第747話 第二章「八拍目を空ける」前編
合図には、二種類ある。
何かを伝える合図と、何かを伝えないことを伝える合図である。
前者は旗を上げ、鐘を鳴らし、文字を書き、名を呼ぶ。
後者は旗を下ろし、鐘を止め、空欄を残し、呼ばない。
人間の制度は、前者を記録しやすい。
鐘が鳴った、命令が出た、署名があった。
後者は記録しにくい。
鳴らさなかったのか、壊れていたのか。
答えなかったのか、答えられなかったのか。
名を書かなかったのか、書く権利がなかったのか。
ゆえに権力は、空白を都合よく読む。
沈黙は同意。
欠席は委任。
無記名は存在しない。
空白を空白のまま残すには、文字を書くより多くの技術が要る。
【現実/終端空域・白峡谷旧救難柱裏/覚醒/全通信途絶から三十七分】
アムナは、七人の名前を一度も呼ばなかった。
「目盛り」
ティアの札を左へ置く。
「鈴」
ミラの札を右へ。
「毛」
ガンガ。
「鏡」
ユノ。
「券」
イヴァ。
「灯」
ソムナ。
「輪」
ニア。
「名前を避けてる?」ハル。
「預からない」
「もう知ってる名前だろ」
「知っている名前も、並べ直すと新しくなる」
アムナは黒い指を甲板へ置いた。
昨日まで、名前は人を見つけるための手掛かりだった。
今日から、七つの戦線を一人の頭へ集めるための索になる。
索は便利である。
便利な索は、引けば全員を同じ方向へ倒せる。
「集中受付は禁止」とセレナが言った。
「負傷してないのに?」ハル。
「記憶混同が一度。身体の出血だけが活動制限ではありません」
「じゃあ俺が名前を」
「あなたは場所を混ぜる」とエリア。
「迷うだけだ!」
「それを場所の混同と言う」
「方向は分からなくても、人は分かる!」
「人を覚えて、どこにいるか分からない」
「今まさにそれ!」
ハルは七枚の札を見た。
どこにいるか分からない。
何が起きているか分からない。
助けを求めているかどうかさえ分からない。
分からないものを名前で呼ぶと、分かった気になる。
だからアムナは、物で呼んだ。
目盛り。
鈴。
毛。
鏡。
券。
灯。
輪。
人ではない。
人の代わりでもない。
ただ、こちらが持っている物の名前である。
「私は七人を代表しない」アムナ。
「誰も頼んでない」とハル。
「頼まれてなくても、並べると代表に見える」
「じゃあ並べない?」
「並べる。見失わないため」
「矛盾が増えた」
「矛盾ではなく条件」
アムナは、七枚の間隔を同じにしなかった。
目盛りと鈴の間は指二本。
鈴と毛は四本。
鏡は裏返し、券は穴の多い側を船首へ向ける。
灯は他の札から一歩離し、輪の中央へは何も置かない。
ハルには乱雑に見える。
エリアは膝をつき、角度を測った。
「地理?」
「違う」アムナ。
「時刻?」
「違う」
「重要度?」
アムナの煤色の瞳が上がる。
「それを作らない」
「正確に言って」とエリアが自分へ言うように呟いた。「配置は、札が持つ差を消さないため」
「うん」
人は整列させると比較する。
比較すると順位を作る。
順位を作ると救助順へ変える。
救助順は必要である。
しかし物の並びから勝手に作るべきではない。
白峡谷旧救難柱は、救難されるべき外見をしていた。
柱と呼ばれているが、半分は倒れ、半分は岩壁へ食い込み、残り半分は存在しない。半分が三つあるのは計算違いではない。修理工が「元の半分」と「後から足した半分」と「税務上まだ残っている半分」を別々に数えた結果である。
「行政の分数、物理を超える」とハル。
「請求書ではよくある」とロロ。
「慣れるな」
柱の内部には、星脈通信が普及する前の救難筒が残っていた。
風圧で薄い金属筒を飛ばす。
峡谷の中継柱へ届けば、誰かが次の筒へ詰め替える。
届かなければ落ちる。
拾われなければ終わる。
遅い。
不確か。
文量が少ない。
そして、中央網を必要としない。
「使える?」カイル。
ロロが筒口へ二本の補助腕を差し込んでいる。
「使える、を何と定義する」
「送ったものが届く」
「それなら不明」
「発射できる」
「一発」
「二発目は?」
「王子の礼装箱を拾ってきて圧縮弁に加工すれば」
「落としたことをいつまで責める!」
「落としたの俺だ!」
「自分を責める形で俺を責めるな!」
ロロは笑わない。
右手の第三指と第四指を開き、閉じ、動きの遅れを確認した。細い弁線へ触れようとして止まり、補助腕へ渡す。
「細線は俺の右手にやらせない。二本目の弁を作るなら六時間。敵が待つなら」
黒艦隊は峡谷上へ静止している。
待っているのではない。
逃げ道が閉じるのを見ている。
「一発」とハル。
「誰へ送る」とカイル。
七枚の札。
選ぶ。
選ぶことは、他を選ばないことである。
「一番危険な場所」とハル。
「分からない」とセレナ。
「一番近い」
「学院方面の旧柱が最短」とエリア。「ただし今の風戸配置なら、到達率は二割以下」
「一番届きやすい?」
「それが学院」
「じゃあ学院」
「学院を優先?」カイル。
「届く可能性を優先」
「同じに聞こえる」
「違う。最初に受け取る人を、一番大事な人にしない」
ハルは自分で言って、少し驚いた。
最初とは順位ではない。
入口である。
入口が一つでも、そこから先を一つにしなければよい。
「学院には七拍手順の試験記録がある」とセレナ。「受信後、内容を理解する可能性が最も高い」
「だから学院」とアムナ。
「内容は?」
全員が彼女を見る。
アムナは見返さない。
七枚の札を見る。
「内容を送らない」
「金属筒を空で送るのか」とロロ。
「空だと、落としたか盗られたか分からない」とセレナ。
「空を入れる」
「入ってる」とハル。
「長さを」
アムナは、ティアの折れた目盛り片を取った。
規則剣の七から十二の間で折れた金属片。
学院側の対札には、マオが新しい目盛りを刻んでいる。
船側の札にも、再会時に写した浅い一本が増えていた。
「七つ、刻む」
薄い救難帯へ、目盛り片を押し付ける。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八つ目の幅だけ、何も刻まない。
その後に、もう一度七つ。
「周期」とエリア。
「七拍行動。八拍目、空白」
「空白で何をする」ハル。
「受け取った人が決める」
「続ける、止まる、変える?」
「うん」
「それをどう伝える」
「伝えない」
「また!」
「八拍目に、同じ動きをしない」
「同じにしないことだけを同じにする」とカイル。
「王族が言うと危険な標語になる」とセレナ。
「今のは個人の感想だ!」
アムナは救難帯の裏へ、文字を三行だけ書いた。
七拍の間だけ動く。
八拍目は、誰の命令にも数えない。
次の七拍を続けるか、変えるか、止めるかは、その場所で決める。
「文章がある」とハル。
「最初だけ」
「以後は?」
「拍だけ」
通信不能の戦場で長文を送り続けることはできない。
だが最初の一枚だけ届けば、鐘、灯、鼓、車輪、配管、足踏みへ翻訳できる。
「敵に読まれる」とカイル。
「読まれて困る?」アムナ。
「時刻を知られる」
「敵も七拍を打てる」セレナ。
「なら暗号としては失敗」とハル。
「暗号ではない」とアムナ。
「何?」
「約束でもない」
「何なんだよ」
「余白」
敵が八拍目を空けても、地元の人が何を選ぶかまでは奪えない。
敵が続行の拍を真似ても、誰が従うかを中央から確定できない。
秘密ではなく、選択を隠さない仕組み。
「全員が八拍目に勝手なことをしたら、同期しない」とエリア。
「勝手にしていい時刻だけ同期する」
「その後の行動はばらばら」
「うん」
「それで同盟?」カイル。
「同じ命令に従うのが同盟なら、軍事封鎖の方が完成してる」
アムナの声は小さい。
小さい声は穏やかとは限らない。刃が薄いほど、深く入ることがある。
カイルは一度、息を止めた。
「反論できないのが腹立たしい」
「王子、腹立つと正直」とハル。
「怖いと冗談が増えるお前に言われたくない!」
「俺はいつも冗談が多い!」
「常時怖いのか!」
「世界が怖くないと思ってるのか!」
「急に正論で殴るな!」
ロロが救難筒の蓋を床へ落とす。
「喧嘩は八拍目にしろ!」
「八拍目は誰の命令でもない!」
「だから好きに喧嘩しろ!」
「制度の悪用が早い」とセレナ。
最初の救難帯には、名前を書かなかった。
差出人を書く欄へ、七枚の札の擦り跡を重ねた。
目盛りの角。
革札の縫い穴。
毛房の不ぞろいな端。
鏡片の欠け。
銅券の穴列。
紙灯籠の種の丸み。
配管輪の三鍵跡。
「これで誰からか分かる?」ハル。
「一人からではないと分かる」とアムナ。
「偽造は」セレナ。
「できる」
「即答」
「札を見たことがある人なら」
「敵が船を調べていたら作れる」とエリア。
「だから、受け取った側は従わない」
「合図を送るのに従わせない」ハル。
「うん」
「送る意味が逃げてない?」
「合図は、判断を始める時刻」
命令の形にはしない。
正しさの証明でもない。
見知らぬ誰かが、同じ頃に判断を始めたという知らせだけ。
それでも孤立した戦場では、意味がある。
自分だけが勝手に退いたのではない。
自分だけが保留したのではない。
遠い場所でも、命令のない一拍を作ろうとしている者がいる。
孤独を消さない。
孤独を一人だけの責任にしない。
「名前を書く」とカイル。
アムナが彼を見る。
「差出人名」
「書かない」
「匿名命令と同じになる」
「命令じゃない」
「受け取る側には分からない」
カイルは、封鎖命令の空欄を指で叩いた。
「俺たちは発信者不明を危険だと言った。自分たちだけ、これは命令ではないから匿名でいい、は通らない」
「七人の名を書くと、アムナへ集中する」とハル。
「七人は発信していない」セレナ。
「ゼロスター号?」ロロ。
「船に命令責任を負わせるな」とカイル。
「船は修理代も払わねえ」
「そこへ戻すな!」
アムナは考えた。
誰が送る。
誰が責任を持つ。
誰の言葉ではない。
「作成者、アムナ」
自分の名を書く。
二度復唱する。
「アムナ・エクリプス。アムナ・エクリプス」
黒い指が、一瞬止まる。
「提案確認、船内六者と一頭。七地域の同意は未確認。受信者は採用、変更、破棄できる」
「長い」とロロ。
「削る?」
「削るな。筒を長くする」
「一発しか送れないのに」
「一発だから削るな」
ロロは壊れた弁筒を二寸伸ばした。
カイルが手回し圧縮器を回す。
エリアが風戸の開閉周期を測る。
セレナが文章の時制を確認する。
ハルは敵艦の砲口を数える。
ノクスは、筒を七回嗅いで、一度だけ顔をそむけた。
「嫌?」ハル。
「ナ」
「どっち?」
「本人判断」と全員。