第713話 第九章「白い峡谷」前編
橋は、二つの場所を結ぶ。
それだけなら、丸太一本でもよい。
文明が橋へ加えるのは、通行の条件である。
何人まで。
何時から何時まで。
誰が渡ってよいか。
どの荷を運んでよいか。
壊れた時、誰を先に戻すか。
橋は道である前に、選別の機械になる。
歴史上、最も多くの人間を落とした橋は、強度の足りない橋ではない。
渡る者の数え方を誤った橋である。
【現実/白峡前・上橋口/覚醒/到着五日目・夕刻】
橋が、人数を間違えた。
「登録三十一。許容三十二。通行可能」
白い機械声が言う。
橋の前には、四十三人いた。
「可能じゃない!」ハル。
「機械へ怒鳴っても人数は増えない!」エリア。
「じゃあ誰へ怒鳴る!」
「先に止める!」
白峡谷は、色がないから白いのではなかった。
岩そのものが、光を返す薄い鉱灰でできている。
深さは、見下ろしても底が分からない。
峡谷の壁へ何百もの横穴。
風が穴を通るたび、低い笛の音を鳴らす。
橋は三つの塔と、七十二枚の細長い床板でできていた。
床板は岩へ固定されていない。
左右の鎖へ吊られ、渡る人数に合わせて橋下の錘が上がる。
通行者が増えれば錘が下がり、鎖が張る。
減れば緩む。
人を軽くする魔法ではない。
人の数を先に知り、機械の力を配る橋である。
ただし、その「人」は中央名簿へ登録された者だけだった。
橋口の表示板。
三十一。
実際の人数。
四十三。
差、十二。
名前を失った者が、橋の計算からも失われている。
「全員、下がって!」カイル。
明るいバリトンが峡谷へ響く。
「橋へ乗るな! 荷を置け! 足元の縄よりこちらへ!」
人々は止まった。
止まれない者もいる。
橋の中央に、すでに九人。
医療箱を載せた二輪車一台。
後ろから来た配給車が、上橋口の待避場を塞いでいる。
「中央九!」セレナ。
「登録表示は七!」エリア。
「二人、数えられていない」
「どの二人」アムナ。
「名前を聞くな。位置!」ハル。
「橋頭から一、二、三――」
セレナが肉眼で数える。
「四番目の杖を持つ女性。七番目の背負い籠の男性。中央表示へ荷重反応なし」
「反応なしでも、床は沈んでる!」ロロ。
橋の第一塔で歯車が悲鳴を上げる。
錘は七人分しか下がらない。
床板には九人と荷車の重さ。
差分が、鎖へ入る。
「動かないで!」エリア。
「動かなければ持つ?」橋上の男。
「分からない!」
「安全だと言って!」
「言えない!」
エリアの声が、短くなる。
未知の地形を前にすると早口になる彼女が、危険時には余計な音を削る。
「分からないから、今測る。動かないで。呼吸はして。荷物を床へ下ろさない。位置を変えない」
「荷を持ったまま?」
「床へ置けば一点荷重になる」
「腕が」
「あと三十秒。交代を作る」
命令ではない。
理由と時間を付ける。
橋上の男は頷いた。
白峡谷の橋は、無誓領域へ入っても動いた。
旧式機械だったからである。
人の名を読む部分だけは、後から中央登録へ接続されていた。
古い橋へ新しい便利を足す。
便利が壊れた時、古い橋まで壊す。
文明は新旧を混ぜる時、どちらの失敗条件も相続する。
「構造!」ロロ。
上橋口の保守蓋を開く。
二本の補助腕で歯車を押さえ、右手は使わない。
右腕の痺れが、指先から肘へ上がっている。
「人名読み取り板が、錘制御へ直結! 登録一人で小錘一! 荷物は荷札で別計算!」
「名なしの人を手で足せる?」カイル。
「手動穴ある! でも封印!」
「壊す」ハル。
「壊す前に請求先!」
「命!」
「命へ請求できるか!」
「なら無料!」
「無料じゃない! 費用は後で公共へ見せる!」
「今それ!」
「今言わないと、後で英雄談にされる!」
ロロは二本の補助腕を封印板へ差し込み、捻った。
金属が曲がる。
「王子、左!」
カイルが普通の盾を差し込む。
王盾炎はない。
ただの金属盾。
右腕で押さえ、左手で梃子を握る。
肋部が痛む。
呼吸一。
二。
三。
「あと何秒!」
「請求書一枚分!」
「時間で言え!」
「二十!」
ハルは橋口へ腰索を結ぶ。
「行く」
「待って」とエリア。
「中央へ予備索を渡す」
「あなたの左肩」
「腰へ取る」
「帰りの荷重」
「九人を一度に引かない」
「床板二十六から三十一、右鎖が弱い」
「覚える」
「紙を持って」
「走る時に読めない」
「なら、私が言う」
「風で聞こえない」
「結び目」
エリアは細索へ六つの結び目を作った。
一つ、床板二十六。
二つ、二十七。
三つ、二十八。
長い結び、右鎖弱。
二重、荷車。
端を残す、撤退。
「ハル」
命令形ではない。
「結びを読んで。三十六で戻って」
「三十六?」
「床板」
「戻れなかったら」
「戻る方法を私に頼んで」
ハルは答える。
「手伝って」
短い。
エリアは頷いた。
「任せて」
助けを求めることは、負けではない。
役割を渡すことである。
それを覚えるのに、十五歳の少年は長い旅を要した。
「一」
ハルが跳ぶ。
「二」
第一床板。
「三」
橋が沈む。
魔法はない。
空中で向きを変える白い線もない。
失われたものを指す針もない。
足裏。
板の反り。
鎖の音。
風。
一度走った道の段差と匂いを覚える配送の技能。
この橋は初めてである。
だから、走りながら初回を記憶する。
床板一。
中央が欠ける。
二、左端に釘。
三、乾いた音。
四、右鎖へ振れる。
「四、右!」エリア。
「分かってる!」
「今、左へ寄った!」
「確認した!」
「間違いを確認と呼ばない!」
同じやり取り。
魔法があってもなくても、二人の口論は航法になる。
床板十二。
風穴から横風。
十三、板が短い。
十四、つなぎ縄が新しい。
ハルは腰索の束を橋上の一人目へ投げる。
「取って! 身体じゃなく荷車へ一周、次に腰!」
「名前は!」アムナが橋口から叫ぶ。
「いらない!」
「呼ぶ時」
「位置で!」
杖の女性。
背負い籠の男性。
橋頭から一番、二番。
それで救助はできる。
アムナは唇を噛む。
名前を使わないことが、消された人への加害に見える。
しかし今は、名前を確認する時間が橋の寿命を削る。
人を数だけにしない。
同時に、数えないことで落とさない。
両方を持つ必要がある。
「橋頭一、腰へ!」アムナ。
呼び方を変える。
「橋頭二、籠を胸へ。右へ動かさない!」
誰であるかを消したのではない。
今、必要な情報だけを使った。
手動錘穴が開いた。
「二人分、追加!」ロロ。
カイルが錘棒を押す。
がん。
橋下で小錘が落ちる。
鎖が張る。
床板が一寸上がった。
「持った!」橋上の誰か。
「まだ!」セレナ。
荷車が表示へ入っていない。
「荷札」
医療箱の紙札は白い。
受取人名が消えた時、荷の登録も失効していた。
橋は荷車を、空の車輪として計算している。
薬箱十二。
水瓶四。
吸入紙。
副木。
重さ百四十六。
「荷物分が抜けてる!」セレナ。
「何人相当!」カイル。
「四・八!」
「人へ換算するな!」ロロ。
「錘穴が人単位しかない!」
「五入れろ!」
「一人分多い!」
「多い方へ!」
カイルが五本押す。
がん。
がん。
がん。
がん。
五本目が入らない。
「固着!」
「俺が行く!」ロロ。
「右腕!」ハルが橋上から叫ぶ。
「二本ある!」
「補助腕は肩から先へ負担返るだろ!」
「請求書へ書く!」
「身体を経費にするな!」
「おまえが言うな!」
ロロは保守穴へ半身を入れ、補助腕一本を錘棒へ巻く。
もう一本で歯車を逆に回す。
右手は胸へ固定。
「三拍で押す! 王子、一!」
「一!」
「エリア、二!」
「二!」
「ハル、三!」
遠くから。
「三!」
錘棒が入る。
鎖が持ち上がる。
橋中央の九人が、少しだけ呼吸した。
その時、白い塔が鳴った。
かち。
峡谷へ届くほど大きくない音。
だが橋の読み取り板は、遠い命令を受けた。
登録三十一。
二十九。
二十七。
橋上で、さらに二人の公的名が消えた。
機械は、消えた二人が橋から降りたと判断する。
錘を二つ戻した。
「何で緩む!」カイル。
「名が消えた!」セレナ。
「手動追加が相殺されてる!」ロロ。
床板二十六が割れた。
ハルの足元。
「ハル!」
一。
板が落ちる。
二。
右足を次の板へ。
三。
左肩を使わない。
腰索へ体重を預け、身体を横へ振る。
床板二十八へ着地。
左肩に熱。
三。
まだ動く。
「肩!」エリア。
「三!」
「二で戻って!」
「まだ三!」
「あなたの三と医療の三は違う!」
「今は走れる方!」
「戻ったら私が決める!」
「本人の身体!」アムナ。
「本人は過小申告する!」
「それは正しい!」ハル。
「認めるな!」
橋が大きく傾く。
医療車が右へ滑った。
橋上の背負い籠の男が、車輪へ手を伸ばす。
「触るな!」ハル。
「薬が!」
「命が先!」
「家族の薬だ!」
優先順位は、外から一つに決められない。
ハルは車の前へ飛び込む。
右足を車軸へ。
両手で側枠。
左肩は使わない。
止まらない。
車輪が床板を削る。
「索!」
橋頭一の女性が、受け取った予備索を投げた。
名前を知らない。
救助の役割は渡せる。
ハルは索を車軸へ巻く。
「橋頭二、引いて!」
籠の男が引く。
三人で止める。
車は床板三十一の手前で止まった。
「助かった」男。
「まだ橋上!」
「そういう言い方、嫌いじゃない」
「後で名前聞く!」アムナ。
「本人へ確認してから!」全員。
峡谷の風の中で、また声がそろった。