第744話 第十二章「欠けた証言室」後編

【現実/白峡谷三塔橋・仮設救護所/常態/施設退出から二十六分】

 ウルは、ハルの顔を見る前に透明箱を見た。

 見た後、ハルの左肩を見る。

 その後で、湯の火を弱める。

「順番が人間じゃない」とハル。

「箱は逃げない。肩は隠す。湯は吹く」

 咳が三回。

 吸入薬。

 左足首へ巻いた布は、橋の救助時より乾いている。

「中身」とウル。

「俺のかもしれない方位具」

「かもしれない」

「瓶蓋に、はる。足形。年代はソウジが消えた頃の前後」

「誰と来た」

「分からない」

「来たか」

「分からない」

「よし」

「またそれ!」

「分からないものを、知ってる老人の顔で埋めてほしい?」

「少しは」

「嫌だね」

「即答!」

 ウルは話を持っている。

 終端環の古い口承。

 空白王の断片。

 名を残さなかった旅人の話。

 だが、今の方位具へ似た物語を選んで語れば、それがハルの記憶を上書きする。

「話は、証拠の代わりにならない」とウル。

「でも、証拠だけじゃ人は暮らせない」

「だから、今は飯を食え」

 ネイが裏返した外套から、平たい焼き菓子を出す。

「どこに隠してた」ロロ。

「記録されない場所」

「衛生的に公開しろ!」

「今日の名は」とハル。

「出口」

「まだ出口!」

「入って戻った人には、出口が必要」

「人の名前としてどうなんだ」

「あなたの名前より仕事する」

「俺の名前、何をしてない!」

「凪いでない。春でもない」

「名字と季節へ厳しい!」

 焼き菓子を分ける。

 カイルは苺を探し、ないことを思い出す。

 ネイが乾燥苺を一片だけ渡す。

「高い」とカイル。

「代金は、王家の封印箱を一つ減らす」

「取引が重い!」

「冗談」

「表情で分からない!」

「怖い時に食べるんでしょ」

 カイルが止まる。

「誰から」

「施設の黒板、外から見えた」

「公開済み!」

「公開範囲を決める前に見られた」とセレナ。「後で記録へ異議を付けます」

「苺だけで法的措置!」ハル。

「私生活の境界は小さな所から」とアムナ。

 カイルは乾燥苺を半分に割る。

 片方をネイへ返す。

「これは取引じゃない」

「借り?」

「分けただけ」

「一番記録しにくい」

「それでいい」

 食べる。

 迷宮で使った癖は、またただの癖へ戻る。

 ただの癖へ戻すには、誰も次の意味を勝手に付けないことが必要だった。

 食後の状態確認は、英雄談より長かった。

 ハルの左肩は、橋で索を受けた時に二から三へ上がり、今は二へ戻っている。全体重を預ける跳躍は禁止。

 エリアの両踵は二。左肺は一。ただし連続した路図の使用は次の休息まで停止。

 カイルの肋部は二、背中の炎傷周辺は一。王盾の最大出力は禁止。

 ロロは吸入後も喘鳴一。右手の痺れは三番目と四番目の指に残り、細線作業を補助腕へ移す。

 セレナは左眼の焦点差が二、右手首が二。文字の複写は他者が行う。

 アムナは負傷なし。ただし、預かった呼称を返した直後の記憶混同が一度。新しい名の集中受付は禁止。

「俺だけ、禁止が雑じゃない?」ハル。

「跳ぶな、ではなく全体重を預けるな」とセレナ。

「空中で体重を半分にする方法を」

「切断します?」ロロ。

「俺を?」

「体重を」

「どっちでも怖い!」

 ウルが咳を三回してから、確認札を一枚ずつ裏返す。

「治ったことにするなよ」と彼は言う。

「誰もしてない」とハル。

「記録は、事件欄が閉じると傷を忘れたがる」

「誰に言ってる?」

「聞いてる奴に」

 軽い負傷は治る。

 眠り、食べ、腫れが引き、筋肉が戻る。

 しかし回復とは、昨日できなかったことを今日すべてできるという宣言ではない。できる範囲を毎回測り直し、他人へ任せる箇所を更新することである。

 ハルは確認札の裏へ、自分の役割を書きかけた。

 先行救助。

 筆が止まる。

「今後ずっと?」エリア。

「いや。次の出発まで」

 先行救助候補。出発時に再確認。

 エリアも、航路決定者ではなく、航路候補提示。

 カイルは、全体防御ではなく、防御条件確認。

 ロロは、最終修理ではなく、修理分担。

 セレナは、真相確定ではなく、証拠と未確認の分離。

 アムナは、全名記憶ではなく、記録範囲の確認。

「ノクス」とハル。

 黒い二本尾が、六枚の札を一列へ並べる。

 七枚目の空札を一枚だけ外へ押す。

「本人判断」と全員が言った。

 役割は、死亡記録を外した代わりに着る新しい鎧ではない。

 必要な時に借り、終われば脱ぎ、次には別の者が着てもよい作業着である。

 救護所の掲示板へ、遠方から短い報告が届いた。

 冠都環の訓練場。

 ティアとニア。

 七拍で切れる臨時指揮権〈セブン・ビート〉の第三試験。

 一人が七拍だけ命令。

 次の一拍は空白。

 その後、別人が監査し、続行、修正、停止を選ぶ。

 結果。

 救助時間、従来より十一拍遅延。

 誤命令による負傷、ゼロ。

 権限返却遅延、一件。

 空白拍に現場判断が三件。

 うち一件、命令者の想定を上回る。

「成功?」ハル。

「試験継続」とセレナ。

「負傷ゼロなら成功でいいだろ」

「遅延によって別の危険が増える可能性。空白拍を責任逃れに使う可能性。七拍直前に過大命令を詰め込む可能性」

「規則、作るほど穴が増える」とロロ。

「穴を見つけられる規則は、穴を隠す規則より良い」とカイル。

 報告の最後に、ニアの追記。

 命令しなかった一拍を、誰の不在とも数えない。

 ティアの追記。

 一つの命令文を全掲示板へ同時表示する術〈ワン・ワード〉は、発信者名、終了拍、異議窓口を同時表示しない限り使用停止。

「二人とも、まだ続いてる」とアムナ。

「俺たちがいない場所で勝手に進む」とハル。

「世界は普通そう」とエリア。

「少しは待て!」

「待たれて傷つくの、嫌いでしょ」

 ハルは返事を失う。

「それとこれとは別!」

 報告へ返事を書く。

 八室迷宮で、七拍交代と空白一拍が予測罠へ有効。

 ただし、固定した手順として学習される可能性。

 毎回、権限の対象、終了、監査者、異議方法を確認。

「助かった、も書く」とハル。

「感想欄」とセレナ。

「必要?」

「必要です。制度へ作用した結果と、関係へ作用した結果は別」

 助かった。

 短い一行。

 ティアとニアの試験は完了しない。

 七拍非常権限は、便利な正解として配られない。

 それでも、別の場所で生まれた未完成の手順が、迷宮で人を一人にしなかった。

 七枚の掲示板が点灯した時、最初に消えたのは風ではない。

 商船の灯りだった。

 冠都環の空路灯。

 翠獣環の移動森標。

 鏡砂環の反射門。

 雷鎖環の列車信号。

 夢灯環の紙灯。

 逆潮環の潮刻。

 終端環の白峡谷標。

 一つずつではない。

 同時。

 世界規模の命令は、歴史上いつも速い。

 地域ごとの事情を聞かないからである。

 一つの命令文。

 一つの停止時刻。

 一つの敵味方分類。

 速さは統一の美点であり、統一は遠方の痛みを見えなくする技術でもある。

「掲示板、誰が接続」とロロ。

「既存の公的網」とセレナ。「ワン・ワードと同型ですが、発信者欄が空白」

「ティアの停止条件、全部ない」とハル。

 署名なし。

 終了拍なし。

 異議窓口なし。

 文面だけが、七空域へ同時に届く。

 終端側航路、軍事封鎖開始。

 空域間移動、停止。

 未登録船、停船。

 ゼロスター号は、終端環の未登録船である。

「停船する?」カイル。

「誰の命令か不明」とハル。

「不明だから無視、も危険」とエリア。

「停船した場合の位置」とロロ。

 白峡谷三塔橋の上。

 民間救護所。

 迷宮から出た住民。

 透明箱。

 封印した記録。

 ここで戦えば、全部を巻き込む。

「移動する」とハル。

 言い切りかける。

 止める。

「提案。救護所から離れる。停船命令への応答は、発信者、範囲、検査条件を確認してから。攻撃された場合は逃げる。追撃を住民側へ向けない」

「進路」とエリア。

「俺は決めない」

「候補を三つ」

 エリアが地図を開く。

 北の白風帯。

 迷宮外周の影。

 三塔橋下の無風層。

「白風帯は速度、影は証拠保全、無風層は住民から遠い」と彼女。

「船体」とロロ。

「白風帯、左帆が持たない。影、旋回二回まで。無風層、浮力不足」

「王盾」とカイル。

「使えば位置を知らせる」

「証拠」とセレナ。

「透明箱は振動二以下。無風層が最良」

「住民」とアムナ。

 板持ちが答える。

「ここに残る。船は離れて」

「攻撃されたら」とハル。

「三塔橋の地下へ退避する。入口は私たちが決める」

「承知」

 誰かを守るため、誰かの場所を勝手に選ばない。

 ゼロスター号へ、封印した軸と記録の一部だけを積む。

 残りは三者鍵で迷宮側へ。

 透明箱は振動台へ。

 ハルは甲板へ上がる。

 黒い線が、白い空へ増える。

 一隻。

 十隻。

 百。

 数える意味がなくなるほど。

 七空域それぞれで、同じ包囲灯が灯っていると掲示板が示す。

 冠都環。

 翠獣環。

 鏡砂環。

 雷鎖環。

 夢灯環。

 逆潮環。

 終端環。

 過去の仲間たちがいる空。

 ゼロスター号がいなくても暮らしが続いている空。

 今、その全部が同じ命令で閉じられようとしている。

「呼びかける」とカイル。

「誰へ」とセレナ。

「全艦。ただし投降宣言ではない。民間救護所と証拠保全船であること。検査条件の提示要求。発信者署名要求」

「王太子名を使う?」

 カイルは一拍考える。

「個人名。王位命令にはしない」

「王家の権威を使わないと弱い」とハル。

「使うと、全員を俺の後ろへ置く」

「じゃあ、個人名」

 セレナが文面を作る。

 エリアが到達範囲を確認。

 ロロが送信機を手動へ切り替える。

 アムナが公開してよい名前を確認。

 ノクスは七つの送信灯の一つを外へ押す。

「何で!」ロロ。

「ナ」

「本人判断」

 外された一灯は、終端環の公的網へつながっていた。

「中央網を使わない?」ハル。

 ノクスは別の手動灯を尾で叩く。

「旧救難周波数」とロロ。「遅いけど、発信源を中央へ渡さない」

「採用」とカイル。

 文面を送る。

 返事はない。

 軍艦の黒線だけが近づく。

 ハルの身体が前へ出る。

 走る。

 飛ぶ。

 敵船へ先に乗る。

 死亡記録が予測した手順。

 彼は、甲板の端で止まる。

「一」と数える。

「二」

 三を言わない。

「役割を決める」

「最初に?」エリア。

「最初に、何が分かってないか」

 命令者。

 目的。

 封鎖範囲。

 各空域の被害。

 検査条件。

 解除条件。

 民間避難路。

 セレナが列挙する。

 ロロは船体の時間。

 カイルは住民の退路。

 エリアは三つの進路。

 アムナは名前の公開範囲。

 ノクスは本人判断。

 死亡記録は、彼らがどう死ぬかを詳しく書いた。

 橋へ走る。

 塔へ残る。

 機関を直す。

 盾を最大へする。

 証言を埋める。

 名前を抱える。

 彼らは、それらを捨てなかった。

 助ける。

 描く。

 直す。

 守る。

 確かめる。

 覚える。

 ただ、他人の返事が入る場所を一拍ずつ作った。

 七つの空が閉じ始める。

 ゼロスター号は、まだ進路を決めない。

 逃げるために止まる。

 守るために聞く。

 進むために、誰も命令しない一拍を置く。

 その空白だけは、死亡記録にも、軍事封鎖の命令文にも書かれていなかった。