第761話 第九章「三鍵なしに切らない」前編
鍵が三つある扉は、一つの鍵より安全である。
三人が同時に正しい判断をするなら。
三人が生きているなら。
三人が同じ場所へ来られるなら。
三人が互いの言葉を聞けるなら。
災害は、鍵の数だけ到着条件を壊す。
だから非常時には、一人で開けられる裏鍵を用意しよう、と人は考える。
裏鍵は便利である。
便利な裏鍵は、いつか表門になる。
遅い手続は人を殺す。
速い例外も人を殺す。
どちらを選んでも死ぬ可能性がある時、正しさは速度の反対側にあるのではない。
誰が、どの死を、他人の代わりに決めるかにある。
【現実/逆潮外縁・第零監査台下層主圧路/覚醒/軍事封鎖命令から四時間二十一分】
「残せる数を言って」
ニア・ピクスは、逆さに落ちる海を見上げた。
上が海。
下が空。
主圧路の亀裂から、銀色の水が天井へ吸い上げられている。普通の世界なら漏水は床へ溜まる。逆潮では、漏れた水が頭上の海へ戻る途中で人と工具と建物を巻き上げる。
「上層居住区、切断すれば六百二十人」と作業員。
「残る?」
「残せる」
「切断しなければ」
「主圧路破裂で、下層を含め二千から四千」
「幅が広い」
「圧力計が三台とも違う!」
「値を読め」とエメ・ドック。
低い掠れ声。
左手の中指と薬指がない。右手を主に使い、欠けた左手は管の震えを骨で読む。蒸気傷の肺が、強く息を吸うたび鳴る。
「一号計、十二。二号、十九。三号、七」と作業員。
「どれが壊れてる」
「分かりません」
「なら平均を取るな」とエメ。
「平均なら十二・六」
「壊れた値を混ぜると、壊れ方が隠れる」
ニアが二本の機械補助腕を伸ばす。
六本用の架。
稼働は二本。
両手の触覚はない。
金属へ触れても、冷たさも振動も分からない。
機械腕の圧力計だけが、接触を数字へ変える。
「一号、管壁に対して高い。計器基部が詰まってる。二号、脈動を拾い過ぎ。三号、管から離れてる」
「正値は」と作業員。
「ない」
「じゃあ切る判断できない!」
「できないまま切るな」
主圧路の中央へ、黒い切断線が表示されている。
中央命令。
主圧路B-0、即時切断。
上層居住区損失、許容。
終端側航路保全を優先。
発信者名なし。
終了時刻なし。
異議窓口なし。
「許容したの、誰」とエメ。
「中央」と作業員。
「中央は人名じゃない」
「命令です!」
「だから誰」
「今、議論してる時間が」
「ある」とニア。
「破裂まで十八分!」
「十八分ある」
「しかない!」
「同じ数字」
「言葉遊びしてる場合か!」
「言葉を分けないと、十八分を切断権へ変える人が出る」
ニアは黒い切断線へ触れない。
荷重線を一本だけ切る術〈カットオフ〉。
使えば一秒。
三鍵手続なら、最短十一分。
住民鍵がまだ来ていないため、到着予測十四分。
破裂予測十八分。
計算上は間に合う。
計器が正しければ。
「一人で切れる」と作業員。
「切れる」
「なら」
「切らない」
「六百二十人を残せる!」
「上層六百二十。下層二千以上。数字だけなら切る」
「じゃあ!」
「上層の退路、誰が確認した」
「中央名簿」
「未登録住居」エメ。
作業員が止まる。
「王都下面区の再建で、移った無登録住民が七十から百」とエメ。「名簿にいない」
「それでも全体より少ない!」
「少ないから、本人の代わりに切っていい?」ニア。
「じゃあ全員死なせるのか!」
「死なせない手作業をする」
「遅い!」
「遅さを欠点として記録する」
「その言い方、学院からうつった?」エメ。
「報告書」
「友達って言え」
「必要とする」
「赦してはいない」
「知ってる」
エメは咳のように笑わない。
「そこだけ早い」
三鍵手続は、最初から三つだったわけではない。
昔、逆潮環の主圧路には、一人用の赤い切断把手があった。
構造監査官が引く。
上層か下層のどちらかを切り離す。
速い。
簡単。
責任者も一人で分かりやすい。
分かりやすい制度は、責任を取りやすいのではない。
責任を一人へ押しつけやすい。
十五年前の大事故の後、把手は撤去されなかった。
色だけ赤から白へ塗り替えられた。
『非常時以外使用禁止』
非常時とは誰が決めるかは、書かれていなかった。
六年後。
成功基準第三版が作られた。
『全体損失を一定以下へ抑えた場合、切断を成功とする』
十四歳のニア・ピクスは、その版へ署名した。
最初の事故を決めたのではない。
だが、後から「成功だった」と呼べる数字を整える側にいた。
その事実は、彼女が子どもだったことでは消えない。
子どもへ署名させた大人の責任も、彼女の署名が消えないことでは消えない。
「お前の名前がある」
主圧路脇の通話管から、上層住民の声が落ちてくる。
音は逆さ海の圧で歪んでいる。
「第三版。成功、成功、成功って三回」
「ある」とニア。
「今回も同じ数字で切るのか」
「切らない」
「今は?」
「三鍵なしには」
「三鍵がそろったら切る?」
「対象と代替を確認して、三者が決める」
「逃げた言い方」
「条件を分けた」
「言葉を分ければ、人も切れないと思ってる?」
ニアは答えない。
答えを急げば、謝罪の形をした自己弁護になる。
エメが通話管を取る。
「今いる人の数」
「名簿は六百二十」
「名簿外」
「分からない」
「分からない理由」
「再建後の仮住居。配管裏。税登録が間に合ってない。名前を出したくない家もある」
「必要な退路」
「上へ二本。横へ一。本当は下へもあるけど、鍵が中央管理」
「切断された場合」
「上二本は消える。横は五十人ずつ。下は開けば二百、開かなければゼロ」
「下の鍵を誰が持つ」
「知らない」
「知らないを、ないにするな」
エメは通話管をニアへ渡す。
「話せ」
「何を」
「第三版に署名した人として」
ニアは管を持つ。
両手の触覚はない。
金属の冷たさも、向こう側の震えも感じない。
「第三版へ署名した」
「知ってる」
「署名した時、全体損失の分母に、未登録住民が入っているか確認しなかった」
「今さら」
「今、確認する」
「謝れば切らない?」
「謝罪と切断条件を交換しない」
「赦せって?」
「求めない」
「じゃあ何が欲しい」
「今いる人数。退路。切られた時に失う生活。三鍵の住民代表を、誰へ預けるか」
「命を数値にするのか」
「数値だけにしないため、生活も聞く」
管の向こうで、別の声が入る。
「湯屋」
「必要?」
「避難後の清潔。火傷病棟が使う」
「記録」
「共同食堂」
「人数」
「毎食百四十から百七十。名前は取ってない」
「記録」
「無登録保育部屋。子ども二十三。親が下層勤務で夜に増える」
「今」
「十九。寝てるのが七」
「記録」
「墓札洗い場」
「生存退路へ必要?」作業員が口を挟む。
通話管の向こうが怒鳴る。
「死者を置いて逃げるかどうか、こっちが決める!」
ニアは作業員を見る。
「生活」
「……記録します」
数は増える。
六百二十。
名簿外、最低七十九。
夜勤者、帰宅中で変動。
保育部屋十九。
火傷患者十二。
移動不能五。
名前非公開、三十以上。
「全体より少ない」は変わらない。
だが、少ない側が何を失うかが見える。
数字は命を軽くする道具ではない。
数字だけにすると軽くなる。
住民鍵を持つ代表は、上層の中央会議室から来なかった。
中央会議室へ行けば、最短だった。
代表は、退路沿いの三箇所へ寄っている。
湯屋。
保育部屋。
横退路の弁室。
「十四分が、十七分へ」と作業員。
「遅い」とニア。
「なら中央代表へ切り替える!」
「住民代表を、早く来る人という意味に変える?」
「死ぬぞ!」
「死ぬ可能性が上がった」
「同じだ!」
「違う。上がった分を減らす手順を作る」
「三分をどうやって!」
エメが床の格子を外す。
下に、七本の旧保守管。
「切らないで逃がす」
その前に、保守管が本当に生きているかを調べる必要がある。
図面では七本。
現物は、一本目が湯屋の排熱へ転用。
二本目は途中で塞がれている。
三本目は墓札洗い場の水路と交差。
四本目は古い王都線へつながる。
五本目は逆流弁が上下逆。
六本目は生きている。
七本目は図面にない枝管が増えている。
「全部、図面と違う」と作業員。
「暮らしたから」とエメ。
「勝手な改造!」
「正規申請を三年止めた役所は?」
「それと安全は」
「別。だから両方記録する」
ニアは二本の機械腕へ、異なる工具を持たせる。
一本は圧力針。
一本は管壁厚計。
触覚がないため、自分で振動を読まない。
「一号、値を言って」
若い作業員が計器を読む。
「十二」
「針の揺れ幅」
「二」
「音」
「低い、二回。高い、一回」
「分からないは」
「……管の奥。見えない」
「記録」
「そんな細かく言ってる時間」
「あなたの目と耳を、私の触覚代わりにする。分からないを隠すと、私は触れたと思う」
作業員は息を呑む。
ニアの機械腕は精密である。
精密な腕は、本人に感覚があるように見える。
見えることと、あることは違う。
「二号。値、十九。揺れ、七。音、連続」
「異常」
「切る?」
「計器を外す」
「圧が噴く!」
「布と退路。顔を守る」
エメが欠けた左手で布の端を押さえる。
「私がやる」
「肺」ニア。
「一」
「最大」
「二まで。三なら離れる」
「成立」
「必要判断」
「言葉を直す余裕がある」
「余裕を作ってる」
二号計を半回転。
蒸気。
白い噴流が天井へ上がる。
作業員が後退。
エメが布を押さえる。
ニアの補助腕が支え棒を入れる。
管の奥から、黒い油塊が吐き出される。
「詰まり!」
「二号は圧を高く見せてた」と作業員。
「切断判断が変わる!」
「一つ減った。まだ二台違う」
「でも安全側に」
「安全側、誰にとって」エメ。
高めの値を採用すれば、下層には安全。
上層には切断が早まる。
安全側という言葉は、守られる側を隠す。