第790話 第十一章「幼いハルの失われた航路」後編
アザルは低い机へ座る。
千年前と同じ側。
裸足の跡があった座板。
反対側は空いている。
「ハル。座って」
「命令?」
「招待」
「撤回できる?」
「できる」
「座った後も」
「できる」
「他のみんなは」
「ここへは入れない」
「じゃあ座らない」
「一人で選べない?」
「一人で選ばない」
「君の選択なのに」
「影響を受ける人がいる。俺が最後に決めても、条件は一緒に見る」
「王になったね」
「王じゃない。配達員」
「違いは」
「荷物の行き先を、荷物に聞けない時は預からない」
「人を荷物へ例える?」カイル。
「今そこ拾う!?」
「言葉の責任」
アザルの口元が、ほんの少し動く。
少年だった頃の皮肉。
「では、今の約束を言って」
ハルは考える。
「君を、昔の部屋へ一人で戻さない」
「必ず?」
「必ずと言わない」
「期限」
「今から、俺たちが互いに選び直せる間」
「撤回者」
「俺と君。影響を受ける人も異議を出せる」
「僕が、全ての誓いを止めると言えば」
「反対する」
「それでも?」
「君を人として扱う。倒す必要があるなら止める。被害者だから許すことも、加害者だから昔の被害を消すこともしない」
黒い砂が、机へ落ちる。
アザルは、空いた座板を見る。
「君は、迎えに来たんじゃない」
「迎えに来た。でも、連れていく先を一緒に決めるため」
「それを、裏切りと呼ぶ者もいる」
「呼んでいい。裏切った後に、何を直すかも話す」
アザルは立つ。
「千年前の僕と同じことを言う」
視線がソウジへ移る。
「第三案。分散。撤回。君も言った」
「俺は実行で他人を置いていった」とソウジ。
「だから言葉は信用できない」
「言葉だけは」とハル。「行動まで消す理由にはならない」
「僕の条件も聞く?」アザル。
「聞く」とハル。
「同意するとは言わない」セレナ。
「記録するとも限らない」とアムナ。
「条件は三つ」
アザルは、空いた座板へ指を置く。
「一つ。ハルが一人で座る」
「拒否」
「まだ理由を聞いていない」
「一人で座る必要の理由を先に」
「第八管は、一人の選択しか受けない」
「その構造を使う時点で拒否」とロロ。「一人へ集める装置を、交渉の机にするな」
「二つ。七つの天鍵を、同時に開く」
「何のため」とカイル。
「僕を空席から外す」
「外れた後、七空域へ何が起きる」
「分からない」
「分からないを、全員へ強制する?」エリア。
「僕は千年、分からないまま強制された」
「されたことが、する権利にはならない」とアムナ。
「権利ではない。均衡」
「同じ痛みを配ることを、公平って呼ばない」とハル。
「痛みを知らない者が、直すと言う方が不公平だ」
アザルの声には、初めて熱が混じる。
黒い星砂が、床へ五粒。
「王は、僕へ『皆のため』と言った。兵は『終戦まで』。機関士は『少しだけ』。民は僕の皿を置いた。竜は答えを欠いた。記録者は僕の名を分けた。みんな、善いことを少しずつした。その少しずつが、僕へ全部来た」
誰も否定できない。
「今度は、少しずつ返す」とアザル。
「誰へ」とハル。
「全員へ」
「全員は、顔がない。全員へ返した痛みは、また一番弱い人へ落ちる」
「だから天鍵を止める。誓いがなければ、強い者も弱い者も約束で縛れない」
「医療も、浮島も、列車も止まる」ロロ。
「魔法へ依存させた社会の責任」
「責任を取る人間と、落ちる子供は同じじゃない」とカイル。
「王家が言う?」
「王家だから言う。責任を持つ名のある者へ請求し、無関係な者を代金にしない」
「千年前、そうしなかった」
「今、そうするために、僕は王家の記録へ署名した」
「遅い」
「遅い」カイルは認める。「遅いから、何もしない理由にはしない」
アザルの三つ目。
「ハルが、僕の待った時間を知る」
「どうやって」
「僕がいた場所へ来る」
「どこ」
「空冠監獄」
「目的地を言った」とハル。
「一部」セレナ。
「期限」
「僕が終わるまで」
「条件になってない」
「君たちは、期限があれば待てるの?」
「待つか決められる」
「終わりが分からなければ、始めない?」
「始めることはある。でも途中で止める手順を作る」
「止めるたび、僕はまた残る」
「残したくない。だから一緒に出る方法を探す」
「探す。測る。記録する。千年前から同じ言葉だ」
アザルはソウジを見る。
「彼も言った」
「俺は、結果を先に決めて測った」とソウジ。「外せると信じ、外せない証拠を小さくした」
「今度は信じない?」
「俺の信じ方を、条件にしない」
「では誰を信じる」
「手順と、複数の拒否と、失敗を公開すること」
「人を信じない答え」
「人を神にしない答え」
アザルは笑わない。
机の上の方位具へ、指を置く。
三鍵箱の外。
触れてはいない。
「ハル。君は、僕を連れていくと言わない」
「言えない」
「来たいとも」
「来たい。君が一人で待つ場所を見たい。君を出したい。でも、世界を止める条件では行かない」
「来たい」
八年前と同じ言葉。
アザルの瞳が、わずかに揺れる。
「記録しないと言った」と彼。
「八年前は」
「記録しなかった。だから破られても、誰も君へ請求しなかった」
「君が請求してる」
「僕は覚えている」
「覚えていることと、契約を持つことは別」アムナ。
「君の家は、覚えていたから僕を呼べた」
「呼べた。縛れない」
「記録は、力がないふりをする」
「ある。だから、私一人で持たない」
「分ければ、責任も薄くなる」
「薄くならないよう、誰が何を持ったか残す」
「残せなかったら」
「失敗と書く」
「書けば終わる?」
「終わらない。次の人が、同じ失敗を最初からしなくて済む」
アザルは、七つの歴史版を見る。
自分を消した記録。
今、自分を戻そうとする記録。
どちらも、人が作る。
「僕は、次の人を作らない」と言う。
「どういう意味」ハル。
「第八の受け口を、これで終わらせる」
「方法」
「全ての誓いを止める」
「世界を受け口なしにする?」ロロ。
「誓いそのものをなくす」
「撤回条件」
「ない」
「なら認めない!」
「認めなくていい」
アザルは、自分の胸へ手を当てる。
ハルは前へ出る。
止めるためではない。
最後に、条件を一つだけ渡すため。
「アザル。今止めるなら、医療と浮力と交通へ手動移行の時間をくれ。七空域へ警告。最低三十分」
「三十分で、また中央へ集める」
「集めない。同盟は各地で動く」
「君は、彼らを信じる」
「信じる。失敗することも含めて」
「僕は、期待をやめた」
七つの空洞が鳴る。
ハルは、アザルを殴れたかもしれない。
だが、殴れば胸の第八管がどうなるか分からない。
身体へ攻撃する前に、装置と人を分ける必要がある。
ロロも動かない。
セレナも証羽を使わない。
エリアも地図槍を突き立てない。
カイルも王盾炎を出さない。
能力がある者たちが、決定打へ使わない。
アザルは、その一瞬をためらいではなく、無力と読んだのかもしれない。
「言葉は遅い」と彼。
「遅くても、止める言葉は要る!」ハル。
「千年前、止める言葉は七つあった。誰も止めなかった」
「今は八つ目を言う!」
「何」
「君も止められる!」
アザルの指が、一拍だけ止まる。
だが、離れない。
「もう、止める僕がいない」
それは事実ではない。
今ここで選んでいる本人がいる。
しかし、自分を選択者として数えない千年が、彼の中へ制度より深く入っていた。
「では、行動を見せよう」
アザルは胸へ手を当てる。
七つの空洞が、同時に鳴る。
遠く。
七空域に残された天鍵が、一度だけ応答する。
ハルの手にある零星針。
翠獣環へ残された王獣鈴。
鏡砂環の双界鏡。
雷鎖環の天雷錨。
夢灯環の夢灯籠。
逆潮環で共同保管される潮骨笛。
そして、終端上空で眠る空冠。
持ち主も、管理者も、作動条件も違う。
ハルたちが一箇所へ集めたことはない。
アザルは所有していない。
それでも千年前の第八管は、七つの基幹へつながっている。
「何をする!」ロロ。
「約束がなければ、破約も流れない」
「止めて!」アムナ。
「停止条件は?」ハル。
アザルが一拍置く。
「僕が、期待をやめるまで」
条件になっていない。
だからハルは拒む。
「それは一人の気分へ世界を預ける。認めない!」
「認めなくていい」
七つの音が切れる。
エリアの地図槍から、最後の光が消える。
カイルの盾籠手で、赤い紋が暗くなる。
セレナの証羽が、ただの羽片へ落ちる。
ノクスの尾の燐光が消える。
零星針の中央で、星が一つも動かなくなる。
終端環では元から使えなかった魔法が、今度は遠い七空域からも消えた。
世界の全ての星が、同じ瞬間に息を止めた。