第748話 第二章「八拍目を空ける」後編
問題は、筒の中に、すでに別の手紙が入っていたことだった。
ロロが装填口を覗き、補助腕の先を止める。
「詰まり」
「取れる?」ハル。
「取るだけなら」
「なら取って」
「取って捨てるなら、だ」
風圧筒の奥に、古い真鍮筒が噛んでいる。
緑青。
表面に三つの打痕。
封は切れていない。
「いつの?」カイル。
「救難柱の形式は百年前。筒の腐食は、少なくとも三十年」とロロ。
「手紙、まだ配達中?」
「途中で止まった配達を、終わったと呼ぶな」
ハルは口を閉じた。
今日送る合図のために、昔届かなかった合図を捨てる。
それは効率的である。
そして、今の自分たちが助けられる価値を、過去の誰かより高いと決める行為でもある。
「開ける?」ハル。
「宛先を確認するため」とセレナ。
「内容は?」
「封が生きている。勝手に読む権限なし」
「宛先が読めない」
「外側を洗う」
アムナが真鍮筒へ手を伸ばし、止めた。
「触っていい?」
持ち主は答えない。
答えられない者の沈黙を、同意には数えない。
「証拠布で」とセレナ。
カイルが布を渡す。
アムナは直接触れず、筒を包む。
煤色の指が、布越しに三つの打痕をなぞる。
「名前じゃない」
「記号?」
「古い救難区分。火、井戸、子ども」
「全部?」ハル。
「三つ並んでる」
「火事で、井戸に、子ども?」
「順番も関係も不明」
「開ければ分かる」
「分かるために、誰かの封を破る?」
ハルは一歩出かける。
一。
二歩目で止まる。
「今、開けない」
「今、だけ?」アムナ。
「届け先か、読む権限のある人を探す」
「見つからなければ?」
「その時、また決める」
「決めないを、永遠にしない?」
「しない」
セレナが記録する。
『旧真鍮救難筒。一。未開封。外面区分、火・井戸・児童。除去理由、現行風路確保。内容非閲覧。保管者、ゼロスター号証拠箱。再判断条件、宛先または権限確認。』
「長い」とロロ。
「削る?」ハル。
「削るな。証拠箱を大きくする」
「さっきと同じ!」
「大事な答えは、何度でも高い!」
詰まりは、真鍮筒だけではなかった。
奥に、鳥の巣。
乾いた草。
白い羽。
小さな骨。
「住人あり」とカイル。
「死んでる」とハル。
「巣の外に、新しい糞」とエリア。
「今も使ってる鳥がいる」
「筒を撃てば」
巣が吹き飛ぶ。
救難柱を救難に使うため、そこに暮らすものを追い出す。
「鳥へ避難命令を?」カイル。
「発信者名、終了時刻、異議窓口を付けろ」とロロ。
「鳥語は?」
ノクスが鼻を入れる。
「ナァ」
「本人判断」とハル。
夜獣は巣へ顔を近づけ、七回、短く息を吐く。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八つ目はない。
奥から、灰色の小鳥が一羽、飛び出した。
命令を理解したのではない。
同じ間隔で風が来て、次の風が来ない一拍に、自分で外へ出ただけである。
「最初の受信者」とハル。
「採用したとは限らない」とセレナ。
「でも出た」
「観測」
ロロは巣を壊さない。
補助腕で丸ごと引き抜き、救難柱の裏側へ固定する。白い羽を一本も筒内へ残さない。異物を除去するという仕事と、生き物の住居を消すという仕事を同じにしない。
「右手」とセレナ。
「細線、補助腕。本人の指は使ってない」
「喘息」
「一。埃二」
「吸入器」
「済み」
「記録」
「監査が細かい!」
「細かい事故が人を殺す」
風路の奥が見える。
錆。
砂。
昔の油。
その先に、一本だけ生きた細管。
エリアが白粉を落とす。
粉は奥へ行かず、戻る。
「逆風」
「送れない?」ハル。
「今は」
「いつ」
「九十七秒後、峡谷圧が反転する」
「一分半」
「その間に、筒の重さを合わせる」
ロロが新しい救難筒を量る。
重い。
アムナの責任文を削らないと、標準より三匁超える。
「長くした分」とカイル。
「礼装箱の真鍮が重いんだ!」
「俺の礼装箱が、歴史上初めて役立ってる」
「落とした物を功績にするな!」
ハルが赤いマフラーの端を見た。
「これ、切る」
「駄目」とエリア。
「即答!」
「濡れると重さが変わる。布は規格外」
「友情の布が規格に負けた」
「友情を風路へ詰まらせないで」
カイルが王家の礼装用銀留めを外す。
「これなら」
「高い」とロロ。
「軽いだろ」
「値段!」
「戦争が終わったら請求」
「誰に」
「俺個人」
「王子が個人を名乗ると会計が一番面倒なんだよ!」
銀留めを圧縮弁の釣り合いへ使う。
救難筒は規格内へ入る。
王家の品が、王命を運ぶためではなく、受信者が破棄できる合図を運ぶために使われる。
歴史は、そのような用途変更を革命と呼ぶことがある。
当人たちは、重さ合わせと呼んだ。
救難筒を装填する。
旧柱の上には、白峡谷へ通じる細い風穴がある。
風戸が閉じている今、九十七秒ごとに岩の圧力差が一度だけ逆転する。その瞬間なら、筒は峡谷外へ押し出される。
「到達先」とハル。
「最初の中継柱まで」とエリア。「その先は、柱番が生きているか、風路が残っているか、誰が拾うかで変わる」
「学院まで何回」
「最低十四回の手渡し」
「多い!」
「人間の通信は本来そうだった」
歴史が高速通信を発明した理由は、遠い人を近くするためだけではない。
十四人へ責任を渡す手間を、一つの中央機械へ集めるためでもある。
速くなる。
便利になる。
そして中央が閉じれば、全員が同時に黙る。
「あと十二秒」とエリア。
黒艦一隻が救難柱の向きを変えたことに気づく。
砲口が下がる。
「撃たれる」とセレナ。
「発射を早める?」ハル。
「早めれば岩壁へ刺さる」とエリア。
「止める?」カイル。
「一発だけ」とロロ。
アムナは救難筒へ手を置く。
「七拍」
ハルが言う。
「何を?」
「砲撃まで。七拍だけ、守る」
「終了後」
「俺は伏せる。次はカイル」
「王盾最大なし。右舷だけ」とカイル。
「成立」
一拍。
黒艦の砲蓋が開く。
二拍。
ハルが右腕の索を柱へ掛ける。
三拍。
カイルが盾型籠手を半開にする。
四拍。
ロロが圧縮弁を固定する。
五拍。
エリアが風穴の白い粉を読む。
六拍。
セレナが証拠箱へ身体を寄せる。
七拍。
「発射!」
アムナが弁を押す。
薄い金属筒が白峡谷へ飛び出した。
同時に手回し砲が鳴る。
ハルは前へ出ない。
伏せる。
八拍目。
誰も命令しない。
カイルが自分で盾を一尺だけ上げる。
砲弾は盾の縁を叩き、救難柱の上半分を砕いた。破片が甲板へ雨のように落ちる。
救難筒は見えない。
ハルは船縁へ走りかけた。
一。
二。
三歩目を出さない。
「追う?」エリア。
「追えば、学院までの道を確認できる」
「救難筒より先に、黒艦へ道を教える」
「じゃあ見失う」
「最初から、見届けられない方式」
「送りっぱなしって無責任じゃない?」
「受信者へ選択を渡すことと、放置は違う」とカイル。
「どこが」
「途中の中継者が、自分の判断で渡せる。俺たちが全員へ命じない」
「十四人が捨てるかも」
「捨てられる」
「敵が拾うかも」
「拾える」
「変えられるかも」
「変えられる」
「弱い合図」
「強い命令より、弱い提案を送ると決めた」
ハルは白峡谷を見る。
何も見えない。
旧救難柱は、次の中継点まで直線ではない。
風穴は三つへ分かれる。
北は学院方面。
東は古い牧場。
下は、地図から消えた保守集落。
筒は風圧だけで北へ行くはずだった。
はず、である。
岩の崩落で風向きが変わっていれば、東へ行く。
下の集落に誰かが残っていれば、拾うかもしれない。
「宛先を学院へ固定し過ぎた?」ハル。
「学院方面」とエリア。「筒の外面には、受信者変更可」
「牧場の人が拾ったら」
「自分の場所へ使ってよい」アムナ。
「学院に届かなくなる」
「学院だけを大事にしたい?」
「違う。最初に選んだから、届いてほしい」
「選んだ責任を、到着の強制へ変えない」
アムナの言葉は静かである。
静かな言葉は、優しいとは限らない。
自分が手放したものへ、まだ所有者の顔をしているハルの指を、一つずつ外す。
灰色の小鳥が風穴へ飛び込む。
先ほど巣から出た鳥。
救難筒を追うのではない。
自分の餌場へ戻るだけだろう。
白い羽が一度、北の穴へ見える。
次に東。
最後は消える。
「鳥でも分からない」とハル。
「鳥は案内役を引き受けていない」とセレナ。
「何も引き受けてくれない」
「こちらが勝手に役を与え過ぎる」
カイルが砕けた柱の断面を確認する。
「二発目は無理か」
「今は」とロロ。
「六時間なら」
「新弁。だがここへ留まれば黒艦に囲まれる」
「移動しながら作る?」ハル。
「揺れる船で、右手の細線作業なし。補助腕二本は帆修理。工程を分けるなら十二時間」
「時間が増えた」
「安全条件を足した」
「正確」エリア。
ゼロスター号は、旧救難柱から離れ始める。
真鍮の古い未配達筒は証拠箱へ。
新しい筒は空へ。
一つは届かなかった過去。
一つは届くか分からない現在。
どちらも、届かなかったと決めるには早い。
アムナは甲板の七つの傷へ、八つ目を刻まない。
「返事が来たら?」ハル。
「読む」
「来なかったら?」
「来ないことを、拒否とも同意とも決めない」
「ずっと分からない」
「分からないまま、次の判断をする」
人は、確かな返事が来てから行動できるほど長く生きてはいない。
だからこそ、返事がない場所へ勝手な返事を書き込まない技術が必要になる。
撃ち落とされたのか。
風へ乗ったのか。
岩壁へ刺さったのか。
「届いた?」ハル。
「分からない」とエリア。
「音」
「聞こえない」
「遠眼鏡」
「見えない」
「零星針」
「光ってない」
「ノクス」
夜獣は鼻を上げ、白峡谷の風を吸う。
「ノゥ」
「分からない、か」
「ナ」
「どっちだ!」
答えはない。
最初の合図は、学院へ向けて送られた。
学院へ届いたかは分からない。
届かなければ、ただの金属筒が一つ、空へ消えた。
届いても、ティアが採用するとは限らない。
採用しても、同じ意味には使わないかもしれない。
それでよい、とアムナは言わなかった。
よいかどうかを、ここで決める権利はないからである。
彼女は甲板へ七つの傷を刻み、その次の幅だけ手を止めた。
八拍目。
誰かが返事をするためではない。
返事をしないことまで、自分で選べるようにするための空白だった。