第765話 第十一章「七つの時刻、八つの撤退」前編

戦争の時刻は、勝者が一つにする。

 開戦は何時だったか。

 降伏は何日だったか。

 誰の号令で軍は動いたか。

 歴史書は、同じ頁へ載せるために、それらを一つの時計へ換算する。

 しかし戦場にいた者は、別の時刻を生きている。

 傷口を押さえた三十秒。

 子どもが靴を探した二分。

 列車が来なかった一時間。

 命令が切れずに残った六年。

 この日、七空域は同時に撤退した、と後世は書くことになる。

 正確ではない。

 七空域は、七つの違う時刻に撤退した。

 同じだったのは、八拍目に命令しなかったことだけである。

【学院環・北鐘刻 十時二十七分】

 鐘が鳴らない。

 ティア・グランツは、その無音を聞いた。

 聞こえないものを聞いた、という表現は詩に見える。

 だが規則を扱う者にとって、予定された音が鳴らないことは、鳴った音より情報が多い。

「第一拍、北寮の生徒を地下風路へ」

 灰銀の髪が、爆風で横へ流れる。

 右膝の痛み二。

 折れた測尺の片方を杖代わりにしない。杖にすれば、剣として使えると周囲が期待するからだ。

「第二拍、記録庫から試験改訂帳を搬出」

「議長!」

「臨時指揮。呼称はティア」

「ティア! 敵が正門へ!」

「第三拍、正門を守らない」

「でも正門を取られたら学院が!」

「学院とは門ではない」

「建物も!」

「建物でもない」

「じゃあ何です!」

「卒業後も、命令へ異議を言える人間を作る場所」

 第四拍。

 マオ・ケルンが、左脚の装具で床を叩く。

「長い」

「何が」

「答え。危機で哲学を言うな。四拍目、医療班を下げろ」

「先に聞け」

「聞いた。負傷者が増えた。下げろ」

「採用」

「誰の便利?」

「負傷者」

「なら言い方は、採用じゃなく必要だ」

「必要」

 第五拍。

 南塔の屋根が落ちる。

 敵の黒杭は、学院の生徒名簿へ停止命令を流し込もうとしていた。名簿へ登録された者から順に、誓星術が封じられる。

 名前のある者が先に止まり、名簿に載らない清掃員や臨時職員が動ける。

 制度は平等に見える時ほど、誰を数えていないかを隠す。

「第五拍、名簿を閉じる!」

「燃やすの?」生徒。

「閉じる。証拠は残す」

「敵に使われる!」

「使われる記録と、なかったことにされる記録は別問題」

 第六拍。

 マオが空白担当札を高く掲げる。

「次、誰も新しい命令を出すな!」

「まだ七拍目!」

「七拍目は、今出た命令を誰が受けたか確認!」

 ティアは言葉を飲み込む。

 命令を出す者は、命令が届いたと信じたがる。

 届いた、と返事をする者は、理解したと信じられたくなる。

 七拍目。

「北寮、受領」

「記録庫、二冊不足」

「医療班、三名残留」

「正門班、撤退開始」

「地下風路、児童一名が拒否」

「理由」ティア。

「弟を待つ」

 八拍目。

 ティアは、弟を置いて行け、と命じない。

 学院を守れ、とも命じない。

 誰かに代わって正しい選択をしない。

 マオが子どもの前へしゃがむ。

「弟の名前は聞かない。服」

「赤」

「年齢」

「九」

「最後に見た場所」

「食堂」

「探す時間、七拍。見つからなければ?」

「待つ」

「地下風路の入口で待つ。食堂へ戻らない。これでいい?」

 子どもがうなずく。

「先に聞けた」マオ。

 九拍目。

 ティアは言う。

「学院は、北鐘塔を放棄する」

「敗北です!」

「生徒を持って撤退する」

「敵に旗を取られる!」

「旗を取られたことは記録できる。生徒を取られたことを、旗では補えない」

 北鐘塔の旗が落ちる。

 地下風路へ、名簿に載る者も載らない者も入る。

 七拍権限は、勝利を指揮しなかった。

 撤退の途中で、二回止まり、一回戻り、一人の弟を見つけた。

 予定より十一拍遅れた。

 負傷者は一名増えた。

 死者は出なかった。

 ティアは、その遅れを成功に書き換えなかった。

【自由港・低鈴刻 十二時四分】

「三十七、三十五、四十一」

 ミラ・ベルウェザーは、三つの数字を並べた。

「どれが正解?」とパル。

「全部不正解」

「じゃあ契約成立しない」

「契約は、分からない時に成立させるものよ」

「分かった時は?」

「支払い」

 赤銅色の巻き髪に、港の煤が付いている。

 左義足の膝継ぎが熱を持つ。

 痛み二。

 肋部一。

 自由港へ入った無署名船は、船名を名乗らない。

 乗員名簿を渡さない。

 追跡される理由も説明しない。

 港の計数では三十七。

 船側の自己申告では三十五。

 配給皿は四十一枚減った。

「隠れてる人がいる」とパル。

「食べた人が二度取ったかもしれない」とジル。

 低い、掠れた声。

 右耳は高い音が聞こえにくい。だからジルは、港の警報を目ではなく床の振動で読む。

「紙が濡れたら、何が残る」

「結び目」パル。

「人が名前を言わなかったら?」

「靴跡?」

「食事の減り。水の減り。寝床の温度。誰かがいる痕跡」

「数えられない」

「数え切れない。数えないとは違う」

 黒艦が港外壁へ接舷する。

 中央からの封鎖命令は、無署名船を敵と分類している。

 港門を閉じれば、敵兵も入らない。

 避難船も入らない。

「港長代理!」

「その肩書、いくら?」ミラ。

「今それ!?」

「無料なら責任だけ高い。嫌い」

「閉門許可を!」

「却下」

「敵船が混ざる!」

「混ざってる」

「ならなおさら!」

「敵味方が分からない時、全員を敵にするのは識別じゃない。怠慢よ」

 第一拍。

 ジルが船ごとの危険紐を係留柱へ結ぶ。

 赤――火災。

 青――浸水。

 白――医療。

 黒――武装あり。

 無色――不明。

 人名はない。

 第二拍。

 パルが木の鈴を鳴らす。

 金属鈴は高く、追跡装置に拾われる。

 木は鈍い。

 港の者だけが、床で聞く。

 第三拍。

 無署名船の一隻から、武装した者が降りる。

 港兵が槍を向ける。

「敵!」

「名前は?」ミラ。

「ない!」

「行動は?」

「武器を持ってる!」

「港兵もね」

「こちらは味方です!」

「自称は無料」

 武装者は、隣の浸水船へ走った。

 穴を塞ぐ。

 味方か敵かは不明。

 救助をした。

 救助をしたから味方とも限らない。

 第四拍。

 港門が半分閉じる。

 中央機構が自動で動いた。

「ミラ!」ジル。

「風圧を盗む!」

 ミラの誓術は、運動量を移す。

 だが義足と肋部は、移した力を受け止め切れない。

「上限!」ジル。

「三割!」

「二!」

「三!」

「肋骨!」

「二・五!」

「数字を細かくしたら痛みが減る?」パル。

「気分が精密になる」

「減ってない!」

 ミラは港門の閉鎖速度だけを盗む。

 止めない。

 速さを、隣の空荷台車へ移す。

 台車が走り、浸水船の下へ支え材を運ぶ。

 第五拍。

 港門の隙間へ、避難艇が三隻入る。

 第六拍。

 黒艦の小艇も一隻入る。

「閉めろ!」

「第七拍まで待つ!」ミラ。

「敵だぞ!」

「人が乗ってる!」

「兵士だ!」

「兵士であることは、溺れていい資格じゃない!」

 第七拍。

 小艇の甲板から、武器が港内へ投げ捨てられる。

 敵兵が両手を上げる。

 罠かもしれない。

 八拍目。

 ミラは、逮捕も歓迎も命じない。

 ジルが無色の結び目を一つ増やす。

「不明のまま入れる」

「その親切、いくら?」敵兵の一人が問う。

 ミラは煙草をくわえ、火をつけない。

「高いわよ」

「何を払う」

「名前を言わない権利と、武器を使わない義務を別々に払って」

「契約か」

「救命は契約前。滞在は契約後」

 九拍目。

 港門は閉じない。

 自由港は、敵味方の判定を終えずに撤退を始める。

 船は北、南、下方、雲裏へ、別々に離れる。

 港を守るためではない。

 港という一箇所へ集まった人間を、もう一度散らすために。

 人数差は最後まで埋まらない。

 三十七。

 三十五。

 四十一。

 ミラは報告書に書く。

「不明六。損失ではなく、未確認」

「赤字?」パル。

「大赤字」

「祝い酒?」

「水」

「貧乏」

「自由よ」

【翠獣環・双脈刻 日没前六十八鼓】

 二つの群れは、合流しなかった。

 東群は北へ。

 西群は南へ。

 王獣の背で暮らす者にとって、方向は方角だけではない。誰の背へ乗るか、どの水場を使うか、どの墓を守るか、どの子を次の季節へ連れて行くか。そのすべてを含む。

 ガンガ・オルバは、二つの鼓動を同じ速さにしなかった。

 大きな手を地へ当てる。

 東群、速い。

 西群、遅い。

 その間に、黒い封鎖杭が七本。

「一つへ寄せれば、抜けられる」戦士。

「大声だけが、群れの声じゃない」

「今は速い方へ合わせるべきだ!」

「合わせない者は置いて行く?」

「全滅よりましだ!」

「誰を置く」

 戦士は答えない。

 答えないことを、賛成には数えない。

 ネムが喉の傷へ布を当てる。

「違う」

 短い声。

「何が」

「合流点」

 彼女は地へ二本の線を描く。

 交わる。

 そのまま離れる。

「同じ道を行かない」

「交差だけ?」

「まだ」

 長・短の太鼓。

 聞いた。

 同意ではない。

 第一拍、東群が負傷者を中央の草舟へ載せる。

 第二拍、西群が薬袋を草舟へ投げる。

 第三拍、東群が水樽を渡す。

 第四拍、西群が子どもの名札を外し、色布だけ残す。

 第五拍、黒杭が草舟へ落ちる。

 ガンガは群れの心拍を一つにまとめない。

 自分の誓術を閉じる。

 大きな声が消える。

 代わりに、足裏で一つずつ聞く。

 草舟の子ども。

 薬を抱える老人。

 杭を引く戦士。

 怖くて動けない獣。

 第六拍。

「右の杭、弱い」とガンガ。

「どうして分かる」

「聞いた」

「何を」

「杭の後ろで、誰かが止めている」

 敵兵か。

 機械の故障か。

 不明。

 杭の振動が七回目の前で薄くなる。

 第七拍。

 東群と西群が、同時に草舟を押す。

 同じ方向ではない。

 東は北へ。

 西は南へ。

 力が打ち消し合う。

 草舟は中央に止まる。

 八拍目。

 両群とも、進まない。

 草舟の負傷者だけが、別の小獣へ移る。

 九拍目。

 二つの群れは離れる。

 完全には救えない。

 薬袋一つが谷へ落ちる。

 水樽二つが割れる。

 子ども一人の色布が行方不明になる。

 ネムは、失ったものを拍から外さない。

 濃緑、薄緑、灰。

 三色の毛を、別々の長さで結ぶ。

「合流した?」ガンガ。

「違う」

「助けた?」

「まだ」

「続ける?」

 ネムは長・長・短。

 聞いた。

 同意した。

 ただし、一つにはならない。

【鏡砂環・西無映刻 午後三時/表示拒否中】

 都市は、何も映さないまま撤退した。

 ユノ・ヴァレントは、白いヴァイオリンを構える。

 右手薬指の古傷が痛む。

 耳鳴り二。

「西市は、同盟映像を受信しない」リゼ。

 光避けの薄布をかぶり、空の額縁を抱えている。

「敵襲映像も?」

「受信しない」

「避難路は?」

「触覚板だけ」

「王都側の退避予測は?」

「見ない」

「君の意見は?」

「覚えていない。だから何?」

「今聞いた」

「見せれば正しく選ぶ、という質問なら答えない」

 ユノは弓を弦へ置く。

 かつて彼は、正しい像を見せれば争いが止まると考えた。

 正しい像は、嘘より強い。

 だから危険だった。

 正しい像を見た者が、同じ結論へ至るとは限らない。異なる結論を選んだ者を愚かと呼ぶ口実になることもある。

「実測だけ、床へ流す」ユノ。

「白縁は?」

「音には縁がない」

「なら、縁を音にする」

 リゼが空の額縁を床へ置く。

 四隅へ小石。

 一つ――現在位置。

 二つ――実測危険。

 三つ――推定。

 無音――表示拒否。

 第一拍。

 ユノが低い音を一つ鳴らす。

 床が震える。

 住民は映像を見ない。

 足裏で、現在位置だけ知る。

 第二拍。

 二音。

 北の鏡塔が倒れるという実測。

 第三拍。

 三音。

 東へ逃げれば敵と接触する可能性。

 第四拍。

 西市は動かない。

「従ってない」と兵士。

「従わせていない」ユノ。

 第五拍。

 住民の一人が、南門を開く。

 別の者が閉じる。

 争いになる。

 ユノは幻像を出さない。

「どちらが正しいか見せて!」

「正しさは表示できる。重要さは表示できない」

「じゃあ何のための能力!」

「分からない部分を、分かった顔で埋めないため」

 第六拍。

 リゼが二つの扉へ白い枠を置く。

 南門――実測、広い。推定、敵接触。

 地下口――実測、狭い。推定、崩落。

 どちらも危険。

 第七拍。

 住民は二群へ分かれる。

 都市を一つにしない。

 八拍目。

 ユノは曲を終止させない。

 終止音は、人に「ここが答えだ」と思わせる。

 音を一つ残す。

 未完。

 住民は、終わっていない曲の上を歩く。

 南門へ行く者。

 地下口へ行く者。

 残る者。

 見ない者。

 ユノは全員を見ない。

 見る権利と、見ない権利は、観察者にもある。

「撤退した?」兵士。

「移動した」

「同盟命令には?」

「従っていない」

「敵に利用されるぞ」

「利用される危険を表示する。選択は奪わない」

 鏡砂環の一都市は、同盟映像を最後まで受信しなかった。

 それでも黒艦の包囲から外れた。

 同盟に参加したのではない。

 同盟が、参加しない場所を攻撃対象にしなかったのである。