第789話 第十一章「幼いハルの失われた航路」前編

子供の約束を、軽いと言ってはいけない。

 子供は、持っている時間が短い。

 一週間は長く、一年は遠く、十年後は物語である。

 その子が「また来る」と言う時、自分の持つ未来の大部分を差し出していることがある。

 だから重い。

 同時に、その約束へ永遠の効力を与えてもいけない。

 子供は、危険の範囲を知らない。

 費用を知らない。

 誰が巻き込まれるかを知らない。

 撤回という言葉を知らない。

 重いことと、無期限に拘束できることは別である。

 約束を尊重するとは、昔の言葉へ現在の人間を縛ることではない。

 現在の本人へ、もう一度選ぶ席を返すことである。

【砕けた歴史都市/第八室崩壊縁/覚醒/アザル出現から四十秒】

「どこへ迎えに行く」

 ハルが聞く。

 アザルは答えない。

「目的地。期限。誰が一緒に行く。途中で止められるか。俺が断った時、どうなる」

「八年前、君は聞かなかった」

「七歳だった」

「約束はした」

「した」

「なら」

「その時の俺が、分からないまま『来たい』って言った。今の俺は、分からないまま従わない」

 アザルの周囲で、音が少し下がる。

「昔の自分を否定する?」

「否定しない。七歳の俺は、痛そうな人を置いて帰るのが嫌だった」

「今は?」

「今も嫌だ」

「なら同じだ」

「同じ気持ちでも、同じ条件じゃない」

 ハルは一歩だけ近づく。

 飛び込まない。

 手を勝手に握らない。

「俺には仲間がいる。七つの空域に生活がある。地球に母さんがいる。君が今まで消した名前と止めた町がある。全部知らないふりをして、昔の一言だけで決めない」

「期待は、条件が増えるほど破られる」

「条件を書かない約束は、破られた時に弱い方だけが悪くなる」

「誰に教わった」

「ここへ来るまでの、道と人ぜんぶ」

「道が教える?」

「人が教える。道は追試」

 カイルが小さく息を吐く。

「こんな時まで言葉遊び」

「怖い時の癖」エリア。

「本人の前で診断するな!」

「生存確認」

 アザルの髪先から、黒い砂が二粒落ちる。

「君は変わった」

「変わった。だから、昔の約束を今の俺が選び直す」

「選び直した結果が、拒否なら?」

「拒否できない選び直しは、選び直しじゃない」

 アザルは、ハルの後ろへ並ぶ仲間を見る。

「一人の約束に、七人が口を出す」

「六人と一頭」とロロ。

「そこを数える?」カイル。

「本人分類!」

 ノクスが一度だけ鼻を鳴らす。

「本人は数え方へ異議」とアムナ。

「では、君たちは何を要求する」とアザル。

 質問は挑発ではない。

 少なくとも声は穏やかだった。

 穏やかな質問が、相手へ答える義務を作ることもある。

「答えたくない者は答えない」とアムナ。

「先に規則を足す」

「あなたが質問を止めないと言ったから、私たちも答えを止められるようにする」

 アザルは否定しない。

 最初にカイルが前へ出る。

「僕は、王家の代理として条件を出さない。同行者として言う。ハルを連れていくなら、行き先と危険を事前に示すこと。僕たちが止める手段を残すこと。そして、君が受けた王家の加害を公的に認める手続と、現在の君の行為を審理する手続を、同じ交換条件へしないこと」

「認めれば、裁かれる?」

「認めなくても、証拠がある範囲は審理する。認めたことを免罪の代金にも、裁くための餌にも使わない」

「王家は約束を守る?」

「守れなかった時の撤回と補償を、先に書く」

 エリア。

「私は、経路を一つに固定しない。入口と出口だけでなく、途中停止、戻り、別行動の位置を示す。地図を渡せない場所なら、渡せない理由と範囲を言う」

「地図は、僕を閉じ込めた」

「地図が閉じ込めたのではなく、選べない地図を人が使った」

「道具を無罪にする?」

「道具は裁けない。設計者と使用者と管理者は分ける」

「君の母も?」

 エリアの左肺が一度、浅くなる。

「母も。父も。私も」

 ロロ。

「機械は、止める弁を付ける。止める権限を一人へ集めない。故障時に人間を部品にしない。お前の身体へつながってる管を外すなら、外した後にお前がどう生きるかまで設計する。外して死ぬなら救助じゃねえ」

「完全に外せないなら」

「できないと先に言う。半分できたのを完全って売らない」

「修理工は、正直だね」

「修理代まで正直に払え!」

「誰へ」

「千年前の未払い全部を俺へ払うな! 世界が破産する!」

 笑いが一瞬だけ出る。

 笑いが出たから、危機が軽いのではない。

 危機の中でも人間の形が残っている。

 セレナ。

「私は、あなたを本人として扱うための証拠と、あなたの行為を審理する証拠を分けます。回答拒否、訂正、非公開範囲を認めます。ただし、他者の被害記録まであなた一人の希望で消しません」

「記録しないでほしいと言えば」

「あなたの身体、私的記憶、古名は制限できます。第八管へ入れられた制度的事実は、関係者全員の記録です」

「僕の痛みは僕のものではない?」

「痛みはあなたのもの。痛みを作った装置の存在は、次の被害を防ぐため共同の検証対象」

「きれいな分け方だ」

「現実では、境界がずれます。異議手続を残す」

 アムナ。

「私は、あなたの名前を守った家の続きを命令にしない。アザルと呼ばれたくなければ止める。別の名を記録したくなければ空白にする。でも、あなたを忘れないために私が全てを覚える役にはならない」

「忘れる?」

「忘れる。人は忘れる。だから、複数へ分ける。誰か一人が忘れたら、全部消える仕組みにしない」

「君の家は千年、忘れなかった」

「忘れた人もいた。間違えた人もいた。だから二度呼んだ」

 ノクスは、何も言わない。

 ハルの靴紐を引かない。

 アザルの側へも行かない。

 ただ、第八管と仲間の間に座る。

「ノクスの条件」とハル。

「あなたが決める?」アザル。

「決めない。今は、どっちにも付いてない本人の位置を条件として扱う。無理に七心へ戻さない。君の一部とも呼ばない」

「僕と似ているのに」

「似ているから同じにしない」

 最後にハル。

「俺の条件は、今言った。目的地、期限、同行者、撤回、異議、失敗時の手順。それと、俺だけを選んで他のみんなを排除しない」

「僕が待ったのは君だ」

「待った相手と、巻き込まれる相手は別」

「君の約束へ、彼らは署名していない」

「だから彼らを約束の履行者にはしない。でも危険へ入れるなら、影響を受ける人として聞く」

 アザルは、低い机の空席を見る。

「八年前、君は一人で座った」

「八年前の俺に、今の仲間はいなかった」

「今は、一人では戻れない?」

「戻れる。戻れるけど、一人で決めない」

 能力の不足ではない。

 関係の選択である。

 それを弱さと呼ぶ者もいる。

 人間は、弱くなったのではなく、影響を数える範囲を増やすことがある。

「その前に、父の証言を取ります」とセレナ。

 ソウジが目を伏せる。

「今?」ハル。

「今です。アザルの要求は、あなたの失われた航路を前提にしている」

 アムナが質問を分ける。

「一つ目。なぜハルを連れてきた」

 ソウジの義手の親指が一回転する。

「第八室は、七空域の誓籍へ登録された者を拒んだ。地球生まれで、誓星術を持たない子供なら入れると考えた」

「考えた?」セレナ。

「事前に小動物と無記名器具で試した。人間ではハルが最初」

「本人へ説明は」

「迷路遊びだとだけ」

「ナツミへ」ハル。

「言っていない」

「母さんに」

「止められると思った」

「止められることを、相談しない理由にした」

「そうだ」

 受動態を使わない。

 それが正直さの全部ではない。

 だが、逃げ方を一つ減らす。

「二つ目」とアムナ。「何のため」

「アザルへ届く航路を測るため。彼を基幹誓術から外す方法を探すため。地球との境界を、片道の犠牲なしで開くため」

「善い目的を並べないで」とハル。「俺を使った目的」

 ソウジの歯車音が止まる。

「君を、七つの登録外にある生体鍵として使った」

「鍵」

「使った」

「俺が息子だから?」

「信頼させやすかった。連れて行けた。地球へ戻しても、記録へ残りにくいと思った」

 ハルの右手が震える。

 殴らない。

「守りたかった、も言う?」

「守りたかった」

「それだけじゃない」

「それだけじゃない」

「三つ目」とアムナ。「記憶を消したのは誰」

 アザルが答える。

「最初は僕」

 全員が彼を見る。

「ハルの約束が第八管へ登録されれば、彼の帰還願いまで僕へ流れる。持ち帰れば、七心が地球の座標を追う。だから航路記憶を、方位具へ逃がした」

「本人同意」とセレナ。

「取っていない」

「保護目的でも、記憶操作」

「そうだ」

 アザルは言い訳しない。

「その後」とソウジ。

「俺が封印を深くした。方位具を第八室網へ移し、ハルが思い出せないよう境界を閉じた」

「なぜ」

「追跡から守るため」

「それだけじゃない」ハル。

「君が話せば、ナツミと仲間が俺を止める。アザルの位置が各国へ知られる。俺の計画を続けられなくなると思った」

「つまり」

「君を守るためと、自分の計画を守るため。その二つを分けずに封じた」

「俺を鍵にして、鍵が文句を言わないよう忘れさせた」

「そうだ」

 ソウジは謝らない。

 今「すまなかった」と言えば、ハルへ受け取る役割を押しつける。

「説明と補償は、ここを出た後に続ける」

「出られたら?」

「出られなくても、記録を外へ渡す」

「また自分が消える答え」

 ソウジの姿勢が一センチ縮む。

「……そうだな」

「四つ目」とセレナ。「八年前の経路。記憶ではなく、再現可能な事実だけ」

 ソウジは、腰袋から三つの物を出す。

 赤い配送紐の切れ端。

 地球の鉄道切符。

 小さな真鍮の歯車。

「触れない」とセレナ。

「承知」

「来歴」

「紐はナツミの配送店。切符は、その日ハルと使った。歯車は境界測量器の停止部品」

「八年間、持っていた?」ハル。

「証拠としてではない。捨てられなかった」

「感傷を来歴に混ぜないで」とセレナ。

「訂正。紐と切符は私物袋で保管。保管記録なし。歯車はオルロイ号整備箱へ登録」

「前二つは物証強度が低い」

「分かっている」

「分かってて出す」ハル。

「自分の記憶を、証拠の顔で話さないため」

 セレナは三つを別々の袋へ入れる。

 赤い紐は、ナツミの店で使う結びと一致する。

 ただし同じ紐は数百本あった。

 切符の日付は八年前。

 乗車区間は、港町から海辺の旧倉庫駅。

 そこから先の記録はない。

 歯車には、終端環の黒い石粉。

 八年前の酸化層。

「少なくとも、その日あなたが地球側の旧倉庫駅へ行き、後にこの街の粉が付いた機械を持ち帰った連続はある」とセレナ。

「ハルが同行したかは、切符一枚では分からない」

「子供料金印」とカイル。

「子供が誰かは未確定」

「俺の足形」ハル。

「ここへ来た子供がハルである可能性は高い。駅からここまでの連続が不足」

「その不足を話す」とソウジ。

「証言欄へ」

 ソウジは、八年前の道を説明する。

 海辺の旧倉庫。

 潮が引く二十一分だけ現れる鉄梯子。

 地球側では方位磁針が乱れる倉庫地下。

 アステリア側では、誓籍を持つ大人を拒む白い壁。

「ハルを背負った?」

「最初の梯子だけ。本人が降りたいと言ったので下ろした」

「説明は」

「秘密基地へ行く、と」

「嘘」

「嘘だ」

「危険を言わなかった」

「言わなかった」

「母さんへは」

「港の古道具市へ連れていくと」

「二重に嘘」

「そうだ」

 ハルは右手で膝を押さえる。

 記憶が戻る。

 古道具市で、瓶蓋を選んだ。

 海辺で、父が針を布へこすった。

 自分は赤い紐を勝手に長く切り、ナツミに叱られると思った。

 完全な映像ではない。

「俺、方位具をその日に作った?」

「半分。瓶蓋と木片は地球。針の磁化は倉庫。赤い紐は君が結んだ」

「なぜ玩具を」

「白壁の中で、測量器が方向を失う。大人の指示へ従わせる道具ではなく、君が嫌だと思った方向を確認するものが要ると思った」

「良い父親の工夫」

 ソウジは答えない。

「そういう顔しないで。良いことを一個したら、連れてきたことが良くなるわけじゃない」

「分かっている」

「でも良いことはした?」

「したと思いたかった」

「思いたかった」

「方位具を渡せば、君へ選択を返したつもりになった。目的地も危険も教えず、最後の方向だけ選ばせた」

「選択の飾り」アムナ。

「そうだ」

 白壁の内側で、七歳のハルは三度、方位具を回した。

 一度目。

 地球側。

 戻るのが嫌だと言った。

 二度目。

 終端中央。

 怖いと言った。

 三度目。

 横の保守隙間。

 何があるか分からない、と言った。

「それで」セレナ。

「俺は、『分からない道を選べるのは航路士だけだ』と言った」

「褒めた」ハル。

「誘導した」

「両方」

「両方だ」

 ソウジは、子供が自分で選んだという形を作った。

 だが、選択肢の意味を知っていたのは大人だけだった。

 ハルは保守隙間を選び、第八室へ入った。

「アザルに何を言った」とセレナ。

「先に俺が会った。七心から外す試験をさせてほしいと」

「条件」

「ハルへ触れない。地球座標を追わない。記憶へ残らない」

「ハル本人の条件は」

「取っていない」

「アザルは」

「条件を増やした。ハルが帰りたいと言えば止める。ハルへ自分の名を記録させない。第八管へ接続しない」

 アムナが見る。

「アザルの方が、子供の条件を作った」

「そうだ」

「守った?」

 ソウジはアザルを見る。

「途中まで」

 アザルは否定しない。

「ハルが名前を聞いた」とソウジ。「彼は答えなかった。ハルが勝手に、壁の音と口承片からアザルと呼んだ」

「俺が?」

「三回間違えた。アザラ、アズル、アザル。三回目に謝った」

 低い机の音溝と一致する。

「ハルが方位具を回した時、針は地球を指さなかった」とソウジ。

「なぜ」

「第八室に北はない。針は、机の八方向の溝へ引かれた。ハルは『アザルが出られる方』を探した」

「出られた?」

「出られなかった」

「俺だけ帰した」

「アザルが第八管の流れを一時止め、赤糸を出口へつないだ。四十七秒」

「自分は」

「残った」

「ソウジは何をした」

「ハルを連れ出した」

「アザルを置いて」

「装置を止める手段がなかった」

「だから俺だけ」

「そうだ」

「撤退条件は」

「測量器が過熱したら撤退。ハルの拒否。アザルの拒否」

「アザルは拒否した?」

 ソウジは目を閉じない。

「『次は子供を連れてくるな』と言った」

「それ、拒否だろ」

「俺は、次はもっと安全にすると解釈した」

「都合よく」

「都合よく」

 何度も、同じ言葉を返す。

 言い訳が尽きたからではない。

 言い訳を一つずつ使わない選択をしている。

「方位具へ記憶を逃がしたのは」とセレナ。

 アザルが答える。

「僕。ハルの帰還願いと地球座標が七心へ流れかけた。約束を記録しなければ追跡は弱まる。だから、机と玩具へ分けた」

「なぜ八室迷宮へ移った」

「俺だ」とソウジ。「第八室へ残せば、アザルが触れ続ける。地球へ持ち帰れば、七心が追う可能性。両方から離れた空白証言室へ移した」

「お前だけが場所を知るように」ハル。

「そうした」

「俺の記憶を、証拠でも私物でもなく、自分の計画の鍵として保管した」

「否定しない」

「母さんには、帰り道で寝たって」

「言った」

「俺、帰ってから何日熱を出した」

「三日」

「病院」

「連れていかなかった。境界反応が見つかるのを恐れた」

 ハルの呼吸が速くなる。

 一。

 二。

 エリアが手を伸ばさない。

「止める?」

「続ける。肩二。呼吸三」

「四で停止」

「うん」

「ナツミは看病した」とソウジ。「俺は、ただの風邪だと言った」

「母さんから、選ぶ情報を取った」

「取った」

「俺からも」

「取った」

「アザルからも」

「取った」

 ハルは、父の罪を一語へまとめない。

 誘拐。

 実験。

 記憶操作。

 医療回避。

 虚偽。

 どの制度でどう扱うかは、ここを出てから分ける。

 今は、何が起きたかを分ける。

「俺は、迎えに来るって言った」

「言った」とアザル。

「ソウジは、その後どうした」

「私が記憶を深く封じた」とソウジ。「アザルが逃がした断片を、戻れないよう固定した」

「守るためだけじゃなく」

「計画を続けるため」

「俺が思い出したら、ここへ戻ると思った?」

「戻る。ナツミへ話す。俺を止める。各国がアザルを奪い合う。そう考えた」

「考えたじゃなく」

「恐れた」

「恐れたから、俺の人生へ鍵をかけた」

「そうだ」

 ソウジの証言は、完全な映像ではない。

 赤い紐。

 切符。

 歯車。

 足形。

 机傷。

 方位具。

 発熱した日を覚えるハル。

 独立した小さなものが、父の話の一部を支える。

 支えない部分は、証言のまま残る。