第795話 第二章「上下逆の牢」前編
地図は、上から描くものだと思われている。
それは描く者が、上を所有している時代の習慣である。
塔の上から城下を見下ろせる王。
測量標を先に打てる軍。
境界線を引いた後で住民へ知らせる役所。
地図を持つ者は、長く「どちらが上か」を決める側だった。
空冠要塞では、その上が四分ごとに変わる。
権力の比喩としては出来すぎていたが、囚人の肺と胃にとっては、ただ迷惑だった。
【第一反転後/収容区画】
エリア・ルーンベルグは、地図槍を失っていた。
路図〈ルート・レイ〉も出ない。
空間へ光線を引けば、現在地と目的地の間へ複数の経路が立ち上がる――その便利さは、今や何も残していない。
残ったのは、紙片三枚。
アムナの炭。
セレナの外套から抜いた糸。
横倒しの食器棚からこぼれた塩。
「豪華な測量隊ね」とエリア。
「公爵家の予算で増やす?」カイル。
「今、王家も公爵家も格子の同じ側よ」
「平等」
「条件が同じだけ。身体は違う」
エリアは左肺へ空気を入れすぎない。
深呼吸ではなく、短い呼吸を三回。
踵を床へ打つ路祖礼も行わない。今の床は元の天井で、二度鳴らせば反響が構造音へ混じる。
「紙、増やせる?」
「法的には窃取になる紙なら、史料保全現場責任者の房に帳票がある」とセレナ。
鉄板の向こうから声が返る。
「未使用の収容点検票、十二枚。持出しを許可する権限はない」
「使用許可は」
「管理者不明」
「では緊急避難のため一枚使用し、残数と用途を記録します」
「記録者が囚人側」
「監獄側が記録しないためです」
「異議なし」
帳票は壁下部の受渡口から一枚ずつ押し出された。
エリアは表の「収容者番号」「罪状」「処分期限」を裏返す。
「裏を使うの?」ハル。
「表は牢の地図。番号と罪状で人を配置する地図よ」
「裏は」
「まだ誰も命令を書いていない」
炭で、最初の線を引く。
実線――見た。
破線――推測。
点線――音だけ。
空白――未確認。
魔法を使わない手描き監獄図〈ペーパー・マップ〉。
自動更新されない。
誤りを消してくれない。
だから、誰がいつ間違えたかを残せる。
「美しくない」とハル。
「地図に美を求める人が言う?」
「エリアの地図はいつも綺麗」
右眉が上がる。
「褒めても現在地は近づかない」
「近づけるために褒めたんじゃない」
「では、後にして」
言葉だけは冷たい。
炭を持つ指は、少し速くなった。
第一の測定は、重さだった。
塩をひとつまみ、紙の中央へ落とす。
粒は真下へ落ちず、わずかに格子側へ流れた。
「回転軸は格子の反対」とロロ。
「なぜ」ハル。
「外へ押されてる。遊園地の回る乗り物、知らねえ?」
「日本にある」
「じゃあ説明代、一ルク返せ」
「まだ払ってない」
「借金だけ世界を越えるな!」
エリアは塩の流向を矢印にする。
第二の測定は歩数。
格子から長机まで七歩。
長机から灯火口まで四歩半。
元の床だった壁まで十一歩。
ハルとカイルでは歩幅が違う。
「私が基準」とエリア。
「公爵令嬢基準の牢」とハル。
「測量者基準」
「政治的に正しい言い換え」
「正確な言い換え」
「同じ?」
「違うから言い換えたの」
壁の擦り傷を調べる。
床から腰の高さに靴跡。
元の天井側にも同じ高さに靴跡。
左右の壁には爪、木片、金属留め具の摩耗。
「囚人が上下両方を歩いた」とセレナ。
「反転のたび、同じ扉が別階へ来る」とエリア。
第三の測定は糸。
糸の先へ零星針を結ぼうとしたハルを、エリアが止めた。
「傷つく」
「針が?」
「あなたが」
「重りにするだけ」
「今はまだ、道具の意味が変わる準備をあなたがしていない」
「地図科に感情診断まで」
「私の推測。点線で記録して」
代わりに、カイルの半マントの留め具を使う。
「王家の紋章、重りへ転職」とカイル。
「威厳の再就職先が見つかった」ハル。
「待遇は」
「糸一本」
「王家史上最低」
糸を三点から垂らす。
向きが微妙に違う。
収容区画は単純な円筒ではない。
回転軸に対し、房ごとに角度を変えた籠がぶら下がっている。
「牢が王冠の歯みたいに並ぶ」とロロ。
「歯というより可動箱」とエリア。「反転の時、箱そのものが別の溝へ移る」
「つまり」ハル。
「同じ廊下を歩いても、次の反転後には別の高さへ出る」
「階段なしで階が変わる」
「階という考えを固定すると迷う」
「上も下もない?」
「ある。今だけ」
エリアは地図の四辺へ、方角ではなく時刻を書いた。
第一反転前。
第一反転後。
灯火開。
巡回通過。
場所だけでは、監獄を描けない。
時間と一緒に描く必要がある。
地図を描く仕事は、線を引く仕事に見える。
実際には、線を引く前に人へ何度も同じことを聞く仕事だった。
どこから来た。
何を見た。
何を見なかった。
歩けるか。
戻りたいか。
その道を、他人にも教えてよいか。
エリアは鉄板の向こうにいる史料保全現場責任者へ、現在の房の寸法を尋ねた。
「横幅」
「こちらの足で八歩。歩幅は約六十二センチ」
「身長」
「公開しない」
「歩幅換算に必要」
「百七十前後。正確値は保留」
「受領。扉の位置」
「第一反転時は右壁中央。現在は天井寄り」
「天井寄り、何センチ」
「目測一メートル四十。確認器具なし」
「推定線で記録する」
そのやり取りを聞いていたハルが、地図を覗き込む。
「名前は聞かない?」
「本人が出していない」
「呼びにくい」
「役割名で呼ぶことへ本人が同意している」
「役割を奪われた時は?」
エリアの炭が止まった。
収容点検票には、彼女自身も番号で置かれている。
公爵令嬢でも航路科首席でもなく、収容者E-02。
「その時は、本人へもう一度聞く」
「じゃあ今、聞く?」
鉄板の向こうから先に声がした。
「今は役割名でよい。役割を終えたら、別の呼び方を相談する」
「了解」とハル。
呼称にも終了条件が付いた。
エリアは地図の余白へ、小さく記した。
『呼称――史料保全現場責任者。解除条件……』
書きかけて、消す。
「今、何を書こうとした?」ハル。
「役割名を終える条件」
「本人へ聞く前に決めるの?」
「だから消した」
地図は場所を決める道具だが、人の呼ばれ方まで決めてよい道具ではない。
線が越えてはならない境界は、紙の上にもある。
エリアは消し跡を黒く塗り潰さず、間違えた場所として薄く残した。
方向を失うと、人は右と左を間違えると思われている。
実際には、もっと先に、自分の身体の中の上下を信用できなくなる。
第二反転を待つ間、ハルは水を一口飲み、すぐ口を押さえた。
「気持ち悪い」
「胃が現在の下を遅れて認識している」とセレナ。
「俺の胃、情報更新が遅い」
「あなたの頭より速い」カイル。
「王子の肋骨より柔軟」
「骨は更新しない」
「二人とも、笑うなら壁環を持って」とエリア。
彼女は自分も吐き気があることを言わない。
言わないまま、紙へ線を引く手が二度ずれた。
ハルがそのずれを見る。
「呼吸」
「二」
「吐き気」
「一」
「嘘」
「証羽なしで断定しないで」
「顔」
「顔は証拠にならないと、さっき言ったでしょう」
「予測。訂正可能」
エリアは目を閉じた。
「吐き気二。左肺二。地図作業は続行可能。ただし線を引くのは三分休止」
「受領」
「嬉しそうに言わない」
「言えたのが」
「そういう褒め方は、次から先に許可を取って」
「褒める許可?」
「今は要らない」
「どっち」
「褒めるなという意味」
「正確」
エリアは目を閉じたまま、口元だけで少し笑った。
休止中、地図はハルの膝へ置かれた。
「触らないで」
「持つだけ」
「炭を落とさない」
「配達員を信用して」
「方向以外は」
「限定が広い」
ハルは紙の重さを感じる。
路図なら、エリアの指先から現れ、光のまま消える。
この紙は、濡れれば滲む。折れば線がずれる。燃えれば終わる。
だからこそ、持つ者の手へ責任が移る。
ハルは地図を受け取ったまま、現在の部屋を見直した。
「机の脚、一本だけ短い」
「何センチ」
「指一本」
「あなたの指?」
「俺の小指の半分」
「測量単位として最悪」
「でも、反転したら机が一方向へ先に滑る」
エリアが目を開く。
「採用。短脚を位相標にする」
ハルは炭で印を付けようとして、止まる。
「俺が書く?」
「実線は観測者が書いてよい。時刻と観測者符号も」
「字、汚い」
「汚さは誤りではない。読めないなら問題」
ハルは、机脚の印を描く。
線は曲がった。
だが、その曲がりには誰が見たかが残った。