第714話 第九章「白い峡谷」後編
上橋口の待避場が塞がっている。
後退できない。
下橋口は、白い塔へ続く道。
だが中央塔の先、床板四十から五十二は、錘機構が別系統である。
「前へ渡すしかない」とカイル。
「今の設定で次区画へ入れば、人数をもう一度読む」とセレナ。
「消えた人はまた抜ける」
「手動穴は中央塔にもある」とロロ。
「誰が行く」
「俺」とハル。
「却下」エリア。
「近い」
「誰にとって」
「俺」
「身体条件」
「肩三」
「嘘」
「二・五」
「二」
「二・五!」
「小数で交渉しないで!」
「橋は小数使ってる!」
「あなたは橋じゃない!」
エリアは左肺へ手を当てた。
粉塵。
風穴の冷気。
呼吸が浅い。
「私が行く」と言いかける。
止める。
自分一人で補正しない。
「ハル。中央塔まで行って。そこで止まって。ロロの指示を待って。私は橋上の道を読む。カイルは入口錘。セレナは人数。アムナは呼称ではなく位置。ノクスは足音。頼む」
具体的な役割。
「了解」
ハルは走る。
床板三十二。
三十三。
三十四。
揺れの周期、四拍。
一拍目、左へ。
二拍目、戻る。
三拍目、右へ。
四拍目、板が浮く。
「今!」エリア。
一。
二。
三。
三十五。
腰索の結び目。
端を残す。
撤退地点。
エリアの指示は床板三十六で戻れだった。
中央塔は三十八。
あと二枚。
「止まって!」
「中央穴が見える!」
「約束した!」
「頼まれたのは三十六で戻ることじゃない、中央まで!」
「その前に三十六!」
「説明が矛盾!」
「安全側へ解釈して!」
「俺の性格知ってるだろ!」
「知っているから怒ってる!」
床板三十六。
ハルは止まった。
止まれた。
救助対象が目の前でも、命令を無視して先へ飛ばない。
成長とは、走る力が増えることではない。
止まる理由を他人へ預けられることでもある。
「次」とハル。
エリアが紙地図を見る。
魔法の線はない。
揺れを鉛筆で四本描く。
「三十七は中央が割れてる。右端へ。三十八へ直接跳ばない。塔の外輪へ索を投げて、一拍待つ」
「一拍」
「一拍」
「長い」
「待って」
ハルは索を投げる。
外輪へ掛かる。
一拍。
橋が右へ振れる。
さっき飛べば、峡谷へ落ちていた。
「今!」
一。
二。
三。
中央塔へ。
着地。
右膝。
腰。
左肩は使わない。
「到着!」
「呼吸!」セレナ。
「三!」
「肩!」
「二!」
「嘘の方向が逆!」
「数字が混線してる!」
「混線している人を作業へ使わない!」
「意識は明瞭!」
「自己評価を証拠にしない!」
いつもの声が、橋を渡る。
橋上の人々が少し笑った。
笑いで揺れないよう、口を押さえる。
中央塔の手動穴は、錆びていた。
「蓋、左へ四分の一!」ロロが叫ぶ。
「動かない!」
「下へ押してから!」
「下ってどっち!」
「今の重力!」
「説明が雑!」
「橋の下!」
「峡谷!」
「そう!」
ハルは蓋を押す。
左肩へ力を入れない。
右手と両足。
回る。
中に、小さな錘棒が十二本。
「人数差二、荷物差五、入口側追加済み七」とセレナ。
「中央側読み直しで全部抜ける可能性!」ロロ。
「何本」
「十二全部を先に入れる!」
「過補正」エリア。
「通過後に一本ずつ戻す!」
「戻す人」
「ハル」
「肩」
「足で!」
「足で錘を操作する設計じゃない!」
「設計した奴へ言え!」
ハルは一本目を押す。
固い。
右足の踵。
がん。
二本目。
三本目。
橋が上がる。
四本目。
五本目。
中央塔の下で何かが折れる音。
「止めて!」エリア。
ハルは止める。
「右鎖、張りすぎ。床板四十三が浮いた」
「まだ誰もいない」
「通る時に跳ねる」
「一本戻す?」
「戻さない。左へ荷を寄せる。橋上の人、荷車を左へ一寸」
「動かすなって」
「条件が変わった。今は動かす」
「どっち!」
「一寸だけ!」
正しい指示が変わる。
変わることは、前が誤りだったという意味ではない。
現在の条件へ合わせるため、正しさにも更新時刻がいる。
九人は荷車を一寸動かす。
橋が水平へ近づく。
「渡る」とカイル。
「順番」とセレナ。
「登録されていない二人を先に?」ハル。
「名で選ばない」とアムナ。
「身体条件。杖の女性、胸痛。先。籠の男性、荷を持てる。後」
「医療車」
「二人で押す。名前なし札を付ける」
ニアとエメから届いた木札。
生活者。
医療。
名前非公開。
本人確認未了。
橋の読み取り板には使えない。
人間の手順には使える。
機械へ読ませるためではなく、人間が数え落とさないための札。
アムナが一人ずつへ渡す。
「あなた、一」
杖の女性。
「名は」
「橋を渡ってから、聞いてよければ」
「今は一」
「今は一」
「あなた、二」
籠の男性。
「二は嫌だ。子供の頃の罰番号」
「呼び方」
「籠」
「今は籠」
「それで」
番号も中立ではない。
数字にも記憶がある。
アムナは札へ、籠、と書く。
中央登録へつながらない手書き。
第一人が中央塔へ届く。
第二人。
医療車。
橋口の登録表示が、また減った。
二十七。
二十四。
「三人消えた!」セレナ。
「誰」アムナ。
「今は位置!」
「上橋口待機、前から六、十一、二十!」
待機場で三人の通行札が白くなり、橋の総錘が戻る。
橋全体が沈む。
待避場の配給車が動いた。
車止めが外れ、橋口へ滑る。
「車!」カイル。
普通の盾を地面へ差し込む。
車輪が盾へ当たる。
金属音。
カイルの右腕。
肋部。
背中。
炎なら痛みを返して受け止める。
今は金属と筋肉だけで受け止める。
「止まれえええ!」
左手で車枠をつかむ。
本来の利き手。
王族礼法で矯正された右ではなく、身体が覚えている左。
車は止まらない。
ロロが補助腕一本を車軸へ巻く。
「一本貸し!」
「返せるのか!」
「壊さなければ!」
「条件が厳しい!」
エリアが地図槍を横へ差し、車輪を誘導する。
魔法はない。
槍は梃子。
左肺へ冷気。
咳。
「エリア!」ハル。
「肺、四」
「嘘!」
「今は正直!」
「四は悪い方だろ!」
「そう!」
「交代!」
「車が止まったら!」
「俺が戻る!」
「戻るな!」
橋中央にいるハルは、走れば戻れる。
しかし戻れば、中央塔の錘操作が止まる。
誰か一人が全てへ飛ぶことはできない。
救助は、自分が行かない場所を他人へ預ける作業でもある。
「カイル!」ハル。
「任せろ!」
「ロロ!」
「請求する!」
「エリア!」
「地図は渡さない!」
「頼んだ!」
ハルは中央塔へ残る。
配給車は、盾、補助腕、槍の三点で止まった。
エリアが膝をつく。
呼吸。
カイルが彼女の代わりに紙地図を拾う。
「読めないぞ!」
「線を見て!」
「字が細かい!」
「王学で古典詩を読む目はあるでしょう!」
「古典詩は橋を揺らさない!」
「右の太線!」
「これか!」
「それは峡谷!」
「地図が難しい!」
「私の苦労が分かった?」
「毎日尊敬する!」
「今だけ?」
「永続は後で再同意!」
口論しながら、役割を替える。
十一人が渡った。
残り、三十二。
橋上と待機場を合わせた実数。
登録表示は二十。
差が十二へ広がる。
白い塔の消去は止まらない。
かち。
かち。
かち。
橋の錘が、名前を失った順に戻る。
「手動穴が追いつかない!」ロロ。
「塔からの更新を止める」とカイル。
「管を切れば、下橋口の扉も止まる」とセレナ。
「橋だけ隔離」
「機械路が一体!」
「切れない線!」ハル。
ニアとエメが切らなかった補給線と同じだ。
危険な命令を運ぶ線が、同時に食料と救命を運ぶ。
切れば速い。
切れば別の誰かが落ちる。
「迂回を作る」とロロ。
「どこへ」
「読み取り板からの戻し信号だけ、手動錘の前で空回りさせる」
「できる?」
「設計した奴へ文句を言いながらなら!」
「それ、能力条件?」ハル。
「精神安定条件!」
ロロは保守箱へ潜る。
右手の感覚が弱い。
二本の補助腕で歯車を触る。
魔法の残響はない。
工具が前の手順を覚えてくれない。
一つ外す。
置く位置を声にする。
「短螺子、左皿! 長螺子、右皿! 戻し爪、上!」
「私が記録」とセレナ。
「字だけじゃ組めない!」
「外した順、角度、摩耗を描写します」
「もっと早く!」
「速さを優先すると誤記します」
「正確さを優先すると橋が落ちる!」
「許容誤差を指定して!」
「角度一目盛、螺子順は絶対!」
「承知!」
記録も、完璧である必要はない。
何を誤ってよく、何を誤ってはいけないかを先に決める。
二十人目が中央塔へ近づいた時、峡谷の横風が変わった。
低い笛音が、高くなる。
「上昇流!」エリア。
「どっちから!」
「下!」
「橋が浮く!」
床板が一斉に持ち上がる。
錘が不足して沈んでいた橋へ、今度は下から風が入る。
床板四十三。
先ほど張りすぎた場所。
跳ね上がった。
橋上の子供が宙へ浮く。
「子供!」アムナ。
「位置!」セレナ。
「中央塔から五、左!」
ハルが走る。
一。
二。
三。
子供の外套を右手でつかむ。
左肩へ引かない。
腰索へ落とす。
自分の身体が外へ振られる。
橋外。
峡谷。
「ハル!」
腰索が張る。
左肩ではない。
腰。
それでも衝撃が背中を通る。
「二!」ハル。
「何が!」エリア。
「意識!」
「肩!」
「三!」
「数字を統一して!」
「無理!」
子供が泣く。
名を呼ぼうとする。
口から出ない。
自分の名が消えたのか、恐怖で言えないのか分からない。
アムナが橋口から叫ぶ。
「あなたは――」
名前を覚えている。
朝、聞いた。
右の小指、出口。
「ミレ!」
違う。
ミレは待機場にいる。
ぶら下がっている子供は、井戸番の孫。
似た音。
似た年齢。
同じ場所へ置いた。
「違う!」子供。
その一語で身体が固くなる。
ハルの手から外套が滑る。
「名前じゃなく手!」ネイの声。
いつの間にか中央塔の下側へいる。
保守索を伝って来た。
「右手を出して! 今日はそれでいい!」
子供が右手を出す。
ハルがつかむ。
「そう! 右手の子!」アムナ。
「僕が支える!」ネイ。
ネイは自分の名を使わない。
相手の名も使わない。
それでも助けられる。
二人で子供を床板へ戻す。
アムナは息を吸う。
名前を訂正しなければ。
「あなたは――」
出ない。
右手の部屋が、二つ重なっている。
ミレ。
井戸番の孫。
朝の聞き取り。
午後の壁板。
橋の位置。
疲労で廊下が曲がる。
記憶宮殿は魔法ではない。
正しい名を叫べば人が戻る能力でもない。
「私が」とアムナ。
もう一度、全員を数えようとする。
「サエル。ミレア。トウ。麦番。井戸――」
「止めて」とセレナ。
「消える」
「今は位置を数える」
「名前を」
「混じっています」
「訂正する」
「橋が先です」
「名前が先」
「本人が落ちます!」
アムナは叫ぶ。
名を一人で抱えたまま、落とさないために。
「サエル・ミナ! ミレア・トウ! ラ――」
次の名が、違う部屋から出た。
橋上の老人が振り向く。
別人の名で呼ばれた。
その一歩が、荷重を右へ移す。
橋の中央鎖が鳴った。
切れる音ではない。
切れる直前の音。
「全員、止まって!」エリア。
「アムナ、黙って!」
きつい。
必要な命令。
アムナの口が閉じる。
白い峡谷の上で、彼女が覚えていた名は、救助の道具にならなかった。
混じった名は、危険になった。
中央塔の下で、鎖の撚りが一本ほどける。
橋はまだ落ちていない。
あと何人渡せるかも分からない。
アムナは初めて、自分が名を言わない方が誰かを救える瞬間に立っていた。