第794話 第一章「能力のない朝」後編
食事口が開いた。
人の手は見えない。
鉄盆が、歯車式の小台へ乗って滑り込む。
水。
硬い黒パン。
塩の薄い豆。
「毒見」とカイル。
「王子が?」ハル。
「王族教育。毒を見分ける」
「食べて?」
「味、匂い、変色」
「食べてる」
「一口は検査」
「二口目」
「再現性」
「三口目」
「空腹」
「正直になった」
セレナは盆の底を見る。
「油汚れ。滑走台は機械式。刻印は三日前の補給票」
「三日?」
「刻印日が現在日とは限りません。ただし豆の表面乾燥、パンの硬化、私たちの口腔乾燥から、鎮静は一日未満ではない」
「何日」
「二日から四日」
ハルの腹が、遅れて空腹を認めた。
「外」
「七空域は魔法停止中」とエリア。「二日以上」
「母さん」
地球側の空。
境界。
約束。
考えた瞬間、時計の止まった待合室が胸の中へ現れる。
ハルはパンを噛む。
待つ恐怖は、空腹を消さない。
消さないなら、食べる。
「全員、半分残して」とロロ。
「食料備蓄?」
「違う。床の傾きと滑りを測る重り。豆は転がる。パンは止まる」
「食べ物を測量具へするの、罰当たり」とカイル。
「王城で苺を盗む奴が言うな」
「苺は文化交流」
「厨房との?」
「最も重要な外交だ」
ロロはパン屑を、現在の床へ三つ置く。
「次の回転まで測る。歯車音、最初から何分?」
「覚醒後、七分三十二秒」とセレナ。
「正確」ハル。
「鎮静中でない時刻だけ」
「それでも」
食事口の向こうから、靴音が来る。
一。
二。
三。
四。
一定。
房帯が回転した後も、音の高さも間隔も変わらない。
「外側の巡回路」とエリア。「牢房だけが回っている。兵は固定環」
「じゃあ壁の向こうへ行けば、上下は一つ」ハル。
「行ければ」
「行く」
「それを計画と呼ぶには、動詞が一個すぎる」
「増やす。行って、探して、出る」
「三個でも雑」
靴音が止まる。
食事口の小窓へ、目が一つ現れた。
灰色。
眠そうで、怖れている目。
「収容者、状態申告」
「名前」とアムナ。
監視兵の目が動く。
「番号で答えろ」
「あなたの名前。もう一度」
「必要ない」
「公開しない。今、誰が見ているか知りたい」
「規則違反だ」
「名前を持つのが?」ハル。
「収容者との私的情報交換」
「じゃあ役割と終了時刻」カイル。「監視任務は、いつまでだ」
「命令解除まで」
「解除条件」
「知らない」
「命令者」セレナ。
「回答権限なし」
「知らないのではなく、答えられない?」
「……回答権限なし」
目が消える。
靴音が遠ざかる。
アムナは名を得なかった。
代わりに、足音を四本の短い線で床へ描いた。
「同じ人?」ハル。
「左足だけ、二拍目が浅い。さっきの巡回と同じ」
「名前なしで覚える」
「名前がなくても、人は一人」
次の回転は、覚醒から十三分二十秒後に始まった。
ロロが数える。
「四百歯。外周一歯二秒。最後の二十歯だけ減速」
「なぜ分かる」
「音」
「高音、聞こえにくいだろ」
「低い噛み込みは聞こえる。高いのは床で読む」
能力ではない。
生きてきた身体の使い方だった。
ハルはパン屑を見る。
回転開始前、床の傾きは零。
最初の百歯で十五度。
中央の二百八十歯で百五十度。
最後の二十歯で減速。
「途中に、動きが止まる場所がある」とエリア。
「何秒」
「三秒未満。七十度前後」
「重りが切り替わる」ロロ。
「そこが走れる?」ハル。
「走る話をする前に、道を描く」
「道を描く前に、見ないと」
「見に行く前に、扉を開ける」
「扉を開ける前に、鍵」
「鍵の前に構造」
「話が一周した」カイル。
「牢屋も一周する」ハル。
「上手くない」エリア。
「一周して戻ってきたのに?」
「言葉遊びは、戻れば成立するものではない」
「じゃあ脱獄も?」
「戻らないから成立する」
房帯が七十度へ達した。
ごく短く、歯車音が消える。
三秒。
その瞬間だけ、壁の小窓の向こうから別の音がした。
かり。
かり。
かり。
爪。
「ノクス!」
ハルが壁へ向く。
音は頭上。
次の瞬間、回転が進み、頭上は横へ流れた。
「位置を!」エリア。
「光窓から右へ二歩、今の上へ一・五!」ハル。
「現在位相を付けて!」
「回転七十二度!」ロロ。
「記録」とセレナ。
アムナが床へ線を引く。
物音は、一度だけ。
それでも、未確認は一段変わる。
『七――生存可能性高。隔壁向こう。位相七十二度』
反転後、全員が自分の能力を一度だけ確かめた。
何度も試さない。
出ない力を出そうとすれば、身体だけが昔の代償を先に思い出す。
エリアはグリムリリーの石突きを床へ置き、右手で半円を描いた。
「路図〈ルート・レイ〉、展開」
白い線は出ない。
踵には、以前の酷使で残った針状痛だけがある。
「能力の反動だけ残るの、不公平じゃない?」ハル。
「借金は店が閉まっても消えないらしいわ」
「ロロの世界観が感染してる」
「正確な比喩よ」
カイルは右籠手を左拳で叩いた。
一度。
二度。
「守る人数、八。対象、全員」
炎は出ない。
代わりに籠手の重みが古い肋骨へ響く。
「景気が悪いどころか、閉店だな」
「盾がなくても前へ出る気でしょう」とセレナ。
「出ないと言えば信用するか」
「しません」
「では、正直に出る」
ロロは壊れた食事口へ左手を当てた。
「再機」
過去の動作は戻らない。
錆の粉だけが指へ付く。
「こいつ、壊れた時の音は知ってんのに、今は何も喋らねえ」
「機械が黙るの、怖い?」ハル。
「怖くねえ。……静かすぎるのが、嫌いなだけだ」
セレナは灰色の証羽を掌へ載せる。
ハルがわざと嘘を言った。
「俺、方向感覚がすごくいい」
羽は動かない。
「能力がなくても偽証は偽証です」
「判定できた」
「常識で」
ノクスはハルの手首を嗅いだ。
破られた約束の匂いは追えない。
それでも汗と鉄と、さっき分けた水の匂いは分かる。
ノクスは水椀の残りへ鼻を向けた。
「普通の鼻、正常」とハル。
「ノゥ」
「普通って言うな、だそうよ」とエリア。
アムナだけは試すべき術がない。
彼女は全員の失敗を見た後、自分の炭を半分に折った。
「一本だと、なくした時に終わる」
「最初から分ける?」カイル。
「うん。力がない日の準備は、力がある日にするものだから」
その言葉に、史料保全現場責任者が顔を伏せた。
「終端議会は逆だった。力が止まった後の手順を、力のある中枢だけへ保管した」
「止まったら読めない?」ハル。
「読めない」
「馬鹿なの」
「制度としては、そう評価される」
「本人としては」
「私も、その馬鹿を守った」
セレナが壁へ書く。
『能力停止確認。
身体的代償・古傷は継続。
非魔法道具は使用可。
制度上の予備手順、アクセス不能。』
能力がないから役割がないのではない。
だが、その結論はまだ言葉だけだった。
これから手で証明しなければならない。
黄白い灯りが暗くなる。
朝が終わるのではない。
油を節約している。
壁の奥から、太い管へ声が入る音がした。
空冠要塞の放送は、魔法ではない。
銅管と薄膜と、人の肺でできている。
だから声は少し歪み、遠い群衆の囁きが混じらない。
空白王アザルの声は、それでも静かだった。
『ハル』
一拍置いて、名前を呼ぶ。
「いる」
『目覚めたね』
「寝かせたのは誰」
『要塞の旧手順』
「命令者」セレナ。
『僕』
「終了条件」カイル。
『君たちが、待った場所を理解するまで』
「条件になってない」とハル。
『条件を増やすほど、君は約束を遠ざける』
「条件がない約束で、君は千年閉じ込められた」
管の向こうで、黒い星砂の落ちる音は聞こえない。
ただ、沈黙が一拍長くなる。
『ソウジは、条件を提示した』
ハルの指が、零星針の蓋へ行く。
一度。
二度。
三度目で止める。
「どんな」
『世界を再起動する。その間、彼が破約を受け取る』
「間って何分」
『未確定』
「撤回」
『接続後は難しい』
「難しいは、できる?」
『現在の設計では、ほぼできない』
「本人が決めた?」
『彼は同意した』
カイルの冗談が止まる。
エリアの顎が少し上がる。
ロロの補助腕が、固定輪の中で金属音を立てる。
セレナは、見ていないことを見た顔にしない。
アムナは、ソウジの名を手へ書かない。
ハルだけが、返事を急いだ。
「同意した一瞬を、残り全部へ貼るな」
『君が僕へ言った言葉と同じだ』
「だから分かる!」
『彼は、自分が次の器になると言った』
壁の光が、完全に消える。
暗闇で、零星針の針は動かない。
方向は示さない。
それでもハルは、嫌な方向だけは分かった。
誰か一人を、世界の受取人にする方角。
「却下」
『君に却下権はない』
「ソウジにも、俺を黙らせる権利はない」
『牢の中から?』
「牢の中だから、最初に扉を開ける」
管の向こうで、アザルは笑わなかった。
『では、能力のない君が何者か、見せて』
放送が切れる。
暗闇で、ハルは仲間の位置をもう一度呼ぶ。
「一。ハル」
「二。エリア」
「三。カイル」
「四。ロロ」
「五。セレナ」
「六。アムナ」
隔壁の向こうで、爪が一度鳴った。
七番目は、言葉を持たない。
だからハルは代わりに答えず、音があった位置だけを覚えた。