第788話 第十章「第八の少年」後編

 最初に落ちたのは、王家版の白い階段だった。

 一段ずつではない。

 百二十七段が、一枚の巨大な板になって中央へ滑る。

「ハル、下!」カイル。

 ハルは跳ばない。

 左肩へ衝撃を入れれば、退避索を持つ声役が消える。

「カイル、右端を受ける! 俺は下の二人を出す! エリア、階段が落ちる先!」

「第八室を直撃。三秒後に塹壕壁と衝突!」

「ロロ、中央へ行かせない方法!」

「七支柱へ分けるしかない! でも今の索長じゃ六本!」

「一本足りない」

 また七。

 また一人分不足。

 歴史都市は、同じ癖で壊れようとする。

「不足を人にするな!」アムナ。

 ハルは周囲を見る。

 物資院の棺板。

 橋にも棺にも使える共通規格。

「板を索にできる?」

「曲がらねえ!」ロロ。

「索を伸ばす梁!」

「それなら!」

 棺板を二枚、斜めに組む。

 六本の索の角度を変え、七支柱へ荷重を分ける。

 死者のための板が、今度は歴史を埋める棺ではなく、生者の逃げ道を支える。

「勝手に使っていい?」アムナ。

「原物位置と用途を記録!」セレナ。

「遺族同意は!」

「像の板。個人遺骨なし。緊急使用後に戻す!」

「戻せなかったら」

「代替を作り、変更を残す!」ロロ。

 完全に元へ戻すと約束しない。

 戻せない時の責任まで先に言う。

 白い階段が落ちる。

 カイルの木盾へ一段目が当たる。

 魔法の炎はない。

 右腕が沈む。

 肋部二から三。

「三!」

「交代!」ハル。

「まだ」

「役割は勇気より先!」

 ソウジが外周軸を片手で固定したまま、義手の肘を階段へ差し入れる。

「温度四十五!」セレナ。

「あと一度」

「四十六で停止」

「覚えている」

「覚えていて越える人がいるから言っています!」

 ロロの二本の補助腕が棺板へ穴を通す。

 右手は使わない。

 痺れた指に仕事をさせず、左手で楔を打つ。

 エリアは踵を床へ固定しない。

 膝をつき、紙帯を七方向へ滑らせる。

「王家二十。兵十七。民十二。竜九。機関十四。物資十一。航図十七!」

「何の数字!」ハル。

「荷重割合!」

「合計百?」

「今計算するな!」

「安心したい!」

「八十七!」ロロ。

「足りない!」

「中央の残留十三を外壁へ逃がす!」

「だから合計百!」

「安心して引け!」

 七本目の索が通る。

 階段の板が中央直前で止まり、七つの外壁へ震動を分けた。

 成功ではない。

 王家版の壁画が三枚割れる。

 兵士版の砲床が沈む。

 八皿街の屋根が落ちる。

 全てを保存できない。

「持ち出し優先!」セレナ。

 美しい王の顔より、署名欄。

 完全な兵装より、欠員名簿。

 飾り皿より、帰り皿の輪染みの位置図。

 竜像より、オルドの応答音列。

 機関模型より、第八管の改造手順。

 物資の金庫より、抜かれた四十三頁の綴じ穴。

 航図の星飾りより、削られた四十三分の測定値。

「英雄が先じゃない」とハル。

「後でもない」とセレナ。「問いに必要なものから」

 七室から七つの複写箱が外へ滑る。

 完全な歴史を一つの船へ積まない。

 もし彼らがここで死んでも、王家だけ、軍だけ、終端環だけが真相の所有者にならないようにする。

 ウルの点検舟へ一箱。

 白峡谷の板持ちへ一箱。

 同盟の七拍符号で、各地へ索引だけ送る。

「魔法通信は終端外まで」とエリア。

「届く保証」

「ない」

「じゃあ二系統!」ハル。

「伝羽は使えない」

「紙筒を投げる!」

「雑!」

「雑でも別経路!」

 カイルが王家式の儀礼矢へ紙筒を結ぶ。

「こんな用途、礼法書にない」

「王家の歴史、初めて役に立つ?」ハル。

「過去二回くらいは役立った!」

 矢を放つ。

 金の飾り羽は、崩れる王城を越え、外周の無風棚へ飛んだ。

 論理は、板の上で完成する。

 証拠は、崩れる街から逃がさなければ次の朝を迎えない。

 真相を知ることと、真相が生き残ることは、別の救難だった。

 論理が届いても、都市は止まらない。

 七室の重量が、第八室へ落ちる。

「中央受け、あと四分!」ロロ。

「第八管へ流すな!」ハル。

「分かってる! 七室の外周支柱へ返す!」

 昔の安全手順。

 七つへ分ける。

 撤回弁を開く。

 中央一人へ集めない。

 エリアが紙帯で順を出す。

「王家、二。兵、四。民、今。竜、一拍後。機関、三。物資、五。航図、最後!」

 カイルが王冠の固定索を切らず、緩める。

 ハルが塹壕の土嚢を外周へ運ぶ。

 ロロが七弁を手動へ。

 ソウジが義手で主軸を逆回転する。

「温度!」セレナ。

「四十四!」

「停止二度前!」

「分かってる!」

 ノクスが第八管の前で吠える。

 七回ではない。

 一回。

 自分の声。

 オルドへ戻らない。

 中央の一部にもならない。

 その声を合図に、第八管を閉じる。

 圧は七つの外壁へ分かれる。

 歴史都市は、中央へ潰れず、外側から順に崩れる。

「退避!」

 証拠は全部持ち出せない。

 原物は位置を記録。

 複写を七つへ分ける。

 王家文書はカイル。

 軍記録はセレナ。

 民衆歌はウル。

 機関手順はロロ。

 路図はエリア。

 名前記録はアムナ。

 方位具は三鍵箱。

 一人へ完全版を持たせない。

 記録を各地へ分けて守る仕組みを、今度は意味ごと失わないようにする。

 最後の支柱が倒れる。

 白い髪が、砂煙の向こうで揺れた。

 周囲の色が薄くなる。

 星の反射を持たない黒い瞳。

 王冠の輪郭だけを残す黒衣。

 空白王アザル。

 彼は低い机へ触れる。

 文字が一瞬、薄くなる。

「記録したんだね」と言う。

 声は静かで、遠い群衆が重なる。

 アムナが答える。

「異議を聞く」

「僕が消してほしいと言えば?」

「名前の公開は止められる。被害の事実は、被害者の記録でもあるから、あなた一人では消せない」

「よくできた鎖だ」

「鎖になったら、改訂する」

 黒い星砂が、髪先から一粒落ちる。

 セレナは、崩壊音の中で証拠板をアザルへ向ける。

「訂正要求。あなたが現在答えられる範囲だけ」

「崩れる前に?」

「崩れた後でも異議は受けます。ただし今、見られるなら今」

 アザルは八つの欄を見る。

 王家。

 軍。

 民衆。

 機関。

 竜。

 生活建築。

 時間。

 現代。

「少年航路士」と彼。

「誤り?」

「航路士ではない。航路士見習い。資格試験の前だった」

 セレナが訂正する。

『少年航路士』を二重線。

『航路士見習い』。

「試験へ合格した記録は」とカイル。

「ない。戦争が始まった」

「不合格だった?」ハル。

「受けていない」

「じゃあ、航路士じゃなかった」

「でも道を作った」

「資格より先に仕事をさせられた」とアムナ。

「したかった」アザル。

「自発的?」セレナ。

「最初は」

「第八管への同意と同じにしない」

「分けるんだね」

「あなたが道を作りたかったことと、身体を受け口へされたことは別」

 アザルは次の欄を見る。

「古名不明」

「訂正は」

「ない」

「覚えていない?」ハル。

「覚えているかどうかも、今は答えない」

 アムナは書く。

『回答保留。記憶有無を推定しない』

「現在名は役名」とアザル。

「違う?」

「最初は役名。今は、僕が使っている」

「役名だから本名ではない、と書かない」とアムナ。

「役から始まっても、今の呼び名」

「そう」

 被害者へ名前を返すつもりで、本人が今選んだ名を仮のものへ下げない。

「公開範囲」とセレナ。

「僕の身体の寸法。爪傷。塩湯。低い机の私的会話は、一般公開しないで」

「被害構造を立証する必要部分は」

「王冠の内側へ子供が固定された。第八管へ身体を接続した。そこまで」

「会話文は」

「ハル本人と、記録管理者。今は」

 ハルを見る。

「俺も、公開を決める?」

「君の声でもある」

「じゃあ保留」

「採用」とアムナ。

 アザルは、被害記録を全部消せとは言わなかった。

 全部残せとも言わなかった。

 選び分けた。

 選び分けられる現在の主体であること自体が、千年前の少年をただの残響へしない一つの応答になる。

「現在の行為欄」とセレナ。

 アザルの目が止まる。

「異議は」

「後で」

「期限」

「君たちが生きている間に」

「広すぎます」

「では、今日が終わるまで」

「記録」アムナ。

 訂正を受けたから、責任を免じない。

 責任を記したから、訂正権を奪わない。

 その手順を見届けてから、アザルはハルへ視線を移した。

 アザルはハルを見る。

 一拍置いて、名を呼ぶ。

「ハル」

「いる」

「迎えに来ると言った」

「言った」

「否定しない?」

「しない」

「なら、約束を実行してもらう」

 崩れる都市の中央で、第八の少年は千年待った言葉を、現在の十五歳へ返した。