第715話 第十章「消えた住民を数える」前編
人を数えることと、人へ番号を付けることは、同じではない。
前者は、誰も落とさないために必要になる。
後者は、誰を先に落とすか決めるためにも使われる。
数は冷たい、と言われる。
だが、冷たいのは数字ではない。
何を数え、何を数えないかを決めた人間である。
名前は温かい、と言われる。
だが、温かい名で呼ばれながら、名簿の外へ捨てられた者もいる。
数も名も、人を救わない。
救うのは、それらを誰の許可で、何のために、いつまで使うかという手続である。
【現実/白峡谷・上橋口/覚醒/中央鎖損傷から九秒】
アムナは、口を閉じた。
名を言わない。
橋上の老人は、別人の名で振り向いたまま、右へ傾いている。
中央鎖の撚りが一本ほどけ、床板全体が呼吸するように上下する。
「位置!」セレナ。
アムナは答えない。
言葉が出ないのではない。
正しい名を探している。
「位置だけ!」
セレナの声が強くなる。
「中央塔から十二。右へ一歩。老人」
言えた。
「老人、動かないで!」カイル。
「俺か?」
「中央塔から十二、杖なし、右手に袋!」
「俺だ!」
「その場で膝を曲げて!」
老人が膝を曲げる。
重心が下がる。
「床板四十七、左へ荷重!」エリア。
「誰が!」ハル。
「籠の人、半歩!」
「今は籠!」アムナ。
「了解!」
籠の男が半歩動く。
橋が水平へ戻る。
「名前なしで、できた」とネイ。
アムナは彼を見ない。
見れば、右手の消した文字を思い出す。
「名前を使わなかっただけ」
「それで助かった」
「名前が不要じゃない」
「今は不要だった」
「今は」
「今日はそれで」
ネイは、同じ言葉を返す。
永遠の原則ではなく、現在の条件。
中央鎖は、あと一度大きく揺れれば切れる。
ロロが保守箱から叫ぶ。
「戻し信号の空回り、あと三分!」
「橋は三分持つ?」カイル。
「聞く相手が違う!」
「誰へ!」
「橋!」
「橋は答えない!」
「音を聞け!」
ロロは金属棒を鎖受けへ当てた。
耳を付けない。
右腕の痺れがある。
棒の震えを補助腕の関節へ伝える。
「大揺れ二回。小揺れ七。人の移動は一人ずつ!」
「全員渡すには」セレナ。
「三十二人、三十二回! 時間が足りない!」
「二人ずつ」ハル。
「条件」エリア。
「左右へ同時。中央荷重を変えない」
「歩幅が違う」
「結び索で合わせる」
「名前のない人同士でも?」アムナ。
「名前で歩幅はそろわない」とネイ。
「呼び方がいる」
「足音」
ノクスが二本尾を立てた。
誓いの匂いはない。
代わりに、四十三人の足音を聞いている。
「ナ」
短く鳴く。
橋上の二人を見比べる。
一人は重い踵。
一人は爪先。
「踵と爪先」とアムナ。
「二人、結び索を腰へ。踵が一歩、爪先が一歩。ノクスが鳴いたら止まる!」
「動物へ命を預けるのか!」誰か。
「小獣」とハル。「仲間。嫌なら俺の声でもいい」
「おまえの声より正確?」
「たぶん!」
「たぶんを比較にするな!」エリア。
ノクスが「ノゥ」と抗議する。
「本人も自信ある」とハル。
「翻訳を証拠にしない!」セレナ。
橋上の恐怖に、笑いが一筋入る。
笑いは問題を解決しない。
呼吸を戻す。
「踵、爪先。進む!」アムナ。
こつ。
かつ。
ノクスが一声。
止まる。
こつ。
かつ。
二人が中央塔へ近づく。
左右の荷重がほぼ同じ。
「次、杖と袋!」
「杖は二人いる」と橋上から声。
「中央塔に近い杖。袋は胸へ抱える人!」
「俺は袋じゃない!」
「今の呼び方」
「薬袋!」
「今は薬袋!」
自分で選び直す。
アムナは木札へ、踵、爪先、杖、薬袋と書く。
正式名ではない。
一回限り。
橋を渡り終えたら本人へ返す。
木札の端へ、破棄の切り欠き。
「渡ったら折って!」
中央塔を越えた人が、自分で札を折る。
救助側が永久に持たない。
戻し信号の爪が外れた。
「切った?」ハル。
「切ってない!」ロロ。「空回り! 命令は届く、錘へは入らない! 戻せる!」
「戻す予定あるの?」
「事件後に検討!」
「便利な言葉!」
「保留は逃げじゃない!」
白い塔が鳴る。
かち。
登録表示、二十四から二十一。
今度は錘が戻らない。
橋は三人を失ったと判断しても、機械へ力を返せない。
「持った!」カイル。
「手動追加が残る!」セレナ。
「全員、二人ずつ!」エリア。
救助が加速する。
踵と爪先。
杖と薬袋。
背高と小足。
母と子ではなく、本人が選んだ「長靴」と「二本紐」。
家族関係を呼称へ使わない。
誰かの所有物にしない。
アムナは、名を叫ばない。
代わりに聞く。
「今、何で呼ぶ?」
「大袋」
「嫌」隣の女。
「あなたじゃない」
「私も大袋持ってる!」
「じゃあ、右大袋と左大袋」ハル。
「物みたい」
「本人案」アムナ。
「私は縞靴」
「色がない」
「縞は形!」
「採用」
「あなたが決めない!」セレナ。
「本人案を記録上採用!」
「ロロの悪影響!」エリア。
言葉の混乱が、橋の上で交通整理になる。
名を持たないのではない。
今だけ、別の入口を選ぶ。
残り九人。
中央鎖、小揺れ一。
戻し爪を外した代償が現れる。
錘が過剰になり、橋が上へ反り始めた。
「追加錘を戻す!」ロロ。
「戻し信号は切ってないと言った!」ハル。
「自動を空回り! 手動は戻せる!」
「中央塔から?」
「一本ずつ!」
ハルは錘棒を見る。
足で押し込んだ十二本。
戻すには、横の留めを引き、一本ずつ受ける。
反動が強い。
「俺がやる」
「左肩」エリア。
「右で受ける」
「腰へ逃がす」ロロ。
「索を」
「誰が持つ」
ハルは一瞬、答えない。
自分で壁へ結べる。
その方が速い。
「エリア」
「何」
「索を持って」
頼む。
「持つ」
上橋口と中央塔の間、長い索。
エリアが両手で握る。
両踵へ負担が来ないよう、膝を落とす。
左肺の呼吸を一段浅くする。
「ハル。一本目」
「一」
留めを引く。
錘棒が飛び出す。
右手で受け、腰索へ力を逃がす。
エリアの身体が前へ引かれる。
カイルが背後から腰帯を支える。
「王太子補助!」
「肩書を仕事名にするな!」
「今は王子盾!」ロロ。
「人間だ!」
「本人案?」アムナ。
「違う!」
一本。
橋が下がる。
二本。
三本。
残りの人が渡る。
四本目で、ハルの右掌の皮が裂ける。
血は色で見えない。
濡れた暗さ。
「交代!」エリア。
「あと二本」
「交代」
「まだ」
「頼んだのは私へ持たせること。私の判断も持って」
ハルは止まる。
「カイル」
「交代!」
カイルが中央塔へ移る。
普通の盾を床へ置き、左手で錘棒を受ける。
本来の利き手。
「一!」
「二!」ハル。
「三!」全員。
最後の二本を戻す。
橋の反りが収まる。
残り一人。
上橋口の端に、小さな人影。
先ほどハルがつかんだ子供。
右手の子。
名を間違えられ、動けなくなった。
「渡れる?」アムナ。
返事はない。
「何で呼んでよい?」
返事はない。
「呼ばない?」
小さく頷く。
「呼ばない。手を出したら、進む。閉じたら、止まる」
アムナは自分の右手を出す。
子供が右手を出す。
名前を使わない合図。
一歩。
手を開く。
一歩。
手を閉じる。
止まる。
白峡谷の風が鳴る。
床板が揺れる。
子供は中央塔へ来る。
アムナが待っている。
「ごめん」
子供は黙る。
「違う名で呼んだ」
「名前、聞く?」
「今は聞かない」
「忘れる?」
「あなたが、覚えてよいと言った範囲だけ」
「右手」
「右手」
「それだけ」
「それだけ」
子供は最後の床板を渡る。
下橋口へ着く。
全員。
実数四十三。
登録表示二十一。
橋は二十二人を数え落とした。
人間は、全員を数えた。
最後の荷車を引き上げた時、中央鎖が切れた。
遅れて。
ぴん、と乾いた音。
床板四十から五十八が、白峡谷へ落ちる。
全員は下橋口側にいる。
上橋口の配給車と、保守道具の一部が残った。
「渡り切った」と誰か。
「橋は失った」とエリア。
「人は失ってない」とハル。
「物資も一部失った」とセレナ。
「記録する」とロロ。「床板十九、中央鎖一、錘棒傷六、工具二、配給車一」
「英雄の無料救助じゃない」とカイル。
「復旧費を公開する」
「誰へ請求」
「中央橋院、白い塔、利用地区、救難基金。分担を後で争う」
「今、争わない?」
「今は治療」
「別」アムナ。
「はい」とセレナ。
アムナは、別という語を嫌っていた。
今、少しだけ分かる。
物を失った責任を記録することと、人が助かったことを喜ぶことは、両立する。
助かったから損害を消さない。
損害が出たから救助を失敗としない。
「右手」とアムナ。
子供が振り向く。
「助かった」
「うん」
「名前は」
聞きかけて、止める。
「聞かない」
「今日は」
「今日は」