第793話 第一章「能力のない朝」前編
人が能力を失った時、最初に失うのは能力ではない。
自分を説明する便利な名詞である。
剣士から剣を取る。
地図師から地図を取る。
王から王冠を取る。
証人から記録を取る。
そうすると周囲は、何が残るかを見ようとするより先に、何も残らなかったという結論を急ぎやすい。
これは権力者が好む手品である。
道具を没収して、人間まで没収したことにする。
空冠要塞〈クラウン・ゼロ〉の監獄は、この手品を建築にした場所だった。
いま要塞全体は、術を使えない空白域〈ノー・スター〉へ変わっている。
誓紋を沈黙させる。
天鍵をただの物へ戻す。
名札を番号へ変える。
床を天井へ変え、上と下を信用できなくする。
最後に、囚人へ問いかける。
――では、君は何者だ。
ところが、監獄というものは昔から一つの失敗を繰り返す。
人間から役目を剥がせば、役目を演じなくてよい人間が残る。
【現実/空冠要塞・第六収容環/覚醒/全誓星術停止から二日と十一時間】
朝は、壁から点いた。
太陽ではない。
乳白色の丸窓の向こうで、火打ち歯車が三度擦れ、芯へ火が移り、薄い油煙を吐きながら黄白い光が広がった。
その光を見て、凪野ハルは最初に思った。
機械だ。
次に思った。
頭が痛い。
三番目に思ったことは、考えるより先に口から出た。
「人数」
喉が乾いて、声は紙やすりみたいだった。
返事はない。
ハルは右手を床へつく。
床だと思った板は冷たい鉄で、細かな横溝がある。左肩へ体重を預けない。右膝を立てる。視界の端で部屋が一度伸び、戻った。
「一、ハル。起きた。頭二、左肩二、吐き気一」
母の配送店で、事故に遭った配達員へ使う点呼だった。
名前。
返事。
身体。
最後に見た場所。
誰かを荷物のように数えるためではない。
荷物なら送り状を見れば数えられるが、人間は自分の口で状態を変えるからである。
「二」
「エリア」
左側の暗がりから、明瞭な声。
「意識あり。頭一。左肺二。両踵二。手足の感覚、左右差なし」
「最後」
「ゼロスター号の収容口。眠気を伴う甘い金属臭。あなたが扉へ蹴りを入れようとして、届く前に倒れたところ」
「蹴ってない」
「蹴る顔だった」
「顔は証拠?」
「予測。訂正可能」
いつものエリアだった。
能力のあるなしとは無関係に、会話の誤差へ線を引く。
「三」
「カイル。景気の悪い朝だな」
反対側で、鎖が鳴った。
「肋部三、背中三、右腕二。左手は動く。頭一。最後は、普通の盾を半分にしたところ」
「盾は?」
「王家の財産として丁重に没収された。半分しかないのに、没収手続きは一枚分だった」
「それ、返還請求で半分得する?」
「半分損してる」
「王家の会計、難しいな」
「王家でなく算数の問題だ」
暗がりの別の場所から、甲高い声が割り込んだ。
「算数の前に四! ロロ・ピクス! 喘息二、右手三と四の指が痺れ三、左手動く、補助腕一本は……動かねえんじゃなくて、固定輪へ噛まされてる! これ解除だけで修理代六十七ルク、危険手当別!」
「起きた瞬間に請求できるなら元気」
「元気と無料は同義じゃねえ!」
「最後は」
「船首を収容口へ突っ込んだ! 前檣へ置いてきた補助腕一本! 残り一本は背中にある! 工具箱なし! ゴーグルあり! 右レンズ割れ一!」
「五」
「セレナ・クロウ」
低く乾いた声。
「意識あり。左眼三。右手首二。頭痛二。時間感覚は暫定。最後に確認したのは、収容口の内側から降下した鉄扉。鎮静剤と思われる霧を吸入後、四十七秒までは記憶があります」
「何の匂い」
「甘い金属、乾いた苔、油。魔法反応は確認不能」
「証羽は」
「ありません」
短い。
短い返事の中に、怒りと不安と、道具へ依存していた自分への警戒が同居していた。
「六」
「アムナ」
小さい声が、ハルの正面から返る。
「頭二。咳一。左薬指、感覚はいつもと同じ。名前の混同、今はない」
「最後」
「鉄の扉。ノクスの足音。七回目が途中で消えた」
ハルは息を止めた。
「七。ノクス」
返事はない。
「ノクス」
鉄壁の向こうで、ごく小さく何かが擦れた。
爪。
あるいは金具。
ハルは立とうとした。
「待って」とエリア。
「いるかもしれない」
「いる可能性と、今走ってよいことは同じではない。床が分からない」
「床はこれ」
「今は」
その二文字が落ちた直後、部屋の奥で歯車が一段噛んだ。
ごん。
壁の光が、横へ動いた。
動いたのは光ではない。
部屋だった。
「固定!」エリア。
ハルは右手で床溝をつかむ。
カイルが近くの鎖を左手で引き、ロロの腰へ回す。セレナは右手首を使わず左腕でアムナを壁際へ押す。誰も「守る」と言わない。何を、どこへ、どの手で押さえるかを言う。
鉄の部屋が、ゆっくり傾く。
十度。
二十度。
さっきまで床だった面を、砂粒が滑る。
「回転!」ロロ。「重力が変わってるんじゃねえ! 房帯ごと回してやがる!」
「外の下は一定?」ハル。
「たぶん! 船の振り子式牢房! ただし規模が頭おかしい!」
「頭のいい規模は?」
「今聞くな!」
四十五度。
ハルの身体が横へ引かれる。
左肩を守るため、右足を壁の溝へ差す。赤いマフラーが首から浮き、カイルの顎へ張りついた。
「王太子を絞首する気か!」
「マフラーに聞いて!」
「布へ責任を移すな!」セレナ。
「布は黙秘!」
「全員、声を出し続けて」とアムナ。「位置が変わる」
九十度。
壁が床になる。
部屋の角へ、六人の身体と鎖と、薄い食器が一斉に落ちた。
カイルが背中を打つ前に左肩を丸める。
ロロの一本だけ残った補助腕は固定輪へ縛られたまま、背中の支えになった。
エリアは両踵を床へ打ちつけず、膝と腰で滑る。
セレナの単眼鏡が外れかけ、アムナが右手で受ける。
「受領」とアムナ。
「私物です。返却を」
「今?」
「傷が付く前に」
「生存確認の後!」ハル。
「順序は賛成」セレナ。
百八十度。
元の天井が、新しい床になった。
そこには、最初から床として使うための横溝が刻まれていた。
壁だった二面にも、同じ溝。
天井だった場所には、排水穴と、折り畳み式の寝台。
「上下両用」とエリア。
「牢屋がリバーシブル」ハル。
「服みたいに言うな。着たくねえ」ロロ。
歯車音が止まる。
黄白い灯りは、今度は床の下から照らしていた。
人の顔は下から照らされると、善人も悪人も事件の途中に見える。
第一回転後の点呼。
ハル、左肩二のまま。
エリア、左肺二、踵二。
カイル、背中三から四へ上昇せず。
ロロ、喘息二、右指三。
セレナ、左眼三、右手首二。
アムナ、頭二、名前混同なし。
ノクス、返事なし。
「七を欠員にしない」とアムナ。
「未確認」とセレナ。
「物音はあった」ハル。
「種類未確認」
「でも、探す」
「行動方針として記録」
セレナは羽根も筆もないのに、左人差し指で床の埃へ文字を書いた。
『七――未確認。捜索』
「消える」とハル。
「消えるまでの記録です」
「覚える」とアムナ。
「公開範囲は」
「この六人。ノクス本人へ確認後、変更」
「採用」
道具がなくても、二人はすぐに記録制度を始める。
人間は文明を持ち込むのではない。
何を先に確かめるかという順番を持ち込む。
ハルは胸元を探った。
赤いマフラー。
配達鞄はない。
上着の内側に、硬い円盤。
零星針。
「ある」
全員が見る。
「なぜ没収されてない」とカイル。
「動かないから、ただの古い金属と判定した可能性」とセレナ。
「あるいは、持たせること自体が実験」とエリア。
「どっちでも、今は確認」
ハルは蓋を開く。
黒い文字盤。
中央の空席。
銀の針。
問いを言う。
「ノクスは、どこにいる」
針は動かない。
一ミリも。
「もう一回」
「条件を変えるな」とセレナ。
「変えてない」
「感情負荷が上がっています」
「感情は条件?」
「零星針では、問いの具体性と所持者の認識が影響する」エリア。
「じゃあ具体的に。ノクスが生きている方向」
動かない。
「この牢の出口」
動かない。
「ソウジ」
動かない。
ハルは蓋を親指で一度弾いた。
二度。
三度。
四度目へ行く前に、エリアの指が蓋へ触れた。
「壊れているのではない」
「動かないなら、同じ」
「違う。故障なら、直せる可能性へ意識が固定される。今は世界側の条件がない」
「慰め?」
「分類」
「分類は優しい?」
「優しくなくても、次の行動を間違えにくい」
ハルは針を見る。
自分の前髪の銀筋だけが、磨かれた蓋へ薄く映る。
「零星針がなければ、俺、方向音痴なんだけど」
「知っている」
「即答」
「地図を持っていても方向音痴」カイル。
「追加で傷つけるな」
「能力が消えても特性は残るらしい」
「王盾が消えても性格が悪いみたいに?」
「僕の性格は王家の基幹設備じゃない」
「止められないなら、基幹設備より迷惑」
笑いが一度だけ出た。
怖い時、ハルは冗談が増える。
カイルも同じである。
二人が揃うと、恐怖は半分にならず、冗談だけ二倍になる。
「能力確認」とセレナ。
順に試す。
エリアの指先から路図は出ない。
床へ置いた爪の影すら、道へ変わらない。
カイルの右籠手に、王盾炎は灯らない。
輪状の星痕は薄い傷のまま。
ロロは錆びた食器へ手を当てる。
再機は戻らない。
皿は欠けたまま、ただ冷たい。
セレナが黒い羽片を一本、外套の縫い目から見つける。
証羽は過去を映さない。
普通の羽根より少し重いだけ。
ノクスはいない。
アムナだけが、何も失っていない。
「見ないで」とアムナ。
全員が一瞬、目を逸らす。
「違う。私だけ平気みたいに見るな」
「ごめん」とハル。
「私は前から、扉に開けてもらえなかった。今、全員が同じ扉の外へ出ただけ」
「同じ条件?」ティアなら、そう問うところだった。
エリアが代わりに言う。
「同じ設備停止でも、あなたには経験がある。私たちにはない。負担は同じではない」
「経験を、案内役の義務にしないで」
「しない。頼む時は、役割と終了を言う」
アムナは一度、息だけで笑った。
「それなら、聞く」