
白い線が来る。
「速い!」ハル。
「砲だから!」ロロ。
「説明が短い!」
「時間も短い!」
最終切断砲は、空を飛んでいない。
光に見えるのは、切断面の端である。
第五切断艦が地球側境界根へ「ここからここまでは別である」と定義し、その定義が現実へ伝わる。
剣なら、刃が届いてから切れる。
切断砲は、切れたという答えが先に走り、空と海が遅れて従う。
止めるには、答えそのものを消すのではなく、何と何を分ける答えなのかを変えなければならない。
「到達二・五!」セレナ。
「カイル!」エリア。
「一拍!」
「〇・八!」
「拍の小数化、採用!」
カイルが深紅の王盾を広げる。
砲撃を止めない。
作業籠へ先に届く境界のひび割れだけを受ける。
赤い盾へ白い線が触れる。
盾は割れない。
燃える。
王盾は、守る人数で強くなる。
今、守るのは二人。
ロロ。
ニア。
その向こうに二つの世界があるからといって、世界二つ分の強さにはならない。
魔法は、詩的な数え方をしない。
「〇・八!」セレナ。
「消す!」
カイルが盾を閉じる。
右腕が下がる。
肋部へ痛み。
「数値」
「四・一!」
「次、禁止!」
「もう一回ぐらい」
「禁止!」
「はい!」
命令に従う声が、悔しそうに明るい。
移動作業籠の中で、ロロとニアは向かい合う。
床はない。
正確には、床になる面が四秒ごとに変わる。
籠の六面へ足掛け。
中央へ潮骨笛。
笛はソウジ艇の固定台から完全には外さず、伸縮軸の先で作業籠まで引き込まれている。
白い骨筒。
六つの孔。
出口孔を塞ぐ古い骨傷。
ロロの工具は、三歯の再機輪。
最後に正常だった一動作を、歯車と素材の残響から引き戻す。
ニアの工具は、黒い断層楔。
物を真っ二つにする刃ではない。
荷重が渡っている線だけを見つけ、その線へ髪一本の隙間を入れる。
「交換」とニア。
「まだ持てる?」ロロ。
「右、触覚零。左、二」
「握力」
「右六、左七」
「感じなくても握れる」
「離す時が遅れる」
「声で」
「あなたの右手」
「痺れ三。指の開き、遅れ〇・二」
「補助腕」
「二本。右上、固定。左下、拡大鏡。空きなし」
「口」
「工具を口で持たせる姉がいるか!」
「歯は強い」
「衛生!」
「さっき骨を舐めようとした」
「過去を武器にすんな!」
「記録」とセレナ。
『作業者状態。ニア、右触覚零、左二。ロロ、右手痺れ三、補助腕二。工具交換条件を再確認』
「再確認は同意の取り直し?」ハル。
『違います。状態変化が大きければ、前の同意が現在の作業へ適用できるか確認する』
「変わった?」
「私の左は二のまま」とニア。
「俺の右、さっきより一悪い」とロロ。
「中止?」
「役割変更」
「どう」
ロロは再機輪を見せる。
「俺の工具は、歯が三つ。回す力は少なくていい。止まる音を聞く方が大事。ニアが持つ」
「あなたは断層楔」
「刃圧は?」
「右へ〇・三、左へ逃がす」
「感覚言語が姉語!」
「数値にする。初期〇・二。骨樹脂境界で〇・五。荷重線検出時、抵抗が〇・一落ちる。そこで停止」
「〇・一を俺の痺れ指で?」
「補助腕の固定圧計を使う」
「一本、空ける」
「何を外す」
「拡大鏡」
「見えなくなる」
「ニアが見る」
「私の目は使える」
「指示は」
「言う」
「遅れ」
「〇・二以内」
「自信」
「七」
「十じゃない?」
「過信を入力した」
「そこは成長したみたいに言うな」
「成長とは言っていない」
ロロは拡大鏡を外す。
左下補助腕へ圧計をつける。
視界はニア。
圧力はロロ。
動作は互いの工具。
一人では完成しない配置。
家族の絆と呼べば綺麗である。
実際には、欠けた身体と、欠けた信用と、足りない工具数を、作業表へ正直に書いただけだった。
「渡す」とロロ。
三歯の再機輪を差し出す。
ニアは右手で受ける。
触れた感覚はない。
「受けた?」
「視認。握力六」
「落とすな」
「落としたら」
「修理代」
「誰へ」
「俺!」
「あなたが作った」
「だから!」
ニアは黒い断層楔を差し出す。
ロロが左手で取る。
右ではない。
「重い」
「四百二十グラム」
「重さじゃなく、使った履歴」
ニアは黙る。
その刃は、荷重線を切った。
建物を。
船を。
命令網を。
人がいた側と、救うと決めた側を。
「履歴は消えない」とニア。
「磨いても?」
「消さない」
「俺、これで出口を開く」
「切断に使う」
「開くために」
「そう」
「おまえ、俺の再機で」
「閉じられた一動作を戻す」
「過去を戻すんじゃない」
「分かっている」
「分かった顔」
「どう言えば」
「怖いって」
「怖い」
「何が」
「戻った一動作を、戻らなかった十五年の代わりにしたくなること」
ロロの口が閉じる。
「俺も怖い」
「何が」
「開けた出口から、全部元に戻る気になること」
「戻らない」
「分かってる」
「分かった顔」
「姉弟で同じ会話すんな!」
ハルが通信の向こうで叫ぶ。
「今のは俺と父さんの会話!」
「親子専用にすんな!」ロロ。
『切断砲、境界根まで一・九』セレナ。
「時間が増えた?」ハル。
『王盾で先端の伝播を〇・九遅延』
「カイル!」
『褒めるなら後で肩を揉め!』
『右腕を使わずに』セレナ。
『どう揉む!?』
「開始鍵」とニア。
三鍵。
第一、構造。
ロロが潮骨笛の骨傷、出口弁、荷重線を確認する。
「構造鍵。切る対象は樹脂と骨をつなぐ偽荷重線一本。骨本体、弁軸、方向孔へ触れない」
第二、現場。
オルロイ号のエメ。
『現場鍵。出口先は逆潮外縁の無人排水域。居住区、船路、墓域から外れる。圧痛四。六で中止』
第三、記録。
セレナ。
『記録鍵。全操作、全停止宣言、失敗痕を公開。成功を過去判断の免責へ使わない。開始を許可』
「実行者」とロロ。
「ニア・ピクス。ただし単独権限なし」
「作業者」
「ロロ・ピクス。ただし家族同意を代用しない」
「停止」
「どちらか一人」
「再開」
「三鍵」
「始める」
ロロが断層楔を骨傷へ当てる。
ニアが再機輪を弁軸へ合わせる。
重力が変わる。
作業籠の右面が下になる。
二人の身体が索へ引かれる。
「固定!」ロロ。
右上補助腕が骨笛の保持枠をつかむ。
左下補助腕が圧計を押さえる。
自分の左手で断層楔。
右手は籠格子。
ニアは両足を交差して固定。
右手に再機輪。
左手で弁軸の角度板。
「圧〇・二」とロロ。
「刃先、樹脂外周から〇・四左」ニア。
「俺から見て?」
「骨笛太端から細端を見て左」
「最初からそれ!」
「言った」
「今言った!」
「進める」
断層楔が、樹脂へ入る。
音はしない。
黒い刃が細すぎて、切れ目も見えない。
「〇・三」
「あと〇・二」
「圧、上がらない」
「樹脂が軟化」
「熱?」
「潮骨笛の共振」
「止める?」
「圧は範囲」
「温度」
「右手では分からない」
「計器!」
「四十一」
「続行」
再機輪の三歯が弁軸へ触れる。
ニアは回さない。
「まだ」とロロ。
「聞いている」
「おまえ、先に動く癖」
「今は動いていない」
「それを維持!」
切断砲の白線が、巨大落水柱へ入る。
海水が線の左右で分かれ始める。
まだ地球側根へ届いていない。
だが「切れている」という答えが、流体へ先に伝わる。
「水柱分離!」エリア。
「入口と出口を用意!」ハル。
「出口、まだ!」ロロ。
「あと何秒!」
「秒で聞くな!」
「何で!」
「骨の機嫌!」
「機嫌を数値に!」
「今、悪い!」
刃圧〇・四。
〇・五。
抵抗が、一瞬落ちる。
「荷重線!」ロロ。
「停止」とニア。
ロロの手が止まる。
〇・一の差。
右手の痺れでは感じられない。
左下補助腕の圧計が、細い青線で示す。
「見えた?」
「見える」とニア。
「線」
「樹脂から骨へ斜め。幅〇・〇四」
「細い!」
「あなたの刃」
「おまえの!」
「今はあなたが持つ」
「そうだった!」
道具を交換すると、所有代名詞まで遅れる。
「ここから、おまえが指示。俺が切る」
「右〇・〇二」
「俺の右?」
「骨基準!」
「統一しろ!」
「骨太端から――」
「分かった!」
「〇・〇一進める」
ロロが動かす。
「停止」
止まる。
「左へ〇・〇〇五」
「工具にそんな目盛りない!」
「手で」
「俺の手は痺れてる!」
「息で刃柄を押す」
「口使うじゃねえか!」
「歯ではない」
「衛生!」
「保護膜」
「セレナの罠が役立った!」
ロロは工具柄へ息を当てる。
ほんのわずか。
黒刃が動く。
「線へ入った」とニア。
「切る」
「待って」
「何!」
「現場圧」
『四・八』エメ。
「上昇」
『砲線接触の反動。五・一』
「停止条件六」
「続ける」ロロ。
「私も」
「家族だから合わせるな」
「圧値に基づく」
「受領」
「許可ではない」
「今それ言う!?」
断層楔が、偽荷重線へ入る。
ニアの能力が起動する。
荷重線を一本だけ切る術〈カットオフ〉。
以前の彼女なら、世界へ直接触れた。
今回は違う。
構造鍵。
現場鍵。
記録鍵。
三つがそろい、切る対象は髪一本より細い。
黒い光が走る。
樹脂と骨の間に、白い隙間が生まれる。
「切れた!」ロロ。
「右手」ニア。
「何」
「再機輪がある?」
「見えてる!」
「触覚が」
言葉が止まる。
「右は元から零」
「左も」
「数値」
「零」
能力の反動。
左手の触覚も消えた。
「握力」
「左五。右六」
「輪、落とすな!」
「見ている」
「回せる?」
「あなたが言えば」
「声で渡す」
工具交換の本番は、ここからだった。
三歯の再機輪は、回せばよい工具ではない。
回す前に、機械が最後に正常だった時、どちらへ動いたのかを決めなければならない。
過去は一つだ、と歴史家は言う。
機械に訊けば、過去など摩耗した面の数だけある。
出口弁の軸には、右回りの擦過痕が二本、左回りが一本あった。
右は閉鎖。
左は開放。
ただし、十五年前の緊急停止では、弁が閉じ切る直前に自動検査で半歯だけ戻されている。
最後の動きだけを読めば、開いたことになる。
最後の目的を読めば、閉じたことになる。
「どっちだ」とニア。
「聞くな。俺が聞く」
ロロは目を閉じた。
「目を閉じる必要は」
「格好」
「時間」
「格好は時間より短い!」
彼は補助腕の圧計を弁軸へ当てた。
右手は痺れている。
だから指ではなく、歯車の戻り音を骨伝導板へ拾わせる。
かち。
細い音。
かち、ではない。
か――ち、と途中に空白がある。
「検査戻しだ」
「根拠」
「一歯の中で荷重が抜けてる。開ける動作なら、流体圧が最後まで歯へ掛かる。これは閉じた後、引っ掛かりだけ確認して半歯戻した音」
「つまり」
「最後の実動は閉鎖。最後の正常な用途は、その一つ前の開放」
「再機は、最後の一動作を戻す」
「だから一つ前を選ばせる」
「できるの」
「できない」
「短く答える場面ではない」
「工具だけではできない。今の圧力を、十五年前の開放時と同じ向きへ置けば、機械側が『最後に正常だった開放』を現在と認識する」
「現在を過去に似せる」
「過去を現在へ連れてくるんじゃない。現在の方を、機械が思い出せる形にする」
「詐欺」
「修理」
「言葉が違う」
「請求書の欄が違う」
ニアの口角が、ほんの一度だけ動いた。
笑ったのではない。
ロロがそう記録しない限り、笑いにはならない程度の動きだった。
『切断砲、境界根まで一・三』セレナ。
「現在圧を十五年前へ寄せる!」ロロ。
『どの圧?』エリア。
「出口孔の外側を低く、内側を高く! 差〇・七! ただし流すな!」
『流さず圧差だけ作るのは、地図に道だけ描いて歩くなと言うようなものね』
「できる?」
『できるから腹が立つ!』
エリアの光の航路を描く地図術〈ルート・レイ〉が、潮骨笛の六孔へ巻きついた。
道を描く術ではない。
何がどこを通り、どこで止まり、誰が戻せるかを、光の線へ置き換える術である。
入口孔に青。
出口孔に白。
重力方向孔に緑。
時間孔に黄。
流量孔に赤。
抜け道孔に、まだ名前のない灰色。
「出口外、減圧〇・二!」エリア。
「内圧、ソウジ艇から〇・九!」ロロ。
『勝手に取るな』ソウジ。
「借りる!」
『返却条件』
「出口が開いたら全部返す!」
『曖昧だ』
「父さんが言う!?」ハル。
『私が言うから重い』
「反省を名言に加工すんな!」
ソウジが圧力輪を四度だけ回す。
大径常設路へ送るはずだった圧が、細い試験管へ移る。
ハルの差し込んだ平金が、制御輪の歯で鳴いた。
ぎ、と。
折れない。
だが、次に大きく回せば曲がる。
「圧差〇・六五!」エリア。
「あと〇・〇五!」ロロ。
ニアの右手が再機輪を握る。
触れている感覚はない。
握力計だけが六を示す。
「歯を一つ、軸へ預ける」とロロ。
「どの角度」
「太端を十二時。輪の赤傷を四時」
「赤傷が二つ」
「濃い方」
「色を番号に」
「右から二つ目!」
「右は誰の」
「俺が骨太端から細端を見る右!」
「統一」
「今した!」
ニアが輪を合わせる。
「接触した?」
「視認では」
「感覚じゃなく音。耳」
ニアは輪をほんの少し傾ける。
こ。
硬い音。
「浅い。あと〇・三度」
「〇・三度を視認できない」
「俺が数える。息を一つ吐く間に、輪柄を爪幅の十分の一」
「私の爪」
「俺の!」
「長さが違う」
「七ミリの十分の一!」
「〇・七ミリと言え」
「姉、うるさい!」
「弟、単位が雑」
ニアは〇・七ミリ動かした。
かち。
三歯の一つが、弁軸へ入る。
「そこ。保持」
「保持」
「回さない」
「回さない」
「絶対」
「絶対は停止条件を消す」
「今だけ絶対!」
「今だけ、が条件」
「そう!」
『切断砲、一・〇』セレナ。
巨大落水柱の中央が、白い線を境に裂ける。
水が二つの海へ分かれようとした。
片方は地球へ。
片方は雲海へ。
どちらも、自分が本流だと思っている。
海は意見を持たない。
しかし制度が二つの入口を同じ入口と定義した時、流体は両方へ従おうとする。
その結果を、人間は災害と呼ぶ。
「圧差〇・七!」エリア。
「今!」ロロ。
「方向」ニア。
「左回り。三歯の一歯目まで。音は二回。二回目の前で止める!」
「矛盾」
「一回目は噛み合い。二回目が復元。二回目が鳴り切る前に止める!」
「途中停止で復元は」
「開く動作だけ戻す。開き切った状態まで戻すな。今の流量に合わせる!」
「了解」
ニアが回す。
か。
一音目。
輪の柄が震える。
右手には伝わらない。
視界だけが、柄の先の細かな揺れを拾う。
「あと」とロロ。
ニアは回す。
か――
「止めろ!」
止める。
ち、の直前。
弁軸の中で、十五年前の歯車が一度だけ動いた。
閉じた歴史が消えたのではない。
閉じる前、日常の点検で開いた一動作だけが、現在へ戻る。
出口孔の骨傷が、指一本分、開いた。
『出口反応!』エリア。
「流すな!」ロロ。
『まだ流してない!』
「言う前に怒るな!」
『言われる前に止めたの!』
白い路図が出口孔から伸びる。
逆潮外縁の無人排水域へ。
だが、届く寸前で折れた。
「何で!」ハル。
『砲撃の対象結合が、出口路を地球側根へ引いている』セレナ。
「対象結合?」
『切断砲は「地球側境界根と逆潮を分ける」という結果を先に置いた。出口路が逆潮側にある以上、砲撃は出口路まで分離対象へ含める』
「開けても切られる!」ロロ。
「砲の線を変える」とニア。
「砲を切る?」
「違う。砲が地球側根へ持っている荷重――対象を結ぶ線」
「見える?」
「白線の中心に黒い細線」
「俺には白しか」