第770話 第一章「砕けた歴史都市」後編

 ウルは、話を始める前に七枚の端布を要求した。

「地図?」ハル。

「地図にする前のもの」

「布」

「そう。道だと思った瞬間、人は端を切りそろえる」

 ロロが修理箱から、色も厚さも違う端布を出す。

 帆布。

 包帯。

 荷札。

 古い制服。

 鍋敷き。

 証拠袋の余り。

 何に使ったか分からない灰布。

「最後、管理が悪い」とセレナ。

「用途不明品箱は用途がある!」

「用途が不明であることを保存する用途?」

「そう!」

「採用」とアムナ。

 ウルは七枚へ、別々の結び目を作った。

 王家の話はカイル。

 兵の話はセレナ。

 民の話はアムナ。

 竜の話はノクスの前へ。

 機関士の話はロロ。

 航路の話はエリア。

 残った灰布をハルへ。

「俺だけ内容不明」

「おまえは分からないものを持って歩きな」

「いつも持ってる」

「なら、持ち方を覚えな」

 ウルは、一人へ一文ずつ渡す。

「王は、盾を上げた」

 カイルが復唱する。

「兵は、命令を破った」

 セレナが復唱する。

「民は、八つ目の皿を空けた」

 アムナが復唱する。

「竜は、七つへ裂かれた」

 ノクスは言葉を返さない。

 前脚で端布を押さえる。

「機関士は、流れ先を隠した」

 ロロ。

「航路士は、始点と終点をつながなかった」

 エリア。

 最後にハル。

「子供は、帰る方向を選んだ」

 ハルの指が、灰布の上で止まる。

「どの子供」

「さて、そこは誰から聞いた?」

「今、ウルから」

「私が誰から聞いたかを聞きな」

「誰から」

「名前を持たない渡し手。名前を言わなかったのか、私が失くしたのか、そこも分からない」

「じゃあ証拠としては弱い」とセレナ。

「何の証拠にする?」

「子供がいたこと」

「弱い。子供を待った話が、私の代まで渡ったことには強い」

 セレナは端布へ小札を結ぶ。

『口承。話者ウル。前伝者不明。子供の実在証明には単独使用不可。呼び待つ慣習の継続証拠』

「札が長い」とカイル。

「短くすると、できることが増えすぎます」

「長い文章は自由を減らす?」

「誤用を減らします」

「王家の条文みたい」

「条文は、権力者が例外を増やすと長くなる場合もあります」

「褒めた直後に刺す!」

 ウルは笑い、吸入薬を一度使った。

「七つの話は、七つとも本当かもしれない」

「同時に?」ハル。

「王が盾を上げた時、兵が命令を破り、民が鍋を火から下ろし、機関士が弁を回していた。人は同じ時刻へ一つずつしか置けないと思いたがるが、街は同時に暮らす」

「じゃあ、矛盾は」

「見た位置が違う矛盾もある。誰かが削った矛盾もある。語り手が自分を大きくした矛盾もある。先に種類を決めるな」

 エリアは七枚の布を重ねない。

 甲板へ、それぞれ少し離して置く。

「地図にしない?」ハル。

「まだ。重ねる基準がない」

「母なら?」カイル。

 マリエラの名を出され、エリアは端布を一枚裏返す。

「歩いた人を先に聞く。建物は後」

「エリアは」

「今は、誰が歩けなかったかも聞く」

 両踵の古傷へ、一度だけ視線を下げる。

 身体の制限は、地図を狭くするだけではない。

 歩ける者だけで道を決めた過去を、見つけやすくすることもある。

 アムナは、灰色の証言片をもう一度見る。

「この石に仮名を付ける?」

「証言片で足りない?」ハル。

「同じ証言片が増えたら、番号が要る」

「証言者番号、該当なしなのに、物へ番号を付ける?」

「人を番号にしない。箱を見分ける」

「じゃあ、外縁片一」セレナ。

「一番目と誤解される」とアムナ。

「発見地+日付」

「日付の基準は」

「船内暦」

「外の人が読めない」

「換算表を付けます」

「記録って、名前一つ付ける前に旅するね」とハル。

「旅した跡を隠さないため」とアムナ。

 最終的に、箱にはこう書かれた。

『白峡谷西縁で回収した灰色証言片。

 記録種別表記あり。

 証言者番号は「該当なし」。

 人物名・証言内容・発信者は未確定』

 長い。

 ロロが箱を持ち上げる。

「重量、名前より重い」

「名前の重さを量るな」とハル。

「箱の話!」

 ネイが自分の名札を裏返し、今日の呼び名を決める。

「街へ入る間は、ネイでいい。帰ったら返す」

「返した後、今日の呼び方は消す?」アムナ。

「消さない。今日、ネイと呼ばれたことはあった。でも明日の私へ貼らないで」

「今日の事実。明日の義務ではない」

「そう」

 セレナが証拠札の端へ、日付と有効範囲を書く。

『本探索中の呼称――ネイ。本人による暫定。帰還時に継続確認』

「名前に期限を書くの」とハル。

「期限がない仮名は、いつの間にか本名のように扱われます」

「本名にも期限がある?」

「ある人もいる」アムナ。

「名前って、ずっと同じものじゃないんだな」

「ずっと同じでもいい。変えてもいい。変えたくないのに変えられるのが問題」

 ネイは自分の名札へ、小さな横線を一本足す。

「今の私が決めた印」

「歴史都市へ入ったら、その札も証言になる?」

「なるかもしれない。でも、歴史へ使う前に聞いて」

「毎回?」

「毎回」

「面倒」

「面倒だから、人が一つの名へまとめられる」

 ハルは、透明箱の第三鍵を入れた封印袋を見る。

「鍵の持ち主も、今だけ決める?」

「物は人より期限を書きやすい」とカイル。

「王家は永久所有が好きじゃん」

「好きだった。今も好きな人は多い。だから僕は、今日の鍵を永久の権利へしない練習をしてる」

 第三鍵は、街へ入る間だけハルが持つことになった。

 回す義務はない。

 返す時刻は最初の帰還判断。

 失くした場合は、所有権の争いではなく探索停止。

「鍵一個で手順が長い」とロロ。

「機械は短くできる?」

「できる。『勝手に回すな』」

「人間用に長くした意味が消えた!」

「でも分かりやすい」とハル。

 笑いながら、鍵を腰袋へ入れる。

 小さな金属片は、後で自分が決める全てを代表しない。

 今、箱を開けるか止めるか、その一つだけを預かる。

「返す相手は」とアムナ。

「明日の私」

「明日のあなたが受け取らなかったら」

「箱へ入れない。捨てる」

「記録は」

「今日ネイと呼ばれたことだけ。明日もネイだと書かないで」

 アムナは二度復唱する。

「今日のネイ。今日のネイ」

 名前を守ることと、未来まで所有することを分ける。

 砕けた歴史都市へ行く前に、彼らは千年前の真実ではなく、今日の呼び名の期限を決めた。

 歴史を扱う準備とは、大きな年表を持つことではない。

 目の前の一人を、昨日と同じだと勝手に固定しないことから始まる。

 砕けた歴史都市へ向かう入口は、終端中央都市への裂け目とは別にあった。

 白峡谷の西縁。

 風のない岩壁に、七本の細い溝が走っている。

 溝はすべて同じ穴へ入るが、入った後の方向が違う。

 王家の古文書なら、右上。

 兵の歌なら、左下。

 民の結び目なら、真横。

「同じ穴に見える」とハル。

「見る高さが違う」とアムナ。

 彼女はしゃがむ。

 子供の視線。

 穴の下側に、八本目の浅い擦れがある。

「入る?」ハル。

「誰が決める」とカイル。

 セレナが条件を読む。

「目的。証言片の由来確認。期限。船内時計で六時間ごとに帰還判断。撤退条件。船体傾斜七度、ウルの呼吸四、ハルの左肩四、エリアの踵四、ロロの喘鳴二、私の視界欠損拡大、アムナの名前混同三件、いずれかで停止」

「俺の肋部は」とカイル。

「痛み四」

「ノクスは」ハル。

 ノクスが自分で七個の留め具を並べ、一個を外へ押す。

「本人判断」とアムナ。

「撤退したい時は」

 ノクスがハルの靴紐を噛んで引く。

「分かりやすい!」

「噛まれるまで気づかない前提?」エリア。

「もっと早く見る!」

「記録」セレナ。

「成長採点、やめろ!」

 ゼロスター号の両帆は六割。

 魔法なしで回す手動機関〈クランク・ハート〉は二基。

 食料九日。

 帰路、不確定。

 完璧な準備ではない。

 完璧を待てば、証言片を送った者の意図も、歴史都市の崩壊も待たない。

 不完全な出発は、無謀と同義ではない。

 不完全であることを全員が知り、戻る条件を先に決めているなら、それは現在できる準備である。

「進路」とハル。

「八本目の擦れを基準」とエリア。「ただし道とは断定しない」

「じゃあ」

「調査線」

「言い換えで細くした」

「道と呼ぶと、歩けると思うでしょう」

「歩くけど」

「だから細くした」

 ゼロスター号は、岩壁の穴へ船首を入れた。

 最初の十歩は暗い。

 次の十歩は、同じ岩が七色に分かれる。

 色は誓星術の光ではない。古い鉱物、焼けた染料、保存された煤、別々の記録層が同じ壁へ残した物理的な差である。

 十一歩目で、船の右側へ王城が現れた。

 白い塔。

 金の旗。

 遠くで鐘。

 十二歩目で、左側へ塹壕が現れた。

 土嚢。

 折れた槍。

 兵士の骨。

 十三歩目で、船底の下に市場が現れた。

 魚籠。

 煮込み鍋。

 子供の絵。

「同じ座標」とエリア。

「同じに見えない!」ハル。

「正確に言って。同じ位置を、異なる歴史版が占有している」

「言葉を正確にすると街が増える!」

「増えたのではなく、最初から複数」

 王城の塔が、塹壕の壁へ食い込む。

 市場の屋根が、塔の階段を横切る。

 物語ではない。

 影でもない。

 ゼロスター号の左帆が市場の煙突へ当たり、布が一尺裂けた。

「物理!」ロロ。

「ウルが言った!」ハル。

「物語の後半で聞いた!」

 船首を下げる。

 王城の窓から槍が突き出る。

 塹壕の兵士像が、別の時刻の命令に従って横切る。

 市場の吊り鍋が、存在しない風で揺れる。

「右へ三度!」エリア。

「右は王城!」

「左は砲台!」

「下は鍋!」

「鍋は壊せる」とロロ。

「壊すな!」ウル。

「命と鍋、どっち!」

「そういう二択にするな!」

 先の封鎖戦で無登録保守員が言った言葉を、今度は七十二歳が叫ぶ。

 ハルは笑いかけ、左肩が三へ上がる。

 笑いを止める。

「鍋の取っ手を索で引く! 壊さず動かす!」

「誰が」エリア。

「俺、声。ロロ、索。カイル、槍を盾で受ける。ただし魔法なし。セレナ、鍋位置。アムナ、ウルを支える。ノクス、次の衝突を見る!」

「自分は」

「船縁から出ない!」

「採用!」

 カイルが普通の木盾を上げる。

 王盾炎は使えない。

 王太子の力を奪えば、王太子の身体だけが残る。

 槍を受ける。

 右籠手が鳴る。

 肋部の古傷へ痛みが返る。

「二!」

「本人申告」とセレナ。「顔は三」

「顔を医療数値に使うな!」

「冗談が食べ物ではないので二・五」

「判定基準が増えてる!」

 ロロの補助腕が索を投げ、吊り鍋の取っ手へ掛ける。

 引く。

 鍋は市場の梁から外れず、横へ一尺だけ動く。

 船底が通る。

 その瞬間、鍋の下に円い跡が見えた。

 食器が八枚並ぶ食卓。

 現物は七枚。

 八枚目の位置だけ、長年置かれた器の輪染みがある。

「止めて」とアムナ。

「船を?」ロロ。

「三拍」

「理由」セレナ。

「器が消えてる」

「見れば分かる!」ハル。

「名前が分かる」

 アムナは、輪染みを指す。

「帰り皿」

 ウルの咳が止まる。

「もう一度」とセレナ。

「帰り皿」

「地域語?」

「家で聞いた。遅れて戻る人の分。食事をよそわず、空で置く。戻ったら本人が使う。戻らない日は、他の皿へ重ねない」

「この街の風習?」カイル。

「知らなかった。言葉だけ」

「誰から」

 アムナはウルを見る。

 ウルは答えない。

 結び目だらけの帯から、一つだけ白い紐をほどく。

「続きを持っておいき」と言う。

 食卓の輪染みは、七つの歴史版すべてにあった。

 王城では給仕台の隅。

 塹壕では配給板の端。

 市場では家族の卓。

 器だけがない。

 名前だけが、終端環の一人の少女へ残っていた。

 砕けた歴史都市は、その時初めて、彼らを中へ入れた。