第769話 第一章「砕けた歴史都市」前編
歴史が割れる時、最初に砕けるのは真実ではない。
通りの幅である。
食卓の人数である。
誰が鐘を鳴らし、誰がその鐘を聞けなかったかという、英雄の銅像より低く、王の署名より薄い部分である。
後世の人間は、戦争が一つだったと思いたがる。
開始日が一つ。
敵が一つ。
勝者が一つ。
終戦文が一つ。
一つに数えられた戦争は、教科書へ収まりやすい。
収まりやすい歴史は、収まらなかった人間をページの外へ押し出しやすい。
千年前の誓約戦争〈ブランク・ウォー〉も、七つの空域では一つの戦争として教えられてきた。
実際には七つの空が、それぞれ違う理由で戦い、違う相手を敵と呼び、違う時刻に終わった。
それでも七つの正史は、同じ一文で終わる。
――七つの誓いは、一人の王のもとに結ばれた。
美しい文章である。
美しい文章は、削除された主語の形を見えにくくする。
【現実/地図外の終端空域〈エクリプス〉・白峡谷西縁/覚醒/第八証言片発見から二日と六時間】
ゼロスター号は、進まないまま修理代だけ進んでいた。
「左帆、六割から六・三割!」
ロロが宣言した。
「誤差?」ハル。
「成果!」
「三分って、風が少し親切になっただけじゃない?」
「帆は友情で膨らまねえ!」
「友情の赤字で縫ってるって、前に」
「あれは比喩だ! 材料費は現実!」
甲板の左側では、古い右帆を切って作った継ぎ布が、色の違う傷として並んでいる。右を減らし、左を増やし、両方を完全にしない。世界を一枚の新品へ交換できない船の修理としては、ずいぶん正直な見た目だった。
ハルは主帆の下で、灰色の証言片を見ていた。
触らない。
透明箱越し。
箱の鍵は三つ。
現地側の鍵は、白峡谷の板持ちが預かる。
外部記録者の鍵はセレナ。
第三の鍵は、まだ持ち主を決めていない封印袋の中。
見つけた者が、見つけたから所有する構造へしない。
面倒である。
だから、ハルは箱の前をもう二日も往復していた。
「見て穴が増える?」エリア。
「増えたら怖い」
「答えは」
「増えてない」
「質問は」
「増えた」
「正常」
「謎が増えるのを正常扱いする地図科、嫌だな」
「道が増えるのを嫌がる配達員も珍しいわ」
エリアは紙地図を七枚、互いに重ねず甲板へ置いていた。
裂け目の向こうにある終端中央都市へ、一本の路を描こうとはしない。
代わりに、証言片が入っていた救難筒の傷を写している。
右側へ三本。
左へ二本。
底へ一つ。
「衝突痕ではない」とセレナ。
「なぜ」ハル。
「同じ幅の傷が等間隔。岩へ当たったなら深さが揃いません。運搬具へ固定した痕です」
「誰が運んだ」
「不明」
「いつ」
「水垢は三層。最古層は千年前に近い可能性。最上層は数日前。ただし途中で乾燥した回数は不明」
「時間の答えが、時間を増やした」
「正確な答えです」
セレナは右手首へ固定帯を巻き、左手で証拠札を並べている。
長文の筆記はカイルへ渡した。
王太子は、証拠番号を一つ書くごとに字を大きくした。
「紙が狭い」とカイル。
「字が大きいのです」とセレナ。
「王家の署名は遠くから読める必要がある」
「証拠番号は演説しません」
「二十八番だけ小さく書く?」
「全て同じ大きさで」
「平等」
「規格」
「夢がない」
「証拠番号へ夢を入れないでください」
ノクスが箱の周囲へ七個の小石を並べる。
一個だけ、列の外。
灰色の証言片は、その外側へ置かれている。
「八つ目じゃなく、数の外」とアムナ。
「昨日も言った」とハル。
「今日も同じ?」
「同じに見える」
「同じと確認するため、もう一度見た」
アムナは証言片の文字を手の甲へ写さない。
紙へも書かない。
箱の表記を二度、声にする。
「証言者番号、該当なし。証言者番号、該当なし」
名前ではない。
所有もしない。
ただ、失わない。
その時、白峡谷の橋下から咳が三回聞こえた。
一回。
二回。
三回。
ハルは振り向く。
「ウル!」
「四回呼んだら、物語を一つ減らすよ」
結び目だらけの帯を肩へ巻いた小柄な老女が、手漕ぎの点検舟から杖を上げていた。
隣ではネイが、今日の名札を裏返している。
「乗せる!」
ハルが船縁へ走る。
一。
二。
三を言わない。
「役割」とエリア。
「声。ロロ、巻き上げ。カイル、船縁支え。セレナ、負傷確認。アムナ、人数。ノクス、索を見る」
「自分は」
「飛ばない」
「採用」
「毎回、成長の採点みたいで嫌だ!」
「再発防止は、本人の機嫌より優先」セレナ。
「機嫌も身体の一部!」
「医療欄外」
点検舟を人力で引き上げる。
ウルの左足首は固定され、呼吸は浅い。無理に抱き上げず、本人が杖とハルの右腕へ体重を預ける。
「なぜ来た」とセレナ。
「質問が、歓迎より先かい」
「呼吸数が、挨拶より先です」
「一分二十二。咳は三。吸入薬は橋の下で一度」
ウルが自分で答えた。
「次に、なぜ来た」
「石を見に」
「誰から聞いた」
「船底」
ハルが首を傾げる。
「人の名前?」
「今だけ、そう呼ぶ者がいたろう」
先の七空域封鎖で救助した無登録の保守員。
名前を言わなかった男。
彼は白峡谷へ戻り、ウルへ「七枠の外に文字のある石」が来たと伝えたらしい。
「情報が速い」とカイル。
「公的通信が止まると、噂の脚が丈夫になる」とウル。
「噂は証拠ではありません」とセレナ。
「だから石を見に来た」
ウルは透明箱へ近づく。
目では読まない。
箱越しに、石片の縁へ杖の先を近づける。
「触れないで」とセレナ。
「触れない。音を聞く」
杖で甲板を一度叩く。
石片は鳴らない。
透明箱の底板が、乾いた低音を返す。
ウルは頭を傾けた。
「割れた側が、外だ」
「根拠」とセレナ。
「水垢の下に煤。煤の上に油。運ばれた時、割れた面へ布を当てていた。布を外した後に水へ落ちた」
ロロが単眼拡大鏡を差し込む。
「油繊維、ある。右下の角」
「なぜ分かった」とハル。
「昔、同じ石を帯へ縫った」
全員がウルを見る。
「いつ」セレナ。
「若い頃」
「幅が広い」
「四十年以上前、六十年未満」
「どこで」
「砕けた街の外縁」
エリアの歩幅が半歩大きくなる。
未知の地図を聞いた時の癖。
「場所」
「場所を言うには、七つの言い方がある」
「一つずつ」
「王家は『勝利の都』。兵は『最後の陣』。古い民は『八皿街』。竜の歌では『七つの胸』。機関士は『逆流工場』。航路院は『結び目の始点』。誓律官は『終戦文保管域』」
「同じ場所?」ハル。
「同じだと七者は言う。歩けば、同じではない」
「砕けた歴史都市」とアムナ。
ウルの琥珀眼が、アムナへ向く。
「さて、それを誰から聞いた?」
「あなた」
「今じゃない」
「小さい時。話の途中で蜂蜜茶をこぼした」
「こぼしたのはネイだ」
「その時の名は違う」とネイ。
「誰がこぼしたかより、布に何が残ったかを覚えな」
「蜂蜜の輪」とアムナ。
「街の形」
ウルは笑い、咳を三回する。
セレナが吸入薬を渡す。
ウルは受け取り、使ってから言った。
「行くなら、話を七人へ分ける」
「完全な案内図は」とエリア。
「ない」
「思い出せる範囲」
「私一人へ全部はない」
「誰が持つ」
「靴底を知る者。歌を知る者。工具の手順を知る者。王家の禁書庫にある紙。竜の胸に残る傷。料理の味。子供の言い間違い」
「そのうち、今あるのは」セレナ。
「私の歌と、石」
「二つだけ」
「二つあれば、三つ目を探せる」
ウルは透明箱の七枠へ杖を向ける。
「この石は証言の入口だ。だが入口は、誰でも入れる道とは限らない」
「罠?」カイル。
「記録が、自分の話だけを本当だと思っている」
「記録が?」ハル。
「街へ入れば分かる。王家の通りを歩けば、兵の壁が現れてぶつかる。民の家へ逃げれば、竜の翼が屋根を別の位置へ書き直す。七つの歴史が、同じ場所を譲らない」
「物理的に?」ロロ。
「頭をぶつけた。物理的だった」
「先にそれを言え!」
「物語の順番」
「安全説明は物語より前!」
「だからおまえを連れて行く」
ロロの補助腕が二本とも上がる。
「俺、同行確定?」
「修理代を取るんだろう」
「取る!」
即答だった。