第736話 第八章「予測されない小さな癖」後編

 上層。

 両壁へ、薄い口の形。

 話した言葉を別の声で返す。

『助けて』

 幼いハルのような声。

 ハルの右足が前へ出る。

 エリアは靴の踵を一度だけ鳴らした。

 進む合図ではない。

 路祖礼は二度だから、一度は未完了。

 ハルは止まる。

『ハル』

 今度はエリアの声。

「本人が隣にいる」とロロ。

「隣にいても呼ぶ時は呼ぶ」とハル。

「では確認」とセレナ。「エリア、今呼びましたか」

「呼んでいない」

『呼んでいない』

 壁が即座に真似る。

「会話が増えるほど複製が増える」とカイル。

 カイルは苺の蔕を左ポケットへ入れる。

 待つ。

 セレナは黒羽を一枚裏返す。

 停止。

 二つ一致。

 全員が黙る。

 ロロが焦げパンを壁の口へ差し込み、熱を読む。

 右の口だけ冷たい。

 声を返す管ではなく、外気を吸う管。

 エリアが右靴だけ一寸外へ向ける。

 戻り路。

 ハルは言葉を使わず、端の石を出口側へ置く。

 九人が順に右の口の下へ身体を滑らせる。

 最後に、壁がハルの声で言った。

『俺が残る』

 ハルは振り向かない。

 その台詞を過去に何度言ったか、本人が一番知っていた。

 中層。

 光が足元から上がる。

 手の形、武器の角度、肩の向きまで壁へ影として映る。

 影の先には、命令板。

 右を指せば左の床が落ちる。

 盾を上げれば天井から熱が来る。

 工具を構えれば機関音が鳴る。

 地図槍を開けば、壁が正解路を先回りして閉じる。

「動かなければ」とカイル。

 天井が下がる。

「静止も戦術として分類済み」とセレナ。

「何もしないも行動」とアムナ。

「じゃあ、意味のない動き」とハル。

「意味を共有しないと、ただ踊るだけ」とエリア。

「踊るのはユノの担当」

「担当制にするな」

 ハルはマフラーの結び目を締め直した。

 いつもの癖。

 ただし、左へ一度。

 エリアはその動きを知らない。

 ハルも合図にすると言っていない。

「勝手に新しい意味を作るな」と彼女。

「まだ作ってない。影が何を反応するか見るだけ」

 壁は反応しない。

 マフラーを直す動作は、戦術外。

 ロロが工具を取り出す。

 影が反応する前に、一本目を鼻の下へ置いた。

「髭」

「十四歳が工具で髭を作るな!」

 二本目は耳へ。

「角」

「修理工の尊厳が死ぬ!」

「死亡記録に追加されないといいな」とハル。

 笑いながら、ロロは四本を床へ放る。

 影は、工具の用途を認識できない。

 把持鉗子が武器でも修理具でもなく、髭になったからだ。

「今」とエリア。

 彼女は地図槍を開かず、日傘のまま床へ置く。

 影は武器として拾わない。

 傘の骨が、天井を支える。

 カイルは王盾を出さず、曲がった金属板を左手で上げる。

 王子の影ではなく、板持ちの影。

 住民九人は、互いの影へ重なる。

 一人ひとりの輪郭が消える。

 アムナは名前を一度ずつ呼ぶ。

 確認未完了。

 誰も大きな動きをしない。

 ノクスが、影の列から自分の尾を一本だけ外す。

 二本尾の片方だけが光の外へ出る。

 命令板は、一頭か二頭か判断できず、瞬く。

 その瞬間、全員が通過した。

 最後のハルが足を滑らせる。

 左肩が壁へぶつかり、固定帯が軋む。

「痛み」とセレナ。

「二」

「本当」

「三」

 エリアの靴が二度鳴る。

 路祖礼。

 今度こそ出発。

 ハルは自分で立たず、カイルの左腕へ掴まった。

 それも過去の影にはなかった。

 下層。

 低い床に、七つの皿。

 持ち物を一つずつ置くと、その重さに応じて足場が出る。

 七皿すべてへ規定物を置けば、一直線の橋が完成する。

「ノクスの出番」とロロ。

「本人へ聞く」とハル。

「ナ」

「一つ外す、でいい?」

 ノクスは七皿のうち、中央だけ舐めた。

「衛生的な反対表現」とカイル。

「舐めた皿は使うな、という意味かも」とセレナ。

「そっちの可能性!」

 規定物の表示が浮かぶ。

 羅針盤。

 地図筆。

 王家印。

 修理工具。

 証羽。

 記憶炭。

 夜獣標。

「個人を物で固定する」とアムナ。

「置いたら、その人用の足場」とエリア。

「一直線にすると、一人ずつ狙える」とカイル。

 七皿すべてへ置かない。

 ハルは羅針盤を置かず、端の石を置く。

 エリアは地図筆ではなく靴紐の留め金。

 カイルは王家印ではなく苺の蔕。

 ロロは工具ではなく、工具箱の底に張り付いたパン屑。

 セレナは証羽を裏返して置く。

 アムナは炭片を置かず、名前を書かない白紙。

 ノクスは中央皿を外へ押す。

 六つの足場が出る。

 住民九人と六人一頭には足りない。

「一枚へ二人」とハル。

「重量超過で落ちる」とロロ。

「物を交代させる」とエリア。

 足場へ乗った者が、次の皿へ別の物を投げる。

 足場が消える前に次が出る。

 配達の手渡し。

 地図の未完成。

 盾の分担。

 修理の交代。

 証拠の保留。

 名の限定。

 小さな物が、役割を順に移す。

 施設は一人ずつの荷重を予測した。

 人から人へ意味が移る速度を予測していない。

 五枚目で、パン屑が風に飛んだ。

「俺の合図!」ロロ。

「食べ物としても弱い!」ハル。

 足場が消える。

 布を巻いた男が落ちる。

 カイルが盾を最大にしない。

 左手の曲がった板を差し出す。

 男は板へ掴まる。

 老女が水筒を立てる。

 進める。

 エリアが右靴だけ外へ向ける。

 別経路。

 ノクスが中央皿の下へ爪を入れ、皿そのものを外した。

 そこに、床下へ続く空洞が現れた。

「足場を渡る必要がなかった?」ハル。

「七つ全部を使う前提が入口を隠していた」とセレナ。

「八室の迷宮が七つを揃えろって言うの、趣味が悪い」とロロ。

「趣味ではなく設計思想」とアムナ。

「設計思想の趣味が悪い!」

 全員は、一直線の橋を完成させず、外された皿の下へ降りた。

 床下路は、地図にない。

 エリアが紙へ線を引く。

「待って」アムナ。

 彼女は路の幅を測る。

 壁の擦れ。

 床の磨耗。

「ここ、人が通った」

「保守員?」

「低い人も」

 第四章で見た、空白扉の小さな歩幅。

 床下路は、八室広間の下へ続く。

 エリアがこれまでの地図を重ねる。

 橋梁。

 婚姻塔。

 機関室。

 盾庭。

 証拠庫。

 夜獣檻。

 記憶井。

「七」とハル。

「扉は八枚あった」とロロ。

「空白を入れて八」カイル。

「地図上の部屋面積」とエリア。

 七室分しかない。

 空白扉の向こうは、部屋ではなく保守路だった。

「八室迷宮と表示」とセレナ。

「でも、地図に八番目がない」とハル。

「消された?」カイル。

「断定しない」

 アムナが、床へ炭で八本の線を引く。

 七本は大人の歩幅。

 一本だけ、短い。

「ない部屋へ、歩いた跡がある」

 予測されなかった小さな癖は、罠を一度だけ外した。

 その先で、もっと古い小さな歩幅が、地図にない場所を指していた。

 エリアは地図を三度重ねた。

 最初は、第四章で描いた八枚の扉。

 次に、実際に歩いた七つの標準環境。

 最後に、床下路の摩耗と空気の流れ。

「面積だけじゃない」と彼女。

 地図筆の先が、七室の中心を結ぶ。

「各室には、命令管が一本。排気が一本。戻り管が一本。八室なら八組必要。でも、壁厚を足しても七組しかない」

「最初から七室?」ハル。

「表示だけ八?」カイル。

「断定はまだ」とセレナ。

 アムナは空白扉の下で見た歩幅を、床へ写す。

 大人の一歩より短い。

 左右も揃っていない。

 右足だけ少し外へ向く。

「子供」と老女。

「小柄な大人の可能性」とセレナ。

「膝をついた人」とロロ。

「荷物を運んだ跡かも」とエリア。

 不在を見つけた時、人はすぐ人物を作りたがる。

 消された八人目。

 殺された子供。

 秘密の設計者。

 物語は、空白へ名前を入れることで速くなる。

 捜査は、空白を空白のまま運ぶことでしか正しく進まない。

「一つだけ言える」とアムナ。

「何」とハル。

「誰かが、ここを通った。今の私たちより前に。名前は分からない」

 彼女は二度言わなかった。

 まだ、覚えてよい名がないから。

 使った合図は、その場で解いた。

 苺を右へ隠す意味。

 黒羽を裏返す意味。

 靴の角度。

 工具名の順番。

 炭片の数。

 石の位置。

 セレナが一つずつ読み上げ、本人が「終了」と答える。

「終了」とハル。

「終了」とエリア。

「苺は継続保存」とカイル。

「意味の終了です」

「食料まで終了されたら困る!」

 ノクスは留め金を列へ戻し、今度は何も外さなかった。

「終了、かな」とハル。

「本人の意図は不明」とセレナ。

「それでいい」

 分からないまま尊重することも、関係の手順だった。

 迷宮の黒板は、遅れて彼らの癖を追記し始める。

 恐怖時、対象カイルは苺を――

 対象エリアは靴を――

 対象ロロは工具を――

 しかし、それらはもう合図ではない。

 記録はいつも、一歩遅れて正確になる。

 その一歩の間で、人間は次の意味を相談できる。

 床下路の先から、低い機関音がした。

 八番目の部屋がないという発見は、出口ではなかった。

 存在しない部屋へ続く足跡だけが、彼らをさらに深い場所へ招いていた。

「次に同じ通路が来ても、この合図は使わない」

 セレナが念を押す。

「使えるのに?」住民の一人。

「使えると分かった瞬間、施設も使える」

「じゃあ、癖を毎回変える?」

「変えなくていい」とアムナ。「生活を罠のために作り直さない」

 怖い時に苺を隠す。

 靴を出口へそろえる。

 工具へパンの名を付ける。

 それらをやめれば予測されにくくなるかもしれない。

 同時に、罠のために自分の暮らしを捨てることになる。

「癖はそのまま」とエリア。「意味だけ、必要な時に本人たちで相談する」

「相談も学習される」とカイル。

「相談の結論は毎回違う」

 老女が水筒を倒した。

 全員が一瞬止まる。

「ただ置いただけ」

「心臓に悪い!」ハル。

「意味を終了したって確認」

 彼女は水筒を立て、また倒す。

「今度は?」

「水が少ない。転がる」

「同じ動きに違う理由」とセレナ。

 黒板は、どちらも危険合図として追記しかける。

 しかし二度目には誰も動かない。

 記録は行動を数える。

 関係は、今の一回が何を意味するかを聞く。

 ノクスが七つの物を一度すべて散らした。

「終了?」ハル。

「ナ」

「片付けろって?」ロロ。

「本人の意図は不明」とセレナ。

 全員で片付ける。

 誰の癖も、公共の暗号表へ登録しない。

 使った事実だけを残し、意味は期限切れと書く。

 予測型から逃れるための方法を、新しい予測型へしない。