第797話 第三章「手描きの監獄図」前編

記録は、起きたことを残すためにある。

 これは半分だけ正しい。

 記録は、起きなかったことを、起きたことにしないためにもある。

 見ていない。

 聞いていない。

 確かめられない。

 今は答えない。

 これらは空白ではない。

 事実へ混ぜてはいけない境界である。

 裁判所は長く、空欄を怠慢と疑ってきた。

 王家は空欄を反抗と疑い、軍は空欄を欠員と疑い、商人は空欄を未回収の利益と疑った。

 だが、何も書かれていない欄へ、最も早く自分の答えを書き込む者が、真実を得るとは限らない。

 セレナ・クロウは、証羽を失った朝、最初に空欄の数を増やした。

【空冠要塞/第六収容環/第三反転前】

 地図は一枚では足りなかった。

 エリアが描いた監獄図を、セレナは四枚へ分けた。

 一枚目。

 見た壁、触れた格子、測った歩数。

 二枚目。

 聞いた足音、歯車、爪、配管。

 三枚目。

 他者から聞いた構造。

 四枚目。

 誤っている可能性がある仮説。

「最後の一枚だけ、やたら広い」とハル。

「仮説は増えやすいからです」

「真実より?」

「真実は増えません。分かる範囲が増えます」

「同じに聞こえる」

「同じに聞こえることと、同じであることを分けるための四枚です」

「言葉が四枚」

「あなたは一枚でも足りません」

 セレナは右手首を使わず、左手で炭を持つ。

 字は遅い。

 遅い字は、考える時間を増やす。

 便利な証羽があれば、見た場面を羽根へ移し、後で何度でも再生できた。

 今は自分の左眼が見落とした範囲も、頭痛で歪んだ距離も、記録者本人の一部として残る。

「単眼鏡、曇ってる」とカイル。

「見えています」

「見えると、見やすいは別だろ」

「現在の役割に必要な範囲です」

「必要かどうかを本人だけで決めるの、今まで何回怒った?」ハル。

 セレナは黙った。

 事実を曲げず、自分だけを例外にすることはできない。

「左眼四。光が少ないため焦点遅延。単眼鏡内面に油膜。清掃布なし」

「清掃方法」とロロ。

「乾いた薄布」

 アムナが外套の内側から、名前を書いていない灰布の端を切った。

「用途、単眼鏡。公開しない名前なし」

「返却条件」セレナ。

「汚れたら返さなくていい。使った記録だけ」

「受領」

 布を受け取る。

 助けを受けた事実を、借りへ変えない。

 物だけでなく、条件も受け取る。

 第三の巡回兵は二人だった。

 靴音が重なる。

 一人は左足二拍目が浅い。

 もう一人は右踵へ金具があり、四歩ごとに高い音がする。

 小窓が開く。

「点検」

「名前」とアムナ。

「番号で答えろ」

「あなたの名前。公開しない」

「規則違反だ」

 左足の浅い兵。

 右踵金具の兵が、小声で言った。

「ミ――」

「言うな」

 名前の最初の音だけが、鉄板へ残る。

 アムナは手の甲へ書かない。

 床へも書かない。

「聞いた?」ハル。

「聞いた」

「覚えた?」

「覚えた」

「書かない?」

「本人が止められた。今、公開しない」

「でも、後で必要になるかも」

「必要と、今書いてよいは別」

 セレナは、巡回記録へこう書いた。

『巡回兵A。左足第二拍浅い。本人名は部分聴取したが、同僚による制止あり。公開保留』

「名前を隠して、責任まで隠れない?」カイル。

「命令時刻、行動、担当区画は記録します。個人を追跡可能にする情報と、公的責任を分ける」

「できる?」

「できるようにする」

「断定」

「方針」

 窓の向こうで、金具の兵が盆を確認する。

「六人」

「七」とハル。

「収容記録は六」

「ノクスを物品へ入れた」

「物品区分は別」

「本人は物品じゃない」

「分類は私が決めたものではない」

「今、呼んだのはあなた」

 金具の兵が黙る。

 命令書の言葉を口にした瞬間、命令書を書いていない人間も、その分類の実行者になる。

「訂正要求」とセレナ。「夜獣ノクス。正式乗員。自己選択主体。物品区分の使用を停止してください」

「権限がない」

「発言を停止するのに権限が必要ですか」

「記録上は物品だ」

「記録を読むことと、同じ語を選ぶことは別です」

 右踵金具が一度、床を打つ。

「……夜獣は、保管区」

 訂正。

 小さい。

 だが本人は、目の前で呼び方を選び直した。

「保管区の位置」とハル。

「回答できない」

「生存」

「確認時、呼吸あり」

「いつ」セレナ。

「二巡前」

「二巡は、今から二十六分四十秒前?」

「……そうだ」

「餌と水」

「水あり。餌は次巡」

「受領」とハル。

 感謝は言わない。

 監禁を正当化しない。

 同時に、得た現在情報を捨てない。

 小窓が閉じる。

 足音が遠ざかる。

「右踵の人、言い直した」とアムナ。

「責任は残る」とセレナ。

「残したまま、言い直しも残す」

「はい」

 監視窓の死角は、一定ではなかった。

 格子向こうの巡回路は固定環にある。

 囚人房は回転環。

 反転前、監視窓から房の九割が見える。

 七十度で寝台の裏が死角になる。

 九十度を越えると食器棚の裏。

 百四十度では、格子直下に細い三角ができる。

「死角が動く」とエリア。

「見えない場所が、場所じゃなく時間」とハル。

「その言い方は採用」

「褒めた?」

「地図語として」

「感情欄は」

「未確認」

「広いな、その欄」

 セレナは、監視窓の角度を紙へ写す。

 証羽なら映像を何度も戻せた。

 今は一回の観察しかない。

 だから全員で見る。

 ハルは身体の通る幅。

 エリアは角度。

 ロロは歯車拍。

 カイルは兵の視線。

 アムナは音の位置。

 セレナは誰が何を見ていないか。

「一人で全部見ない」とハル。

「それを先に言ったのは、私です」

「確認」

「記録」

 反転試験を一度行う。

 ハルは走らない。

 食器棚からパン屑を落とすだけ。

 七十度。

 監視窓の目は、パン屑を追わない。

 九十度。

 兵の視線が足元へ落ちる。

 百四十度。

 格子直下の三角へ、パン屑が入る。

 兵は気づかない。

「死角、三秒から四秒」とカイル。

「巡回兵の身長で変わる」とエリア。

「今の兵、百七十八前後」とセレナ。

「俺なら通る」ハル。

「身体幅を測る」とエリア。

「今?」

「今」

 赤いマフラーを外し、肩幅、胸幅、腰幅。

 左肩へ負担を掛けない姿勢も測る。

「普通の採寸より恥ずかしい」とハル。

「普通の採寸で死角へ走らないからよ」

「公爵家の仕立て屋にも言われたことない」

「公爵家へ来たことないでしょう」

「これから?」

 エリアの炭が一瞬止まる。

「脱獄後に、必要なら」

「服?」

「話は後」

 カイルが笑いかけ、肋部を押さえた。

「王太子、状態」とセレナ。

「笑い傷一。肋部三」

「笑い傷は医学分類にありません」

「今作った」

「却下」

 死角を見つけた後、セレナはすぐにそこへ人を通さなかった。

「もう分かっただろ」とハル。

「一人の兵、一回の反転、一つの身長で確認しただけです」

「四秒あった」

「四秒あると判断したのは、あなたを通したい私たちです。願望が測定へ混じっています」

「願望を抜いたら、脱獄しなくなる」

「抜きません。欄を分けます」

 彼女は四枚目の紙へ、四角を三つ描いた。

『観測――三・二秒以上』

『推定――四秒前後』

『希望――ハル通過可能』

「希望、書いた」とハル。

「地図ではなく作戦票です」

「紙が違えば希望を描ける?」

「紙の問題ではありません。用途を明示すれば、希望を事実へ偽装せず置けます」

 言葉は、追い出すためだけの境界ではない。

 同じ紙の上に並べても混ぜないための仕切りにもなる。

 第二の試験では、カイルが監視兵役をした。

 窓の高さへ半盾を置き、反転中に視線を動かす。

「人は床へ落ちる物を見る」とカイル。

「訓練された兵は?」セレナ。

「落ちる物を囮だと疑う」

「ならパン屑試験は楽観的」

「僕なら、屑の反対を見る」

 ハルは格子直下へ身体を伏せる。

 カイルは即座に見つけた。

「見える」

「王子の目が良すぎる」

「王宮では、笑顔の人間ほど反対側に手を伸ばす」

「教育が嫌」

「僕もだ」

 第三の試験では、セレナ自身が窓へ立つ。

 左眼だけで見た場合、死角は広がる。

 単眼鏡を使えば狭まるが、回転時の焦点移動が遅い。

「監視兵ごとに違う」とエリア。

「死角ではなく、死角が生まれる条件を使う」とセレナ。

「条件を増やしたら時間がなくなる」ハル。

「条件を知らずに走れば、時間そのものを失います」

「死ぬって言ってる?」

「挟まれます」

「同じくらい怖い」

「怖さを軽くするために言い換えません」

 ハルは赤いマフラーを握り、三度目の反転を待った。

 待つことは、何もしないことではない。

 走り出す癖を止めて、誰かの観測が自分の命へ届く時間を空けることだった。

 監視兵Aが、予定より一分早く戻ってきた。

 左足第二拍が浅い。

 だが呼吸が速い。

 小窓が開く。

「次の点検まで、食事口を閉鎖する」

「理由」とセレナ。

「収容列四で異常」

「異常の種類」

「回答権限なし」

「避難行動へ影響する?」

 兵は答えない。

 アムナが言った。

「名前。もう一度」

「言わない」

「言わないことを覚える」

「なぜ」

「今のあなたが、自分の名前を私たちに渡さないと選んだ。後で誰かが『兵は喜んで名を名乗った』と書いたら、違うと言える」

 兵の目が、初めてアムナを正面から見た。

「覚えて、何に使う」

「公開する前に聞く。生きて会えたら」

「会えなければ」

「誰に、どこまで渡すかを今決めない」

 未来の善意を、現在の同意にしない。

 兵は小窓を閉めかけ、止めた。

「アデン」

 名前が、一語だけ落ちた。

「姓は」セレナ。

「出さない」

「受領。公開範囲」

「この房。記録へはまだ」

 アムナは目を閉じる。

「アデン。もう一度」

「アデン」

「覚えた」

 床にも手にも書かない。

 ハルが聞く。

「異常って、俺たち?」

「まだ違う」

「まだ」

「工具庫の鍵が一つ足りない。上は、収容者が持ったと疑っている」

「実際は」カイル。

「私が落とした」

「なぜ言う」

「落とした責任を、誰かの脱獄計画へ便利に使われたくない」

「拾った場所」セレナ。

「第二横送りの継ぎ目。次の反転で工具庫側へ落ちる」

「見た?」

「落ちるところまで。工具庫へ入ったかは未確認」

 セレナは、名前を記さず事実を紙へ置く。

『巡回兵Aの申告。小鍵紛失は本人の落下事故。位置、第二横送り継ぎ目。到達先未確認』

「あなたを免責する記録ではありません」と彼女は言う。

「分かってる」

「私たちを犯人へしない記録でもある」

「分かってる」

「今後、命令へ従う?」カイル。

 アデンの左足が、二拍目を浅く踏んだ。

「今は巡回する」

「終了」

「次の交代まで」

「何分」

「五十二」

 命令解除まで、ではない。

 本人が数えられる終了時刻へ変わった。

「五十二分後に、もう一度選べ」とカイル。

「王子の命令か」

「提案。拒否できる」

「……覚えておく」

 小窓が閉じる。

 名前を得たことで、兵が味方になったわけではない。

 名があれば責任が明確になるという、単純な話でもない。

 ただ「監視兵」という一つの役の中へ、交代まで五十二分のアデンという人間が残った。