第767話 第十二章「同盟は一つの命令ではない」前編
包囲が解けた翌朝、ゼロスター号は進まなかった。
中央都市へ続く裂け目は、まだ開いている。
黒い雲の向こうに、折れた塔が見える。
その周囲を、撤退した終端軍の艦が遠巻きにしている。
追えば、追える。
だから追わない。
「理由」とセレナ。
「船が壊れてる」ハル。
「他には」
「みんなが疲れてる」
「他には」
「僕が行きたいから」
「最後が理由?」
「最後が一番危ない」
「記録」
ハルは左肩を布で固定されている。
痛み二。
腫れ一。
腕は上がる。
全荷重をかけた跳躍は禁止。
「いつまで?」
「医療班の再確認まで」セレナ。
「時間で」
「医療班が決める」
「曖昧」
「身体は時計どおりに治らない」
「じゃあ、僕の肩は反抗的」
「本人に似た可能性」
「事実?」
「推定」
セレナは左目の焦点を合わせ直す。
彼女の右手首にも固定具がある。
自分で長文を書かない。
カイルが記録板を持つ。
「『本人に似た可能性』まで書く?」
「不要」
「面白いのに」
「報告書の目的ではない」
「報告書に目的があるなんて、初めて知った」
「王家の報告書を謝罪文と恋文に使った人へ説明しません」
「分類が違うだけで、相手へ読んでほしい気持ちは同じだよ」
「それが同じなら、税法も恋文です」
「受け取った相手の生活を変える」
「税法に口説かれたくない」ロロが言った。
甲板には、左補助帆が広げられている。
三箇所破断。
縫合索不足。
右帆の旧布を切り、左へ移す必要がある。
「右を直すために右を壊すの?」ハル。
「左を直すために右を減らす!」
「結果は?」
「両方六割!」
「一つを十割にしない?」
「今までの旅で何を学んだ!」
「修理代は高い」
「そこだけか!」
ロロの右第三、第四指は、まだ細かく震える。
二本の機械補助腕が縫合針を動かす。
本人は張力を読み、作業員へ工程を渡す。
「右索、二指ゆるめ!」
「これくらい?」
「一・五!」
「指半分って何?」
「正確に言えば一指半!」
「正確になってない」エリア。
「現場単位だ!」
エリアは甲板の端へ座っている。
両踵へ冷却布。
左肺の呼吸、一。
路図の連続使用は禁止。
彼女は地図を描いていない。
七枚の透明板を、まだ重ねずに置いている。
「中央都市の路、描かないの?」ハル。
「描ける」
「描かない?」
「今描けば、行く理由になる」
「地図は理由じゃない」
「地図を持つ人は、道があるだけで進めると思う」
「僕のこと?」
「あなたを含む」
「エリアも?」
「私を最初に含む」
地図を描かないことは、無知を選ぶことではない。
描く時刻を選ぶことである。
ゼロスター号は、裂け目から三里離れた小さな岩棚へ錨を下ろした。
船員は眠る。
食べる。
傷を洗う。
壊れた時計を直さない。
英雄譚は、戦いの翌朝を好まない。
英雄が腹を壊し、靴下を片方なくし、勝利の旗より先に乾いた包帯を探すからである。
だが国は、その翌朝から作られる。
最初の返事は、学院から届いた。
返事といっても、声ではない。
旧風管から吐き出された、折れた測尺の薄片。
表に七本の新しい傷。
八本目の位置には空白。
裏に、ティアの筆跡で三行。
『北鐘塔、放棄。
生徒・職員・未登録作業員、地下風路へ。
臨時指揮権、終了。』
その下に、マオの別筆。
『終了したと言うやつを監査する役が要る。』
「ティアらしい」ハル。
「どちらが?」カイル。
「三行で終える方」
「マオは?」
「一行で終わらせない方」
測尺片には、学院が同盟へ何を命じるか書かれていない。
学院が次に何をするかだけがある。
地下風路の負傷者を数える。
失った記録を公開する。
七拍権限の失敗を監査する。
北鐘塔を取り返すかは、まだ決めない。
「助けに行く?」ハル。
「今行けば、学院の次を私たちが決める」とエリア。
「でも人手」
「必要なら依頼が来る」
「来なかったら?」
「来ない選択もある」
「友達なのに?」
「友達だから、頼まれていない救助で主役を奪わない」
ハルは口を開き、閉じる。
「難しい」
「正確」
二つ目は自由港。
鈴が三つ。
金属二。
木一。
革紐には、三十八の結び目。
「増えた」とハル。
「三十七から?」
「うん」
「人数とは未確定」とセレナ。
紐の端に、ミラの紙片。
『無署名船四十一。
確認済み三十八。
不明三。
救命費、共同負担。
港滞在費、個別交渉。
敵兵の申告者六。捕虜ではなく、武装解除中の避難者として扱う。
異議は受ける。値引きはしない。』
裏面に、パルの字。
『水しか飲んでない。祝い酒代、送れ。』
「送る?」カイル。
「お金ない」ハル。
「イチゴ酒なら僕が」
「王家の予算?」
「個人」
「高い?」ロロ。
「思い出は値段で測れない」
「値段を知らないやつの言い方!」
ジルの追記は短い。
『紙が濡れても、木の鈴は残った。次は火に残るものを考える。』
自由港は、中央同盟へ兵を出すとは書かない。
港を閉じない。
無署名救難路を続ける。
人数差三を、都合よくゼロにしない。
それが自由港の次である。
三つ目は翠獣環。
濃緑、薄緑、灰色の毛房。
新しく、白い細毛が一本加わっていた。
「誰の?」ハル。
「不明」とセレナ。
ガンガの記録は、紙でなく厚い樹皮に刻まれている。
『東群、北へ。
西群、南へ。
交差救助、三回。
合流、なし。
大声だけが、群れの声ではない。』
ネムの印は、長・短。
聞いた。
同意ではない。
そのあと、長・長・短。
聞いた。
同意した。
ただし、全部ではない。
「どこまで同意したんだろう」ハル。
「書いていない」とアムナ。
「分からないの、気になる?」
「なる」
「覚えたい?」
「覚える範囲を、聞きたい」
アムナは毛房の色だけを記録する。
誰の毛かは書かない。
白い一本の意味も決めない。
「ガンガは王になる?」カイル。
「この札にはない」セレナ。
「未来の話じゃなく、今」
「今も不明」
「王位より先に、群れが分かれてる」とハル。
「だから彼は残る」とエリア。
船へ戻らない。
旅で得た答えを故郷へ持ち帰り、その答えが通用しない場所で続きを生きる。
客員航路士とは、ゼロスター号の乗員候補ではない。
ゼロスター号から降りたあとも、自分の物語を失わない者の席だった。
四つ目。
鏡片。
今回は、一面だけ映る。
ユノの顔ではない。
リゼの顔でもない。
白い枠と、空の広場。
枠の下に文字。
『実測――広場は無人。
推定――避難完了。
未確認――残留者。
非公開――氏名・避難先。
表示拒否――西市全域。』
そのあと、音だけがある。
ヴァイオリンの未完の一音。
「曲、終わってない」ハル。
「終わらせていない」とエリア。
「違う?」
「終わらないのは事故。終わらせないのは選択」
リゼの文字が、枠の裏に刻まれている。
『同盟映像を見なかった。
危険情報は足裏で受けた。
見ないことは、不参加であって敵対ではない。
これを理解できない同盟には参加しない。』
ユノの追記。
『理解できるまで参加を求めない。』
「厳しい」とカイル。
「優雅に書いてあるけど、断ってる」ハル。
「断り方にも品格を求めるのが彼の悪い癖」エリア。
「良い癖は?」
「断られた時、以前より少しだけ黙れる」
「少しだけ」
「人は一つの事件で完成しない」
人の人生を、一つの事件で完成したものとして扱うな、という意味である。
五つ目。
銅切符。
穴は七つ。
端に一つ。
さらに、途中下車の小穴が四つ増えている。
イヴァの字は、列車時刻のように整っている。
『第一車両、東へ。
第二・第三、第九小駅。
第四、保留線。
監獄車、停止。
医療優先。
中央時刻表、復旧せず。
次の停車は、各車両で決める。』
テトの字。
『停まってから考える駅が足りない。増やす。』
「駅を増やすって簡単に言う」ロロ。
「線路、いる?」ハル。
「駅舎、信号、水、便所、保守員、土地、許可、金!」
「夢が現実的」
「現実的じゃない夢は、請求書で死ぬ!」
イヴァは同盟の運行長にならない。
雷鎖環へ残り、独立車両同士がぶつからない仕組みを作る。
彼女一人へ目的地を決めさせないために。
六つ目。
苦種入りの紙灯籠。
八つ目の位置に、新しい糸が一本。
結ばれていない。
輪に通してあるだけで、引けば抜ける。
「ソムナ」とハル。
「名前を断定する材料?」アムナ。
「字」
紙の内側。
『体温、三十五・六。
食事、半分。
帰宅、保留。
治療、本人同意を取り直す。
夢内での代理同意、終了。』
メイの字である。
その下に、ソムナの細い字。
『僕の醒め目は、僕が作る。
作れない時は、誰かに作ってもらうのではなく、作らないでいてもらう。
今は答えなくていい。僕も今は全部に答えない。』
「戻った」ハル。
「戻ったと書いていない」セレナ。
「帰宅保留」
「現実へ意識が戻った可能性は高い」
「正確」
ソムナは夢灯環へ残る。
治療を拒む患者。
資金を条件付きで受け入れる診療所。
商業広告を断る者。
夢記録を残さない者。
誰も同じ出口へ導かない医療を、続ける。