第745話 第一章「七空域が落ちる」前編
国が落ちる時、地面から落ちるとは限らない。
空路が止まり、薬が届かず、名簿が閉じ、誰が命令したか分からない一文だけが全ての門へ掲げられる。土地はそこにある。家も人も残る。それでも、昨日まで互いへ届いていたものが届かなくなれば、国は垂直ではなく関係から落ちる。
歴史家は後から地図を塗る。
この日、七つの空が同時に陥落した、と。
だが同時という言葉は、時計にとって便利で、人間にとって雑である。
学院では鐘楼が閉じた。
自由港では門が閉じなかった。
翠獣の群れは二つへ割れた。
鏡砂の町は、見えるものを信じられなくなった。
雷鎖の列車は、それぞれ別の駅で止まった。
夢灯の眠りは、起きている者から先に始まった。
逆潮の配管は、切れば助かり、切れば死ぬ状態になった。
どれも「落ちた」でまとめられる。
まとめられた瞬間、救い方だけが消える。
【現実/地図外の終端空域〈エクリプス〉・白峡谷三塔橋外周/覚醒/軍事封鎖命令から百二十三秒】
黒い艦隊は、返事より速かった。
「右、十二隻。上、十九。後ろ、数えたくない!」
ロロの報告は、最後だけ技術用語ではなかった。
「数えろ!」カイル。
「数えると直るのか!」
「直らないが、数えなければ王子の心が壊れる!」
「そっちの修理代も請求していい?」
「国費で――いや今それを言うと全空域の会計が俺へ来る!」
ゼロスター号は三塔橋の無風層へ船首を落とし、右へ四度、左へ二度、まだ決めていない進路を決めたように見せていた。
決めていないことは、迷っていることと同じではない。
候補を残している。
それは戦場では臆病に見え、戦後には賢明と呼ばれ、死者にはどちらでもない。
ハルは船首索へ右手だけを掛けた。
左肩の痛みは二。全体重を預けるな、と確認札に書いたのは一時間も前である。人は自分で書いた禁止ほど、危機になると読めなくなる。
「一」
数えた。
「二」
三を言わない。
「先行救助候補。出発時に再確認」
「再確認」とエリアが即答した。「今は出ない」
「早い!」
「確認に時間をかける役ではない」
「候補の意味、却下される可能性があるってことか」
「正確に言って。却下ではなく、現在条件に不適合」
「言い換えで傷を浅くしようとして、長く刺してない?」
上空を、黒艦の砲口が横切る。
誓星術の光はない。
終端環へ入って以来、星脈へ誓いを渡す術は使えない。黒艦も同じはずだが、魔法がないことは武器がないことと同義ではない。むしろ帝国や王国が最初に作る武器は、魔法が止まっても動く武器である。止まる可能性を知っているからだ。
鉄索射出器。
圧縮風筒。
手回し砲。
古いものは遅い。
遅いものは、止まらない。
「第一索、来る!」セレナ。
黒い鉄索が白峡谷の空を裂いた。
ハルは動かない。
「ロロ!」
「船首を三度下げる! カイル、右歯車! エリア、床へ伏せろ、踵を使うな!」
「命令者名、終了条件!」カイル。
「ロロ・ピクス! 三度下げたら終わり! 異議は舌が残ってる奴から受け付ける!」
「成立!」
手回し軸が逆転する。
ゼロスター号の船首が落ち、鉄索は赤いマフラーの上を二歩ぶん通過した。索の先端が主帆の縁をかすめ、布を一尺裂く。
「帆!」
「見えてる!」ロロが叫ぶ。「見えてるものを報告すると安心するのは、お前らの悪い癖だ!」
「見えてないものは?」ハル。
「もっと悪い!」
主帆の内側で、七枚の札が乱れた。
折れた目盛り片。
三つの風鈴を結んだ赤茶の革。
色の違う毛が増えた緑の房。
音のしない鏡片。
穴だらけの銅券。
苦い種を抱く紙灯籠。
三つの鍵で閉じる黒い配管輪。
別れた航路を結ぶ対札〈フォーク・タグ〉。
魔法通信器ではない。
遠い故郷で片方が傷つけば、こちらも傷つくという便利な奇跡は起きない。人が手で穴を開け、煤を付け、結び直し、次に会った時、離れていた年月を読むための物である。
今、会いに行く道が閉じられた。
だから札は、何も知らせない。
何も知らせないことだけを、正確に知らせている。
「二発目、上から」とセレナ。
「影へ入る」とエリア。
「無風層から出ると浮力が落ちる」とロロ。
「橋側へ索を引かせるな」とカイル。
「三つを同時に満たす道」とハル。
「ない」
「地図の人が即答するな!」
「ないことを早く言うのが地図」
「じゃあ、二つ満たして一つを後で救う」
「何を後にする?」
橋。
船。
証拠。
人。
答えの順番が、そのまま命の順番になる。
ハルは橋を見た。
白峡谷の救護所では、ネイたちが地下口へ移動している。板持ちの女がこちらを見ず、予定どおり自分たちで扉を閉めた。
「住民は地下。橋側へ索を引かれても、直撃まで七分」
セレナ。
「証拠箱は振動二まで。船首落下は一・七。影への旋回で二・四」
ロロ。
「船体は影へ一回。次は左帆が持たない」
エリア。
「なら一回で入る。橋側は七分以内に抜ける」
「誰が決めた」とカイル。
「提案、ハル。船体、住民、証拠の条件から。異議」
「王盾を使わず、個人として賛成」
「路図を連続使用しない条件で賛成」
「修理代を全員で払うなら賛成!」
「異議ではない」とセレナ。
「会計異議!」
ゼロスター号は白い峡谷の影へ飛び込んだ。
砲索が左右から交差する。
一本は空を縫い、一本は船尾の手すりを奪い、三本目はノクスが並べた七個の留め具のうち、外へ置いた一個だけを持っていった。
「ノクス!」
「ナ」
「それ、予測してた?」
「ノゥ」
「本人判断か!」
黒い夜獣は二本尾で甲板を叩く。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八つ目を叩かない。
ハルは、その時はただ、外された留め具を惜しんだ。
影へ入った直後、船底から三回、金属音がした。
敵の杭ではない。
小さい。
不規則。
「船底、何か当たった!」船員。
「何かを報告する時は、形と数!」ロロ。
「板みたいなのが一!」
「板は生きてるか!」
「質問が怖い!」
ゼロスター号の下に、修理用の小舟が引っ掛かっていた。
帆なし。
登録灯なし。
船名板なし。
白峡谷の保守員が使う、手漕ぎの点検舟である。
黒い鉄索に艇尾を取られ、ゼロスター号の落下風へ吸い上げられている。
中には二人。
一人は意識あり。
一人は伏せたまま動かない。
「助ける!」
ハルの身体が前へ出る。
一。
二。
止まる。
「左肩、現在条件!」エリア。
「全荷重なし。跳躍停止」
「役割」
「俺、声。ノクス、索の位置。カイル、船底防護。ロロ、巻き上げ。セレナ、人数と負傷。エリア、離脱路」
「自分は?」カイル。
「手を出さない」
「難易度が一番高い」
「分かってる!」
ハルは船縁へ腹ばいになる。
左肩を使わず、右手で伝声筒を持つ。
「下の人! 聞こえる?」
『聞こえる!』
「乗ってる人数!」
『二!』
「名前!」
『言わない!』
返事が速い。
「所属!」
『言わない!』
「負傷!」
『一人、頭。息あり。俺、右足を索に挟まれた!』
登録灯を持たないのは、壊れたからか。
追跡を避けるため消したのか。
敵の斥候か。
分からない。
分かるのは、二人いて、一人が意識を失い、一人の足が挟まれていること。
「救助する」とハル。
「敵かもしれない」と船員。
「救助後に調べる」セレナ。
「乗せたら船内へ!」
「甲板上の隔離区画。武器確認と救命を分ける」カイル。
「王子命令?」
「個人提案。隔離区画担当が異議を言える」
隔離担当の船員が手を上げる。
「受け入れる。ただし乗船前に刃物を箱へ。持てない負傷者は後で確認」
「成立!」
ノクスが船縁から首を伸ばす。
「ノゥ」
「索、二本?」ハル。
「ナ」
「違う?」
夜獣は二本尾で、船底を七回叩く。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
そのうち四回目だけ、音が鈍い。
「鉄索の下に、もう一本」とロロ。「小舟の救命索が船底へ食ってる。敵索だけ切ると、小舟が落ちる」
「両方巻く?」
「右手じゃ無理。補助腕へ渡す」
ロロの二本の機械腕が船底へ伸びる。
一本が敵索を固定。
一本が救命索を拾う。
右手の指は使わない。
「巻き上げ、七拍。八拍目に張力を見る!」
一拍。
救命索を一尺。
二拍。
敵索を半尺戻す。
三拍。
小舟が傾く。
『足が!』
「痛み!」セレナ。
『四!』
「巻き停止?」
『止めるな!』
「本人希望だけで続けない」とセレナ。「足の色」
『見えない!』
「触覚」
『ある! 指、動く!』
四拍。
カイルが小盾を船底へ出す。
黒艦の砲索が小舟を狙う。
「守る数、二名と舟一!」
「舟まで?」ハル。
「舟を捨てると、下の二人が落ちる!」
「正確!」
五拍。
敵索を切る。
六拍。
救命索を引く。
七拍。
小舟が船縁へ届く。
八拍目。
巻き上げを止める。
張力を読む。
小舟の底板が一枚外れかけている。
「動かすと割れる!」ロロ。
「じゃあ止めたまま、人だけ」
「本人へ聞く」とハル。
「舟は置いていける?」
『借り物だ!』
「持ち主は?」
『名を言うと追われる!』
「舟を残すと?」
『返せない!』
「命と舟、どっち」船員が叫ぶ。
『そういう二択にするな!』
ハルは笑いそうになり、笑わない。
「人を先に上げる。舟は補助索で引く。壊れたら、壊れた状態を持ち主へ返す方法を探す」
『修理代は!』
「ロロへ!」
「俺を責任の投棄場にするな!」
「見積もりだけ!」
「それなら高いぞ!」
二人を甲板へ上げる。
意識のない者は、頭部打撲。呼吸あり。
足を挟まれた者は、右足首の圧迫。骨変形なし。
武器は、小さな工具刃一本。
敵か味方かは分からない。
保守員だという証明もない。
「名前は、治療に必要な範囲だけ聞く」とセレナ。
「言わない」と負傷者。
「呼称」
「船底」
「あなたを船底と呼ぶ?」
「今だけ」
「同乗者」
「相棒」
「記録。船底、足首圧迫。相棒、頭部打撲。本人名非公開」
アムナは二つの呼称を覚えない。
治療札に必要な間だけ、札へ書く。
「助けたのに、名前も聞けない」とハル。
「助けたから聞ける権利は増えない」とアムナ。
「うん」
無登録船を止める命令は、この二人なら止める。
止めれば、相棒の治療が遅れる。
七空域が落ちるとは、こういうことである。
大きな空が壊れる前に、小さな舟の行き先が一つずつ消える。