第762話 第九章「三鍵なしに切らない」後編
中央命令が二度目に届く。
『主圧路B-0。許容損失超過前に切断せよ。応答不要。』
応答不要。
異議を言うな、ではない。
返事を聞く仕組みを用意していない。
壁の白い切断把手が、自動で起き上がる。
昔の一人用把手。
「残ってたのか!」作業員。
「色を塗っただけ」とエメ。
把手がニアの署名紋を探す。
成功基準第三版の登録者。
彼女が近くにいるだけで、旧制度は本人の同意とみなそうとする。
「離れろ!」
ニアは動かない。
「離れると、自動承認までの距離条件を満たす」
「近くても紋を取られる!」
「機械腕を外す」
二本の補助腕を、背の架から切り離す。
金属腕が床へ落ちる。
ニアには、自分の手が残る。
触覚のない両手。
切断術を使うには足りる。
だが白い把手の読み取りは、機械腕に残る旧登録紋を追う。
「腕を捨てた!」
「置いた」
「同じだ!」
「回収条件がある」
ロロなら怒る、とニアは思う。
思っても、名前を言わない。
エメが白い把手の根元へ工具を入れる。
「壊す?」
「証拠を残す」ニア。
「止めるのに壊さない?」
「動力索だけ外す。把手、命令文、読み取り部は保全」
「遅い」
「遅さを欠点として」
「それを言う暇で一本外せ」
エメが索を抜く。
ニアは触覚のない指で、外れた索を受ける。
落とす。
拾えない。
作業員が拾う。
「謝らなくていい」と作業員。
「言ってない」
「顔」
「感覚がない」
「顔にはある」
ニアは一拍置く。
「ありがとう」
「今、時間使った!」
「必要」
白い把手が止まる。
中央命令は残る。
切断だけを止め、命令があった事実を消さない。
機械腕を再接続する。
右側、一。
左側、一。
残り四本の接続口は空。
「動作」エメ。
「右、九割。左、八割」
「触覚」
「ゼロ」
「怖さ」
「質問範囲外」
「三」
「決めるな」
「顔」
「……三」
「記録」
ニアは自分で書かない。
作業員へ言う。
「触覚なし。恐怖三。単独切断衝動、二」
作業員が筆を止める。
「そこまで書く?」
「書かないと、切らなかった事実だけが残る」
「切りたかった?」
「速いから」
「悪いこと?」
「分からない。速い方法を知っていることは悪くない。速い方法しか考えられなくなるのが危険」
通話管から、上層の声。
「代表、湯屋を出た。保育部屋十九、全員確認。横退路弁、中央鍵なしでも手動開放できる」
「到着予測」
「十二分」
「短くなった!」作業員。
「寄ったから、情報が増えた」とエメ。
「急いだら九分だった!」
「何も知らずに九分」
「知って十二分」
「どちらを選ぶ」
作業員は白い把手を見る。
答えない。
「沈黙を賛成に数えない」とニア。
「まだ決められない」
「記録」
代表は来る。
破裂も近づく。
時間は、正しさを待たない。
だから正しさを捨てるのではなく、待つ間に別の仕事をする。
三つの鍵。
構造鍵――ニア。
現場鍵――エメ。
住民鍵――上層居住区から選ばれた代表。
三者の鍵でのみ行う切断〈トライ・ロック〉。
代表は、逆流した昇降筒の向こうにいる。
到着まで十四分。
「待つ間」とニア。
「待つな」とエメ。
「何をする」
「管を切らずに圧を逃がす」
主圧路の脇に、旧保守管が七本ある。
細い。
錆びている。
一本ずつなら、全圧の三パーセントしか逃がせない。
七本で二十一パーセント。
「開ければ破裂まで二十二分へ延びる」と作業員。
「四分買える」とニア。
「一本開けるのに二分!」
「七人で開ける」
「同時に開けたら圧が偏る!」
「七拍で一つずつ。八拍目に値を見る」
壁内の古い連絡管が、七回鳴る。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八つ目が鳴らない。
どこから届いたか分からない。
敵かもしれない。
黒い配管輪の航路札が、隣の管振動で揺れる。
輪は三つの鍵で留められている。
「採用?」作業員。
「変更」とニア。
「何を」
「七拍で一本開けない。一拍ごとに、一工程」
ナットを緩める。
圧を読む。
支えを入れる。
弁を半分。
漏れを確認。
人を離す。
弁を全開。
八拍目。
何もしない。
数値だけを見る。
「遅い!」
「一本を七拍で開ける。七本で四十九拍」
「二分より速い」とエメ。
「でも一人が全部できる」
「しない」ニア。
七人へ工程を分ける。
触覚のある者。
数値を読む者。
弁を回す者。
漏水を見る者。
退路を確認する者。
ニアは構造全体を読む。
自分の手で最終弁を切らない。
第一保守管。
一拍、ナット。
二拍、圧。
三拍、支え。
四拍、半開。
五拍、漏れ。
六拍、退避。
七拍、全開。
八拍目。
一号計、十一。
二号、十七。
三号、七。
「下がった?」
「一号だけ」
「詰まりが動いた」とエメ。
「次、二号計を外す」
「計器を外したら圧が分からない!」
「壊れた計器を残すと、分かったふりができる」
二号計を外す。
蒸気が噴く。
作業員が顔を背ける。
エメは右手で布を当て、左手の欠けた指側を使わない。
「肺」とニア。
「一」
「顔は」
「お前らの船で流行ってる監査を持ち込むな」
「顔、二」
「必要とする。心配は要らない」
「心配は、必要か聞かない」
「なら邪魔するな」
第二保守管。
第三。
四本目で、上方の海が揺れた。
重力方向が反転する。
工具が天井へ飛ぶ。
作業員一人が足を取られる。
ニアの機械腕が伸びる。
人をつかむ。
圧力計では、身体の痛みは読めない。
触覚もない。
「腕、締め過ぎ!」
「数値」
「痛み四!」
ニアは即座に緩める。
「二」
「まだ三!」
「補正」
「人を校正すんな!」
エメが作業員の腰へ索を回す。
「本人へ聞け」
「どこを持つ」ニア。
「上着。腕は痛い」
「承知」
機械腕を上着へ移す。
救助は成功。
右上腕に圧迫痕。
負傷をゼロと書かない。
五本目を開けた時、敵側の切断音が聞こえた。
主圧路の向こう。
黒い壁一枚を隔てた別保守区画。
金属刃が管へ入る。
「敵も切る!」作業員。
「どこを」とニア。
「反対側の支線。あれが切れたら圧がこっちへ!」
「何分」
「三分!」
「三鍵を待てない!」
ニアの機械腕が、切断線へ向く。
自分が先に主圧路を切れば、敵の切断が意味を失う。
上層六百二十と未登録住民を捨て、下層二千以上を残せる。
数字は明確である。
「ニア」とエメ。
「残せる数、二千から四千」
「切られる数」
「六百二十以上」
「顔」
「必要?」
「必要とする」
ニアは答えない。
「切りたい?」エメ。
「早い」
「質問は、したいか」
「したくない」
「切らない理由を、善人だからにするな」
「三鍵がない」
「それだけ?」
「一人で決めると、次も一人で決められる」
「今死ぬ人は、次の制度を見ない」
「だから手作業」
「間に合わなければ」
「責任を取る」
「死者へどうやって」
「取れない」
ニアは認めた。
「取れない責任を理由に、他人へ切断を命じない」
エメは欠けた左手で、現場鍵を握る。
「私は待つ。赦したからじゃない」
「知ってる」
「お前の三鍵が正しいと思ったからでもない」
「知ってる」
「住民代表が来るまで、六本目を開ける方が、今は残せる数が多い」
「成立」
「契約じゃない」
「必要判断」
「言葉遊び」
「値を分ける」
六本目。
一拍、ナット。
二拍、圧。
三拍、支え。
敵側の刃が深くなる。
四拍、半開。
主圧路の警報が赤から白へ変わる。
色だけでは意味がない。
警報音が、長二・短一へ。
五拍、漏れ。
天井海から、黒い水が逆流する。
六拍、退避。
住民代表の昇降筒が見える。
「来た!」
筒は途中で止まる。
重力反転。
代表が天井側へ投げ出される。
七拍、全開。
八拍目。
何もしない。
ニアは切断線へ手を出さない。
エメは鍵を回さない。
作業員たちは代表へ索を投げる。
敵側の切断音が、一度だけ止まった。
「なぜ」と作業員。
「分からない」とニア。
壁の亀裂から、向こう側が細く見える。
黒い外套。
顔は覆われている。
切断刃を持つ兵士が三人。
その足元へ、こちらと同じ住民避難索が通っている。
索の先に、子どもの靴。
敵兵の一人が刃を上げたまま、止まっている。
命令を拒否したのか。
故障か。
こちらの八拍目を真似たのか。
別の理由か。
断定できない。
「三鍵」とエメ。
住民代表が、索へつかまる。
あと三歩。
「敵、止まってるうちに切れ!」作業員。
「三鍵なしに切らない」とニア。
「向こうが再開したら!」
「その時も、三鍵」
「頑固!」
「制度」
「同じ?」
「違う。制度は他人が直せる。頑固は本人しか直せない」
「今のどっちだ」エメ。
「確認中」
住民代表が、最後の三歩を進む。
三つの鍵がそろう直前。
敵側もまた、切断を止めていた。