第733話 第七章「選ばなかった行動」前編
王とは、民を守る者である。
この言葉は美しい。
美しい言葉は、細部を隠す。
何人を守るのか。
何から守るのか。
誰の身体で守るのか。
守られる者は、守られ方を選べるのか。
王がすべてを守る国は、王が倒れた日にすべてを失う。
ゆえに、王権の歴史は盾の大型化ではない。
盾を持たない者にも、守る手順を渡してきた歴史である。
盾が王の紋章になったのは、剣より弱かったからである。
剣は一人でも振れる。
盾は、背後に誰かがいなければ意味を持たない。
かつて冠都環の王たちは、盾の大きさを王の力とした。広場を覆う大盾、城壁を包む炎盾、最後には王都全体の荷重と熱を一人へ集める王盾まで作った。王が強ければ国は無傷であり、王が倒れれば国は昨日までの無傷を利息つきで支払った。
歴史は、失敗を教訓に変えることが得意である。
権力は、その教訓を記念碑に変えて動かなくすることがもっと得意だった。
ゆえに王家の訓練場には今も、王は最後まで立て、と刻まれている。
誰が最後まで座っていてよいのかは、どこにも刻まれていない。
【現実/八室迷宮・回廊/覚醒/七拍交代開始から十四分】
迷宮は、指揮者が七拍ごとに変わることを嫌った。
嫌う、というのは機械に感情があるという意味ではない。機械の不機嫌とは、処理できない入力が来た時に、床を傾け、壁を閉じ、熱を上げることをいう。人間の不機嫌より正直であり、人間の不機嫌より危険だった。
最初の七拍、エリアが先頭を選ぶ。
二回目、九人の住民のうち、左腕へ布を巻いた男が歩幅を決める。
三回目、セレナが証拠保全のため速度を落とす。
四回目、ノクスが誰にも任命されないまま右の通路を選び、全員がそれへ従う。
「今のは指揮権移譲に入るのか」とカイル。
「本人へ確認できません」とセレナ。
「ナ」
「本人は確認済みと言っている顔だ」とハル。
「お前は夜獣語の資格をいつ取った」
「資格がいるなら今から無資格でやる」
「違法を宣言するな」
笑うたび、カイルの右脇腹が小さく引きつった。
古傷は、笑いを禁止しない。
笑った後の呼吸を一拍遅らせる。
セレナがそれを見た。
「痛み、二」
「一」
「王家は数値を過少申告する慣習があります」
「王家全体の伝統にするな」
「では個人の悪癖」
「悪化した!」
カイルは右腕の籠手を緩めた。
本来の利き手は左である。王盾炎を王家の儀礼どおり右で扱うため、幼い頃から左右を入れ替えてきた。人の身体には国法より強い癖があり、疲れるほど左が前へ出る。
迷宮の壁は、そのことまで知っていた。
黒い細板へ、文字が浮かぶ。
対象カイル・アークレイ。
右腕による王盾展開。
肋部損傷を秘匿。
危険度上昇時、全同行者を背後へ移動。
他者の反対を政治責任として退ける。
「最後の一行、性格が悪い」とハル。
「過去の行動だ」とカイル。
「だから性格が悪い」
「お前だけは王家へ敬意というものを――」
「敬意ならある。遠慮がない」
「一番扱いに困る組合せだ!」
言い返しながら、カイルは板の更新時刻を見る。
先ほどの交代指揮が、まだ反映されていない。
「遅い」と彼は言った。
「何が」とアムナ。
「記録の更新。橋はすぐ書き換わった。今は二十拍以上遅れている」
「入力が増えたから」とエリア。
「誰が決めたかを選べない」
アムナは壁の文字を二度読んだ。
「カイル。カイル。これはあなたの考えを読むんじゃない。あなたが指揮者になった時、周りがどう動くかも一緒に数えてる」
「なら、俺が指揮しなければいい」
「それも予測済みかもしれない」とセレナ。「責任を避けるために権限を放棄する、という分類があります」
「王子は守っても死に、退いても死ぬのか」
「記録に好かれてるな」とハル。
「好意の定義を今すぐ改訂しろ」
回廊の先で、金属板が鳴った。
一枚。
二枚。
十二枚。
赤い光が、円形の部屋の中央から立ち上がる。
九人の住民のうち、足首を痛めた少女が唇を噛んだ。布を巻いた男は無意識に彼女の前へ出る。老いた女性は腰袋から水筒を出し、もう一人は出口のない壁へ手を当てた。
迷宮は彼らを「保護対象」と一括表示した。
「名前は出ていない」とアムナ。
「生活も出てない」とハル。
「でも、守られる側って役割だけは勝手に決めた」
カイルは右の籠手を締め直す。
それから、左手で留め金を確かめた。
「入る前に聞く」
「何を」とエリア。
「俺が全員を守る、でいいか」
九人は、同時には答えなかった。
それが最初の未定義だった。
【現実/八室迷宮・盾庭/覚醒/七拍手順開始から二十一分】
九拍目に開いたのは、盾庭だった。
円形の庭。
中央へ赤い炉。
周囲に十二枚の薄い金属板。
天井から、火球が一つずつ落ちる。
住民九人は庭の中央にいる。
ハルたちは外周。
「配置が逆!」カイル。
守る者が外。
守られる者が内。
普通なら、王子は中央へ飛ぶ。
全員を盾の後ろへ入れ、王盾炎を最大へする。
黒板にも、そう書かれていた。
全対象を背後へ集約。
王盾炎、最大出力。
被害量を一身へ集中。
吸収炉、臨界。
盾破裂。
死亡確認。
「炉が受けた力を吸う」とロロ。
中央炉へ、細い赤線。
カイルの籠手から、まだ使っていない炎へ伸びている。
「最大にすれば、最大で食われる」とエリア。
「使わなければ、住民へ火が落ちる」
「十二枚の板」とアムナ。
壁の薄板。
盾ほど強くない。
持ち手はある。
「住民へ持たせる?」ハル。
「危険だ」
「本人へ聞く」
「聞いて、持つと言ったら?」
「持ち方を教える」
「失敗したら」
「一緒に責任を取る」
「王子の仕事を分けるな」とカイル。
「王子の死に方を独占するな」
言葉がぶつかる。
火球、二つ目。
七拍の指揮はカイルへ回った。
一拍。
「十二枚を三組。板を持てる者、手を上げてくれ!」
住民九人のうち、六人が上げる。
上げない三人。
「理由を言わなくていい。持たない者は、炉の裏へ移動。持つ者は二人一組!」
二拍。
「ハル、移動索!」
「承知!」
三拍。
「エリア、火球の落下順!」
「右、左、中央。二拍ずれ!」
四拍。
「ロロ、板の耐熱!」
「一発! 二発目で曲がる!」
五拍。
「セレナ、炉の吸収値!」
「盾出力三十を超えると上昇が加速!」
六拍。
最初の火球。
カイルは王盾炎を最大にしない。
右籠手へ、薄い半円だけ。
「十!」
火を受ける。
残りを、二組の金属板へ流す。
住民の腕が震える。
「重い!」
「離していい!」カイル。
「命令?」
七拍。
カイルの権限が切れる。
空白。
持っていた女性が、自分で板を傾けた。
火球の残熱が床へ逃げる。
「離さない。角度を変える!」
次の指揮者は、その女性になった。
「王子、中央へ寄せすぎない! 右の子、板を下げて!」
「承知!」
カイルが従う。
王太子が住民の命令へ従うことを、迷宮は記録していない。
炉の赤線が乱れる。
第一波が終わっても、盾庭は出口を開かなかった。
炉の縁へ、十二本の赤い目盛りが現れる。
守られた人数ではない。
受け取った力の量でもない。
誰が何を選んだかを、一人ずつ別の欄へ分けた記録だった。
板を持った六人。
持たなかった三人。
持った後で角度を変えた一人。
離してよいと言われても離さなかった二人。
王太子へ命令した一人。
「人間を数える時だけ細かい」とハル。
「罠に使える差だから」とアムナ。
左腕へ布を巻いた男が、曲がった板を床へ置いた。
「次も持てる。ただ、左は上がらない」
「怪我?」カイル。
「昔の荷役事故だ。今は痛くない。上がらないだけだ」
足首を痛めた少女は首を振る。
「私は持たない。立っていられない」
「理由を言わなくていい」とカイル。
「言いたい。持たないと怯えてると思われるのが嫌だから」
「怖くても、持たなくていい」
「怖くない。痛い」
「……承知した」
王太子が、言い直す。
守る側は、守られる側の理由を美しくしがちである。
恐怖なら勇気で越えられる。
迷いなら号令で消せる。
だが、関節が動かないという事実は、演説では動かない。
老いた女性は板を持たなかった。
代わりに水槽の栓を調べている。
「火傷へ流せる。床の溝も使えるよ」
「水を流すと炉が蒸気を吸う可能性」とロロ。
「じゃあ少しずつ。火の前じゃなく、受けた板へ」
「技師?」
「食堂」
「何で分かる!」
「大鍋を焦がしたことが百回ある」
「失敗回数が資格になる世界!」ハル。
「百回焦がして店が残ってるなら、九十九回は消したってこと」とエリア。
「公女様、分かってるね」
エリアはわずかに顎を引いた。
母が下面区の機関集落で鍋を焦がした話を、思い出したのだろう。彼女は語らなかった。語らないことと、隠すことは同じではない。今必要な線ではなかった。
カイルは十二枚の板を一度すべて床へ並べた。
「持てる者、では足りない。何秒なら持てる。どの角度なら受けられる。途中でやめる合図は何がいい」
「質問が多い」とハル。
「王子のくせに聞けと言ったのはお前だ!」
「聞くのに慣れてなくて尋問になってる」
「ではお前が聞け」
「俺は距離が近すぎて押し売りになる」
「役に立たない自己分析だけ正確!」
セレナが黒羽を一枚、床へ置く。
「選択を可視化します。板を持つ者は立てる。持たない者は座る。途中停止は板を二度鳴らす。交代希望は一度。理由は任意」
「それならできる」と少女。
「私は水」と老女。
「俺は左を使わない」と男。
「俺は誰の後ろにも入らない」と、出口へ手を当てていた若者が言った。
全員が振り向く。
「王家に守られて家を失った。盾が悪いとは言わない。でも、背後へ入れって言われると身体が止まる」
カイルの口が開く。
謝罪の言葉が一つ浮かび、飲み込まれた。
「俺個人が謝っても、家は戻らない」
「そうだな」
「だから、後ろへ入れとは言わない。板も持たなくていい。出口の継ぎ目を見ていてくれ。開いたら先に知らせてほしい」
「命令?」
「依頼だ。断っていい」
「じゃあ、やる」
黒板が、細かく震える。
対象カイル、保護対象を背後へ――
文字が一度消える。
対象カイル、保護対象へ防御役を――
また消える。
保護対象という分類が、役割を持ち始めたからである。
試しに、板を持つ練習をした。
火球なし。
炉の赤線だけ。
カイルが十の炎を張る。
板へ一を流す。
持ち手が熱い。
老女が水を一口分だけ掛ける。
蒸気は炉へ向かわず、床溝を走る。
ロロが溝の終点を確認する。
エリアが足元の逃げ線を三本描く。
ハルがその線を踏まずに横切り、怒られる。
「地図を踏むな」
「床に描いたら踏むだろ!」
「線は場所ではなく条件」
「床にある条件は踏む!」
「だからあなたは地図が読めない」
「地図が俺を読めてない!」
「両思いにならなくていい」とカイル。
「お前は恋愛の例えを入れるな!」
「なぜ俺だけ禁止だ!」
笑いが広がる。
板を持つ手の震えが少し減る。
迷宮は、その笑いを「緊張緩和」と記録した。
しかし、誰の冗談が誰の手を緩めたかまでは書けなかった。
制度は結果を項目へ変える。
人間関係は、項目の間を流れる。
第二波を告げる鐘が鳴った。